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心の講話

      こころのはなし(第127回)2008.08.15

ことしのお盆の暑さは異常なほどです。連日35度を記録し、お盆の檀家回りは事の外厳しいものでした。檀家回りは棚経ともいいますが、昔は各家に仏壇のほかに精霊を御祀りする精霊棚を作り、その場所にご先祖の位牌をお祀りしました。お坊さんが参りますと家には上がらず、外から精霊棚に向かって回向したものです。それが何時の頃からかその精霊棚が無くなり、家の中の仏壇にお参りするようになりました。仏壇はその家の一番神聖な所にお祀りしますので奥まった風があまり通らない所です。そこでお経を唱えますから今年ほど暑い思いをしたことはありません。家の人は蝋燭の火が消えてしまうからといって扇風機も止めてしまいます。今年のお盆は苦行でした。
 
香川県は7月4日に梅雨明け宣言が出され、その後8月15日までほとんど降雨がありません。四国の水瓶といわれる早明浦ダムも貯水量が減り続け、ついに30%を割り込んでしましました。
その結果、香川用水が第三次取水宣言に入りました。
 早明浦ダムは高知県四国山脈にあります。このダムの水を徳島県に流れる吉野川に流し、徳島県阿波池田にある香川用水の取水口から阿讃山脈を抜けて香川県に引いています。
 
香川県は第三次取水制限を受け、井戸水の水質検査を通常の半額にしました。渇水の長期化、深刻化が懸念される中、市民に身近な水源の有効利用を呼びかけています。2005年、2007年の大渇水時と同様の措置。高松市渇水対策本部が解散するまで継続されます。
 また県では香川用水の第三次取水制限を受け、県は緊急支援策として18日から中小企業向けの緊急融資を実施する。(8月14日付けの四国新聞)とあり、渇水が市民生活に重大な影響を及ぼしています。
 しかし、香川県民は渇水でもあまり慌てた様子が見られません。いつも断水の際になって、台風が来て一度で早明浦ダムが満水になった事もありますし、また何とかなると考えているのかもしれません。ところが農家の方は深刻です。水不足になって畑の野菜が枯れてしまいます。結局は野菜が高くなり、一般家庭の台所を直撃します。原油高によっての物価の値上がり、さらに野菜類の値上がりで家庭でのやりくりは大変だと思います。

人間というものは勝手なもので、梅雨に入ると早く梅雨が明けてほしいと思うものです。梅雨は本当に鬱陶しいですよね、毎日じめじめとして何でもカビが生えます。普通つゆを梅雨と書きます。梅の実が黄色く熟すから梅雨とかいてつゆ、もう一つはカビが繁殖するので黴雨と書いてつゆと読みます。黴はかびという字です。黴が繁殖する時期なので黴雨と書いてつゆと読ませています。また五月雨(さみだれ)もつゆです。五月雨のサは五月、ミダレは水垂(みだれ)の意味です。このさみだれは陰暦の五月頃に降る長雨ですからつゆの時期です。ですから五月雨は梅雨を指し、芭蕉は奥の細道で「五月雨をあつめて早し最上川」と詠っています。
 これからは鬱陶しい梅雨だと嫌わずに、この梅雨も天の恵みと感謝したいものですが、喉もと過ぎれば熱さを忘れるで、苦しかったことも過ぎ去れば全く忘れてしまいます。いま香川県民は渇水で苦労していますが、水の有難さをしっかりと胸に刻んでおきたいと思います。

       
      こころのはなし(第126回)2008.08.01

心の講話の123話で夏安居(げあんご)についてお話をいたしました。インドの雨期は約3ヶ月続くといわれています。お釈迦様の時代、その雨期の時にインド各地を遊行していた僧侶たちが僧院に帰り、静かに修行しながら過ごします。雨期の期間安らかに居住するので夏安居、または安居と申します。なぜこの雨期の時僧院で修行するのかと申しますと、雨期の時はたくさんの虫たちの活動、繁殖の季節でもあります。そのような時に僧侶が野山、または平地を歩くと、その虫たちを踏み殺すこともあろうかと思います。また、毒虫もいるかも知れません。毒虫に刺される危険性もありますので、この雨期の期間中だけ、僧侶が一堂に集まり静かに修行をするのです。

 仏教では生きとし生ける命をむやみに損なわないということが根本原則です。人間の命はもちろん、あらゆるいのちあるものあるもの、また非情(感情を持たないもの)例えば草木などです。そうしたすべてのものに限りない愛情をそそぎ。すべてのいのちを大切にする。これがみ仏の教えです。

私たちが僧侶になるために修行しますが、その修行の期間中、御仏さまにお供えする清水(せいすい)を夜中の丑の時(夜中の2時)丑三つ時に伽藍の中にある閼伽井戸(あかいど)に汲みにまいります。閼伽(あか)とは清らかな水という意味と、仏前に供えるものという意味です。伽藍(がらん)とは僧侶たちが住んで仏道を修行する、清浄閑静な所を指しますが、後に寺院の建造物の称となりました。その清水を伽藍にある井戸に二人の僧が汲みにいくのです。井戸に到りますと、般若心経と唱え、水神様の真言を唱えてから静かに釣瓶を下ろし、清水を汲み上げます。
この閼伽井戸に夜中の2時に汲みに行くのには理由があります。
この丑三つ時がもっとも水が澄みわたるときなのです。
 水が澄みわたるということは水の中に居るであろう微生物も静かに寝ている時でもあります。その微生物が寝静まっている時に静かに水をくみ出すと、その微生物のいのちを損なわなくてすむわけです。さらに桶に汲んだ清水を道場にある流し場で、白の晒し木綿で水を濾します。これは静かに汲んで来た水の中に微生物が入っているかもしれない、そこでそのいのちを損なわないように木綿の布で濾し、濾した布を再び水の中で漱ぎ、微生物を逃がしてあげるのです。しかし、私たちの肉眼ではその微生物は見えませんけれど、尚且つ生命を尊重する意味からこのような作法を淡々と行うのです。
 また真言宗では錫杖(しゃくじょう)という仏具を使います。木の持ち手の上に金の輪が幾つもついていて、この錫杖を振るとジャラジャラと音がいたします。現在は般若心経を唱える時などに錫杖を振りリズムを取ったりします。この錫杖は本来僧侶が旅をするときに杖代わりに持って歩くもので、錫杖の頭の金の部分がジャラジャラとなると道に這っている虫たちがその音に驚いて逃げ出します。これはむやみに殺生をしないための配慮なのです。仏教がいかにものの命を大切にしたかお分かりいただけたと思います。

 

       
      こころのはなし(第125回)2008.07.15

今年は四国での梅雨明けが早く、連日30度を越す猛暑です。湿度も高く法衣を着ける我々には過酷な日々です。先日7日から9日まで爽やかな信濃路を車で走りました。
信州は母の故郷です。一度ゆっくり母の故郷を訪ね、母が女学校時代によく登ったという駒ケ岳に行ってみたいというのが永年の夢でした。母は平成4年に亡くなりましたが、亡くなるまで病室のベットのところに駒ケ岳の千畳敷から見た宝剣が岳の写真パネルを置いていました。亡くなるまで望郷の想いがあったのでしょう。
 
 その母が登った駒ケ岳に一度登ってみたいという思いを私は持っていました。ちょうど駒ケ岳の麓の駒ヶ根市に、叔父、叔母が健在ですし、従兄弟たちが居りますので、家内と二人で自家用車で行くことにいたしました。
 朝の7時に家を出発して一路長野を目指して高速道をひた走りに走り、淡路島の明石大橋の近くにあるパーキングに入り一休み、再び走行開始して琵琶湖を見渡せる大津パーキングに入り、名神高速を走り、さらに小牧を通り恵那峡パーキングに入りました。
ちょうど昼時でしたので昼食を取りました。私は大の蕎麦好きですので蕎麦を注文しました。寺にいれば私は必ずというほど自分で蕎麦を茹で食します。讃岐は皆さんもご存知の通り、讃岐ウドンが名物です。確かに讃岐ウドンは美味しいですが、食の回帰現象でしょうか、今は無性に蕎麦が食べたいのです。現在は岩手県の蕎麦を取り寄せていますが、自分で蕎麦打ちをしたいと思い、何回もチャレンジしましたが納得できるものが出来ず、最近簡単に手順だけ踏んでいけば打てる蕎麦打ち機械を購入しました。
ところが最初は何回かこの機械で打ちましたが、製麺する時間が三,四十分かかりますので面倒になり、最近では取り寄せの生めんを食しています。
さて、昼食を済ませて一気に駒ヶ根インターまで走り降りたところで従兄弟が出迎えてくださいました。
真っ先に叔父さんの家を訪問、しばらくお話して飯島町の叔母の家に行き、夕方から従兄弟たちも集まり会食をしながら談笑ました。その夜は中央アルプス駒ヶ根高原リゾートリンクスという素敵なホテルに宿を取り、露天風呂に入り高原の空気を胸いっぱいに吸い込みました。

翌日起きてみると雨が降っています。結構激しい雨なので駒ケ岳に登るのは無理かなと思っていましたら従兄弟夫婦が迎えに来てくださり、タクシーで1662メートルのしらび平駅に到着、ここから駒ケ岳ロープウエィで一気に終点の千畳敷駅に到着です。
この千畳敷駅の標高が2612メートルです。まだ残雪が残り、桜の花が咲いています。気温13度、下界とは全く異なる景色です。周りを眺めると駒ケ岳、中岳、宝剣岳、などが一望できて、8月になるとこの千畳敷が高山植物の花でいっぱいになるそうです。
母が何十年前に駒ケ岳に立って見た景色をいま私が見ている。
 何十年前に母がこの場所に立って踏んでいった同じ石を私が踏んでいると感じた時、思わず涙が出ました。その日の昼に下山、次の目的地の中野市に向かいました。


 

 

       
      こころのはなし(第124回)2008.07.01

今月17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道したことについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」と強く抗議した。
 「死に神」と鳩山法相を表現したのは、18日付朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」。約3年の中断を経て死刑執行が再開された平成5年以降の法相の中で、鳩山法相が最も多い13人の死刑執行を行ったことに触れ、「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」とした。
 会見で、鳩山法相は「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。http://blog.goo.ne.jp/kazu4502/e/22584ccfe723d622d4512f8e12135116
上記ホームページ引用。

とあり、物議を醸し出しました。皆さんは死刑執行に対してどのような意見をお持ちでしょうか。日本は法治国家です。国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家です。法によって国家の秩序が守られ、国民の平和と安全が保障される社会です。法務大臣が刑の執行にサインをするということは当然ありうることです。それを死神と表現する朝日新聞が間違っていると思います。
 しかし、生命の問題から死刑賛成か、反対かということはそれぞれ個人が重く受け止めなければならない問題です。
それでは、仏教ではどのような立場を取るか宮坂宥勝氏(注1)の著作現代人の仏教2、「真理の花束法句経」に次のように書かれています。仏教は死刑反対の立場を取ります。その根拠となるのが法句経の129番です。
 「すべての者は、暴力に怯える。すべての者は、死を恐れる。自分に引き比べて殺してはならぬ。人をして殺させてはならぬ。」です。
経典の中にこのようなことが出てきます。あるとき、一人の比丘が、比丘というのは男子の修行僧を指します。この比丘が刑場にいって、行刑者に、「彼を苦しめてはならぬ、一撃で殺せ」と言いました。行刑者はその通りに一撃で刑人のいのちを奪ってしまいました。この比丘に対して、釈尊は教団追放を命じました。法句経に「人を殺させてはならぬ」とあるのはこれで、それは最も重い罪に問われるのです。仏教の死刑反対はその深い生命尊重の念に根ざしています。
 いかなる理由があろうとも、人が他のものを殺し、あるいは殺させることは赦されません。その根拠は「自分に引き比べて」という事にあります。自分が殺される立場にたった場合に、どうして他人を殺すことが出来るであろうか。これこそが仏教人道主義(注2)の根本原則であると述べていています。
 我々は自分の命や他の命、またこの地球に存在する生きとし生けるいのちの大切さを自覚しなければなりません。
 
注1 宮坂宥勝 1921年長野市に生まれる。東北大学文学部印度学科卒業 
文学博士 サンパウロ大学客員教授 名古屋大学客員教授 1999年
真言宗智山派管長 総本山智積院化主に就任。
著書 仏教の起源 インド学密教学論考 ブッダの教え、スッタニパータほか多数。
注2 人道主義 人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段として非人間的なもの(例えば残酷行為)を排斥する。博愛主義とほぼ同義。
 

       
      こころのはなし(第123回)2008.06.15

お釈迦様の時には「夏安居(げあんご)」という期間がありました。夏安居というのは「安居(あんご)」ともいいます。
この安居は一定の時期を定めて、静かな僧院で道心を養い、瞑想をしたりして過ごします。本来雨期のことをさしますが、インドにおいては雨期は夏であり、雨期の間に安らかに居住するのでこの名があります。

 この安居は雨期の期間中は特に虫や昆虫、生きものの成育のときです。修行中の僧侶が虫などの生命を損ない傷つけるかもしれません。そこで雨期の期間は遊行に出ていた僧侶が僧院に帰り、その僧院で瞑想をしたりして雨期を過ごします。

この安居に二種類あります。前安居と後安居です。前安居とはインドの暦で4月16日に安居に入り、7月15日に終わる。後安居は5月16日に始まり8月15日に終わります。特に翌日の8月16日は自恣(じし)の日といたします。自恣とは夏安居(げあんご)の最後の日に、集まっている僧が互いに罪過を指摘し、懺悔(さんげ)する日です。懺悔とは過去の犯した罪を神仏や人々の前で告白をして許しを請うことです。要するに反省の日です。

安居はインドにおいては釈尊以前からバラモン教徒の間で行われていたといいます。日本においては聖徳太子、大和に安居院を建て、僧侶を安居せしめたといいます。また日本書紀には天武天皇即位11年の夏、はじめて僧尼を宮中に請じ、安居せしめたとあります。

真言宗においては弘仁4年(813)淳和天皇のとき、教王護国寺(現在の京都東寺)で安居会(あんごえ)が始まりました。ことに弘法大師の上奏により毎年恒例として行うようになりました。
和歌山県高野山ではこの伝統を引き継ぎ、毎年7月25日頃に
安居会がはじまり、各地から集まった僧侶が下界の暑さを忘れ、涼風の中で勉学に勤しみます。

特に坊さんの世界では昔から梅雨の時期である6月に研修会がよく開催されます。これは安居会の伝統を引き継ぐものと思われますが、一方梅雨の時期は田植えがあり農繁期の時です。農繁期はあまり法事などがないということで研修会はこの時期に集中します。

私は6月に入り、東京高輪にある高野山東京別院で開催された
研修会に参加いたしました。研修のメインテーマは「マンダラ〜その命にかえる〜」です。
基調講演に筑波大学名誉教授村上和雄先生が「命の暗号」と題してお話くださいました。先生は83年に高血圧の黒幕である酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功し、さらに99年にはイネの遺伝子解読に成功し、日本を一気にこの研究のトップへ押し上げました。マックスプランク研究賞、日本学士院賞等を受賞されています。
先生は私たちの命は38億年前に誕生し、たった一個の細胞が今日までその命が途絶えることなく続いている。私たちはサムシング・グレート(大いなる存在)によって生かされている。また大いなる存在がなければ生きられないというお話をされました。
真言宗ではこれを大日如来の大いなる命と説きます。まさに村上先生のお話は密教の教え、弘法大師さまの教えそのものです。1200年前弘法大師は宇宙の真理を理解しておられたことに、改めて感動を覚えました。

 

 

       
      こころのはなし(第122回)2008.06.01

今月の言葉は江戸時代の初期、寛永7年に生まれた貝原益軒の書いた「養生訓」の中の言葉です。貝原益軒は儒学者として、また医者として福岡藩に重用された人です。この養生訓という書物は、83歳の時の著作です。この養生とは生を養うこと、自分の生命をていねいに養って、与えられた人生を全うする、ということです。今月の言葉は養生訓のなかの一文です。
 人間には、喜ぶ・怒る・うれう・思う・悲しむ・おそれる・驚く・にくむ・楽しむ・ほしがる・愛するなど、さまざまな感情がある。この中で、最も品性を傷つけ、生命をそこなうものは、「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つである。とあります。
品性とはその人のひとがら。人品。人格です。その人の人格を著しく傷つけるものは「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つだというのです。
 正しい宗教には必ず宗教道徳というものがあります。よく知られているのが戒律です。戒律というのは自己に対する戒めです。自発的に規則を守ろうとする心のはたらきです。その戒めが生活の正しいリズムを生みます。よく勘違いするのは、信仰をしていたら災難がなくなるとか、悪因縁が断ち切れるとか、現世利益だけを考えますが、それは間違いです。宗教は正しい心の有り様と実践を求めます。その目的はより最高の人格形成をすることにあります。信仰していたら災難を逃れられるなどということはありません。病気になる時には病気になる。死ぬ時には死ぬのです。しかし病気になった時に、絶望することなくその病気を受け入れ、こころの有り様によって生きる希望を見出し、心の安らぎを得ることが出来ます。
 ひろ さちやさんの著書(読売新聞社)に「曼荼羅人正論」の上巻にこのようなことが書かれていました。ある仏教学者の家が、隣の家からのもらい火で全焼いたしました。彼は蔵書のすべてと、研究ノートや原稿を失いました。しかし、その火事の数ヵ月後、講義のとき彼は教え子たちにこう語りました。「今度の火事で、私はいろいろ学ばせていただいた。わたしの場合、隣からの類焼だったから、最初は「焼かれた」と思った。しかしね、「焼かれた」と思えば、やはり腹が立ち、復讐の心が起きる。
で、そうではなくて、「焼いた」と思うことにした。自分で焼いたと。でもそう思うと、心が暗くなって、やりきれなかった。
そこで、「焼かれた」でもなく「焼いた」でもない、ただ「やけた」と思うことにした。そうすると、事実をありのままに、淡々と受け入れることができる。自分も他人も損なわないですむ。こんなことを、こんどの火事で学びました・・・」
すばらしいものの見方であり考え方です。正しい宗教というのは私たちのものの見方、考え方を変えることだと思っています。私たちはいろいろなこだわりを持ってものを見ていますが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教であると言われています。
「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つの見方はこだわりから起こる心の一つの姿なのです。

       
      こころのはなし(第121回)2008.05.15

薫風南より来るという言葉があります。まさにこの言葉がぴったりの季節になりました。この二三日肌寒い日がありましたが、これから日一日と気温が上がり夏に向かっていきますが、身に付ける衣服も春の衣装から夏衣装に替わっていきます。
これから衣装が夏物になると気になるのがお腹の出具合です。昔はお腹が出ているのを社長腹といって、一種の貫禄・風格ととらえていましたが、最近ではお腹が出ていると最悪のように言われます。
 
このお腹の出ているのは内臓脂肪が蓄積されたものですが、この内臓脂肪の蓄積によりお腹のまわりに脂肪が付き、お腹が突き出て見えます。それだけならまだ良いのですが、内臓脂肪の蓄積によってさまざまな病気が引き起こされるといいます。このような状態を「メタボチックシンドローム」といい簡単に「メタボ」といっています。脂肪がどの部分につくかによって肥満は二つのタイプに分かれるといいます。
 下腹部や腰まわり、太もも、お尻のまわりの皮下に脂肪が蓄積するタイプ、これを「皮下脂肪型肥満」内臓の周りに脂肪が蓄積されるタイプを「内蔵型肥満」と呼ぶのだそうです。この二つのタイプのうち「皮下脂肪型肥満」のお腹は前に出ていますので外見からわかりやすいのですが、「内臓脂肪型肥満」は外見ではわからないことが多いといわれます。
 内臓脂肪型肥満を簡単に調べる方法として、ウエスト径、ウエスト径というのは臍まわりを測って何センチあるかということです。男性では85センチ以上、女性では90センチ以上であれば内臓脂肪型肥満が疑われるといわれております。
 
 厚生労働省の平成16年国民健康・栄養調査によると、40歳から74歳において男性の2人に一人、女性の5人に一人がメタボリックシンドロームか、その予備軍であるということが報告されています。さて、何隠そうこの私が昨年の春の健康診断で、臍まわりが86センチありメタボと診断されました。その時の体重が65キロでした。正直ショクを受けました。これは改善しないといけないということで、スポーツセンターに行き、ランニング30分と自転車のマシンで30分間の運動と、三食の食事を少なくして4ヶ月間で成果が現われ、現在体重57キロ、臍まわりが76センチまでになりました。

生活習慣病の主な疾患に肥満症、高血圧、糖尿病といわれますが、この原因は過度の飲食にあります。わかっていても美味しいものについ手が出てしまいます。何とかこの食欲を抑えないとまたもとの体形に戻ってしまいます。しかし欲を抑えるというのは大変なことです。ダイエットを何回チャレンジしても成功しないのは欲望を抑えることが如何に難しいかということです。

 江戸時代の儒学者で貝原益軒という方がいらっしゃいました。彼は83歳の時に養生訓という書物を書きました。「養生」とは自分の生命を丁寧に養って、与えられた人生を全うするということです。この養生訓に「飲み食いの栄養となる成分は人が生きていくためのただ一つのおぎないである。一日も欠かすことはできない。しかも、飲食は口や腹が欲する人の大欲である。だからこそ、つねに慎んで欲をこらえなければ節度を越してしまい病を生ずることになる」と説かれています。

欲望とは欲しがることです。また欲しいと思う心です。食欲・性欲・睡眠欲・出世欲・権力欲と欲にも色々あります。欲というのは持てば持つほど欲しくなり、買えば買うほど欲しくなり、手に入れれば手に入れるほどに欲しくなるのが欲望の本質です。
今の日本はすべてにおいて豊かさを享受しています。このような時代にこそ「小欲知足」欲望を小さくして、足りることを知ること、満足をするという生活を実践すべきです。

       
      こころのはなし(第120回)2008.05.01

よく今頃の季節になると床の間に「薫風南より来る」という一行が掛けてあるのを見かけます。出典は圜悟語録(えんごごろく)に見えます。正しくは「薫風自南来 殿閣生微涼」です。(くんぷうみなみよりきたりてでんかくびりょう)と読みます。
 爽やかな初夏の風が南より吹き来たり、宮殿にかすかな涼しさが生まれるという意味です。
 雲門文偃(うんもんぶんえん)という僧が、ある僧から「如何なるか是れ諸仏出身の処」(もろもろの仏が現出するとはどのような境地ですか)と問われて「東山水上行」(東山が水上を行く)と応えたのに対し、後の宋代の圜悟克勤(えんごこくきん)は、自分なら「薫風南より来たりて殿閣微涼を生ず」と応えるといったというのです。この語は決して季節を言っているのではなく、悟りについて述べたものですが、現在は薫風とあるので、若葉薫る今時分の言葉として捉えて床の間に掛けていますが本当は間違いです。
 しかし、真意はどうあれ五月の風薫る今の季節としては最も相応しい言葉です。私も二三日前に知人に手紙を書きましたが、始めに薫風南より来るの如く好季節となりました、と書き出しました。これはあくまで転用で本来の意味とは全くかけ離れたものです。本当の意味を知らず間違って使っていることがよくあります。

例えば不思議という言葉でもそうです。よく考えても原因・理由がわからない、また解釈がつかないことに使いますが、本来は「思議しない」という意味です。意味はあれこれ考えるな、思い悩むなというというのが「不思議」です。
 
また、「無学の人」といえば、世間一般では学問・教養のない人を言いますが、仏教では真理を究めつくしてもうこれ以上学ぶ必要がなくなった人を「無学の人」といいます。
 
言葉の意味を調べると本当に面白いですね。さて、五月五日はこどもの日です。この日を端午の節句といいます。中国では月の初めの午の日、「午」は「五」と音通などにより五月五日を言うようになりました。この端午の節句にはチマキや柏餅を食べますが、チマキは古くは茅(ちがや)の葉で巻いていたといいます。
またカシワモチは柏の葉で包む。カシワは本来、食物をつつむ葉ということで、炊(かし)ぐ意のカシと、ハ(葉)の構成であると、にほんご歳時記(大修館書店・堀井令以知著)に出ています。

       
      こころのはなし(第119回)2008.04.15

4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りでした。お寺でも裏の畑から菜の花や椿の花を取り、花見堂の屋根いっぱいに飾りました。 前夜から家内が甘茶を煎じて参拝者に接待するために用意をいたしました。
 甘茶には肝臓や胃への効果や、消炎、去痰、腫瘍修復作用などの薬効に加え、生薬の苦味を中和する役割もあり、日本では8割以上の漢方薬に配合されているそうです。またヨーロッパではリケリッツィア、リコリス、レグリスなどと呼ばれ、お菓子などに使われることが多いそうです。この甘茶の主原料はアマチャというアジサイ属の植物。砂糖の千倍の甘さを持つ物質を含んでいます。
4月8日多くの方の参拝を頂き、ある方はペットボトルを持参し、「家族の健康のために皆で飲むのです。」という方や屋敷の周りに撒くと不思議に蛇などが入らないので甘茶を頂きますという方もいらっしゃいました。この日は暖かな日和に恵まれ、桜の花が満開ですし、大自然も生き生きと輝いているようでした。
 次の日、6時の鐘を撞いていると、目の前を一匹のツバメが飛び去っていきました。「おや、もう燕が今年も飛来したのかな、いつもより早いのではないだろうか、」?私は燕の飛来は5月頃と思っていましたので、早速に書物で調べてみました。

まず俳句歳時記で燕の季語を調べてみると、燕は春の社日(しゃにち)の頃に来て秋の社日の頃帰るといい、社燕(しゃえん)と言う。とあります。この社日の意味は春分・秋分の後の第五の戌(いぬ)の日、また、旧暦の2月・8月の甲(きのえ)の日ともいいます。土の神を祭って、春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼をする。春を春社、秋を秋社といいます。因みに今年の第五の戌の日を調べてみると4月4日になりますから、私が9日に燕を見たのは早いわけではなく例年通りです。昔の人は季節や鳥の生態までもちゃんと観察していたのだなと感心させられます。
 燕が町々村々を飛び交うといかにも春の到来を感じさせます。
さて、産経新聞に南ひろこさんの漫画ひなちゃんの日常が連載されています。4月10日の新聞には
  おじさん「おっツバメだ」
      「今年もツバメがやってきたのか」
  ひなちゃん「やってきた?」
  おじいちゃん「つばめは暖かくなるとやって来る」
        「そう桜が咲く頃にね」
  ひなちゃん「じゃあお花見にくるんですかね?」
       お花見しながらツバメ前線北上中!?
という会話が出てきます。
漫画家である南ひろこさんは、今頃ツバメがやってくることをちゃんとご存知でこの漫画を描かれたのでしょう。
今年初めて見るツバメを新燕というそうです。俳句の季語では初燕といいます。
誓子の俳句に
      果樹園の刺ある線に新燕
と詠っています。また燕も季語です。芭蕉門下の十哲の第一といわれた宝井其角は
山の端に乙鳥(つばめ)をかへす入日かな
と詠っています。
燕には、つばくろ、つばくら、つばくらめ、乙鳥、玄鳥、といろいろと言い方があります。
地球温暖化がいわれるときにツバメはいつもと同じようにやってきて巣作りをしています。

       
      こころのはなし(第118回)2008.04.01

先週、27日に紀州高野山で研修会があり、前日の26日に高松を出て大阪難波のホテルに泊まり、翌日早朝6時28分発の高野山行きに乗車しました。すでに南海電鉄高野線沿線は桜の花が咲き、車上から見る紀ノ川の流れは春の陽光に照らされてきらきらと光って見えます。電車は高野口駅からゆっくりと山並みを縫いながら登っていきます。終点極楽橋に到着するとやはり平地と違い冷気が漂っています。 ここからケーブルに乗り換え、高野山参上までゆっくりと登っていきます。軌道の周りには蕗の頭が花開き、鶯の初音を聞くことが出来ました。約7分あまりの乗車ですが冷気が霊峰高野山独特の霊気に変わり、信仰の山高野山を実感いたします。
 高野山上駅に到着すると、下りのケーブルを待つ人の多くが外国人の観光客です。高野山も世界遺産になってから急に外国人旅行者が増えました。その理由は関西国際空港から高野山が近い位置にあることが挙げられます。また高野山から奈良、京都と廻る周遊が出来るからではないかと思われます。 いずれにしろ高野山は国際色豊かな山上宗教都市になりつつあります。
 高野山は毎月色々な法会や行事などがありますが、その中で春を告げる法会というとやはり弘法大師正御影供法会(しょうみえくほうえ)ではなおかと思います。この法会は特に真言宗では大切な法会(ほうえ)です。 正御影供とは弘法大師様の御影(おみえ)にお供え物をして報恩謝徳のために勤める法会です。
 弘法大師様は御年62歳で高野山にご入定(ごにゅうじょう)なされました。ご入定とは定(じょう)に入ることです。定とは座禅をしたまま永遠に仏の世界にお入りになることです。弘法大師様は入定したのち永遠に亘って悩み苦しむ人々を救済すると信じられています。
 このご入定はすでに4年前、天長9年11月12日に弟子たちを集めその志を告げられました。
これより米麦を召し上がらなくなり、野菜や木の芽をお召し上がりになり、もっぱら座禅の日々が多くなりました。
 以後、前年まで宮中で秘法を修し、また奈良唐招提寺の写経供養会の導師をつとめ、さらに比叡山西塔院落慶供養をおつとめになり、その年の11月15日弟子たちをふたたび集め、明年3月21日に入定することをお告げになりました。

いよいよご入定になります承和2年正月8日から14日までの7日間、宮中真言院において後七日御修法(ごしちにちみしほう)をつとめ、天皇陛下の玉体安穏を祈り、そん後高野山にお帰りになられ3月15日に再び弟子たちを集め、入定が一週間後に迫ったことを告げ、ご入定後の心得をおさとしになられました。

それが終わりましと、香水(こうずい)に身を清められ、住房である一室に入られ、その部屋に香がたかれ、弟子たちは部屋を取り囲み弥勒菩薩のご真言を夜となく昼となく唱え、五日も暮れ六日も暮れて七日目の寅の刻(午前四時)に温容に慈悲の光をたたえながら静かに息が止またのでございます。御年六十二歳でありました。ご尊体を拝しますと、座禅瞑想のお姿でございます。

これより中陰の例にならい追善を営み、四十九日が終わった翌日、五十日目に高野山奥の院の霊窟にご定身をお納め申し上げたのでございます。このご入定された三月二十一日に百味の供物を供え、報恩感謝のまことを捧げるのが正御影供(しょうみえく)でございます。

この正御影供は醍醐天皇が三月二十一日は弘法大師の正忌であるので、真言宗の寺院は以後毎年勤めるように詔を発し、今に至るまでつとめているのです。そして今年の当番会所が弘憲寺に当たり、旧暦の三月二十一日が四月二十六日に相当しますので、その前々日の二十四日から三日間法会をつとめさせていただきます。今その準備に勤しんでいます。
 

 

       
      こころのはなし(第117回)2008.03.15

鐘楼に上がり6時の鐘をつく頃、空は薄明るくなっています。
いつもこの時期になると北に帰る渡り鳥の群れがお寺近くの空を渡っていきます。恰もジェツト機の翼を広げたように隊形を組んで飛んでいきます。本当に近くを飛んでいるので鐘を打つ力を弱めて驚かせないように気を使います。渡り鳥の一団が通り過ぎると必ず列からはみ出たのでしょうか、または遅れて飛び立ったのでしょうか、二三羽の鳥が後を追いかけています。後を追う鳥は遅れまいと必死になって追いかけているのがわかります。
 置いてきぼりにならなければいいのですが、先に行った鳥は遅れた鳥のためにどこかで待つことをするのでしょうか。
色々なことを考えながら九つの鐘をつき終わると丁度6時になります。本堂は5時からの勤行ですので、6時からは持仏堂の勤行が始まります。まだ2週間前は本当に寒い日がありましたが、ここ二三日は本当に春の陽気になり温かくなりました。
 私はここ何年も風邪で寝込んだことがありませんが、先日6日の真夜中に嘔吐、下痢が始まり、また背中の節々が痛くて、朝起きられません。家内の勧めで行きつけの内科に行き、診察をしていただき、4種類の薬をもらい服用後に就寝しました。薬に睡眠薬が入っていたのか、それから次の日の朝まで熟睡をいたしました。
 次の朝に目覚めた時に4歳になる孫が枕元にやってきて、「おじいちゃん、どうしたの、大丈夫?早く良くなってね。」と顔をのぞきこむのです。私は本当に嬉しかったです。
この4歳になる孫は、生まれて2ヵ月後に急性白血病になり、病院に入院し抗がん剤治療を受け、その後徳島大学病院に移り、そこで本格的な治療が始まりました。孫が生後数ヶ月ですので親子共々完全無菌室に入り、臍帯血の移植をしてその後入院が続きましたが、臍帯血の功有り退院することが出来ました。それから孫も元気になったかに見えましたが、定期検査の結果異常に白血球が多く再入院し、次は骨髄移植でないと助からない旨を告げられました。
骨髄バンクには孫に適合する骨髄がありません。やむなく父親の骨髄をもらうことになりました。父親の骨髄は100%適合しません。しかし、緊急のことですし、親の骨髄ですからこれで助かるかもしれないとの判断で父親の骨髄を移植しました。
 しかし、移植してから孫は本当によく頑張りました。吐き気や、下痢が一日60回もあり、お尻は爛れ肛門は潰瘍が出来て排泄するたびに苦しみます。そばで見ていても家族はどうすることも出来ません。また潰瘍を治療する薬も投与できません。孫は本当に苦しかったと思います。しかし、神仏の加護とドクターのご努力で、孫は助りました。
 いま孫は元気よく走り回っています。私が寝込んでいる時に真っ先に「おじいちゃん大丈夫?早く良くなってね」と声をかけてくれたのは、病気の苦しみを経験した孫だったのです。4歳で人の苦しみの心情がわかるのでしょうか。思わず孫を抱きしめてあげました。
その孫が4月から幼稚園に入園します。本当に夢のようです。
 

 

       
      こころのはなし(第116回)2008.03.01

平成八年から三期にわたって、香川県教育委員会歴史博物館建設準備室では、博物館整備に伴う県内寺院の寺社調査の一環として、弘憲寺に伝わる書画・古文書をはじめとする歴史資料の調査をいたしました。
調査の概要の第一期は平成八年十一月十日に青山学院大学文学部教授浅井和春氏の指導のもとに実施した彫刻調査。
第二期は、平成九年七月七日から十日まで、のべ四十七人の準備室職員を投入して行われました。
第三期の弘憲寺調査は報告書作成のための補充調査を実施し特に仏画の赤外線調査をしていただきました。この第一期から第三期に至るまでの調査結果を159ページにもおよぶ報告書を作成していただきました。

特に私が注目したものは、千手観音曼荼羅図(仮称)です。この仏画は収蔵してある長持ち箱の中にあったもので、わたしが住職をしてから一度も目に触れたことのないもので、今回の調査によって発見されたものです。この千手観音曼荼羅は、千手観音と文殊菩薩さらには地蔵菩薩の来迎像を表し、さらに上の方に如来が描かれています。

中央に描かれている千手観音は、踏割蓮華座といって一つの蓮華を割って、それぞれ左右の蓮華の上に立たれ、雲に乗って来迎する様子が描かれています。お顔は本面のほかに両脇面の二面と頭上に十一面があり、四十二本の手にそれぞれの持ち物を持っていらっしゃいます。

さらに、千手観音の右下に描かれている文殊菩薩は、頭に五髻を結び、右手に剣、左手に経典を持って蓮華座に立っています。
地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮華座に立っています。
また千手観音の右上には阿しゅく如来と薬壷をもっている薬師如来が描かれています。特にこの仏画で興味深いのは、桜花が描かれていることと、ところどころに鹿が描かれていることです。
どのような意図で描かれているのかわかりませんが、とても興味深い表現です。また仏画に描かれている仏さまのお顔がそれは丹精に描かれ、その美しさは相当の絵師が描いたものであろうと考えられます。香川県教育委員会歴史博物館建設準備委員会の調査では製作時期は鎌倉時代末から南北朝時代であろうと推測しています。現在奈良にある元興寺文化財研究所に鑑定を依頼しています。もし詳しいことがわかりましたら、このホームページ上に写真を載せ皆様に見ていただけたらと考えています。

 

       
      こころのはなし(第115回)2008.02.15

 数日前に寒気が押し寄せ、大阪や名古屋、東京も降雪を見ましたが、四国高松は天気予報が雪マークでしたが、終日雨が降り
外出に困ることはありませんでした。
 朝起きるときの最低気温が11日で2、5℃ですから底冷えがするほどでもなく、日一日と春に向かっている感じです。
 
今月の19日は二十四節気の雨水(うすい)に当たります。「雪散じて水となる也」というように、雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降りだす頃になります。
 この雨水を目安として農耕の準備をする目安とすると昔からいわれています。
 11日は高松では久しぶりの好天に恵まれましたので裏庭の菜園に行って見ますと、えんどう豆のつるが延びて、白い花をつけています。また畑の隅の方に蕗の頭が顔を出しています。蕗の頭を取り、澄まし汁の中に入れて春の香を楽しもうかと思いましたが、折角寒い冬を耐えてきたのだからもう少しこのままにしておこうと諦めることにいたしました。
 しかし、僅かな菜園であっても十分に春を実感しましたし、満ち足りた気持ちになりました。
 満ち足りた心を私たちは「満足する」といいます。足はたりる。それで十分だということ、過不足という言葉もあります。これはすぎたこととたらないことを意味します。

 青年の船としてチャーターされたさくら丸の船長弓場道義さんは乗船した学生に非常時の心構えとして、「船に荷物を積みすぎると重心が高くて復元力を失ってしまう。これがトップ・ヘビー(注)だ。復元力を回復するためにはいかに高価なものであっても、上層部の荷物を海に捨ててしまわなければならない。日本丸は、それに乗っている国民の一人一人が、いまやトップ・ヘビーになって復元力を失いつつあるのではないだろうか」と警告しています。不要なものをたくさん背負ってイザというとき身軽になって安全な場所に避難することはできない。捨てるのを惜しいと肌身離さず身にまとい、それが重荷になって身動きできない人間はさまにならない。 
 "満足"するとは"足が満つる"と書くように、下方の足に重心がおかれることを言う。と松濤弘道さんは釈尊の名言108の知恵で述べています。
(注)ゴルフ用語、(1)クラブのヘッドが柄に比べて重いことを言う。
(2)頭でっかちな

 

       
      こころのはなし(第114回)2008.02.01

 1月の17日は阪神淡路大震災13回目の慰霊の日でした。6、434人の方が亡くなられ、行方不明者が3人、家族、友人、知人と多くの方々が、悲しい思いでこの日を迎えられました。
私はこの大震災の時には和歌山県高野山の大師教会という所に居ました。朝仏前で勤行(おつとめ)をはじめた時に、衝撃的な揺れを感じました。広いお堂の中は須弥壇があるだけの広い空間です。このお堂を支えるために何本かの一抱えもある柱があるだけです。天井から何百という信者の方が寄進した燈籠が下がっています。この燈籠がガシャガシャと音を立てはじめました。
はじめ地震だとはわからず、天井を見上げた時にこれは地震だということをはじめて認識しました。私の上には天蓋という大きな仏具が下がっています。もしこれが落ちてきたらひとたまりもありません。
しかし、咄嗟にどこに逃げたらいいのかわかりません。じっとそのまま座っていましたら、振動はだんだんと弱くなり、静かになりました。お蔭で高野山は目立つほどの被害もなく済みましたが、
淡路島、兵庫県には多くの真言宗寺院があり、それらの寺院の被害状況がわかりませんし、その状況を調査しなければなりませんので、急遽数人の人と一緒に淡路島に向かいました。その状況は惨憺たるものでした。一ケ寺一ヶ寺を見舞い励ましの言葉をかけて高野山に帰りました。
 私もこの震災の後平成9年に高野山を下り、自坊がある高松に帰りました。この平成7年1月17日は生涯忘れることはないと思います。それは震災の日、1月17日が私の誕生日だからです。ちょうど53歳の時でした。あれから13年経ちました。
 昨年末に香川県公安委員会から免許証の書き換えの案内がありました。更新は誕生日の一ヶ月前から受け付けるというので、年末の方が逆に混まないかもしれないと、12月17日に行きました。
 更新のための手続きを終え、視力検査も済み、免許証の写真を撮影してもらい、講習会場に進もうとした時に、新しい交通法規の教科書をもらい古い免許証を提示した時に、この免許証にスタンプでSマークを押されました。
「このSマークは何ですか」と尋ねましたら、「これはシルバーマークです。高齢者の印です」というのです。「シルバーマークの方は講習の会場が違います。3階の教室に行って下さい。」というのです。促されるまま教室に入り、高齢者講習を1時間半も受講いたしました。「やれやれこれで新しい免許証をもらえるのだな」と思っていましたら、再び案内があり、隣の教室に移動してくださいというのです。案内された教室は、車の運転席が何10と用意されていて、まるでゲームセンターのようです。その運転席に座り、車の運転のシュミレーション(擬似体験)をするのです。
運転台の前には画面があって、道路が表示されています。その道路にしたがってハンドル操作をするのです。
また道路わきから子どもが飛び出してきますので、ブレーキをかけ減速したりします。また夜道で白いシャツを着た人が歩いてきます。人がいると感じたら思い切ってブレーキを踏みます。
その人の前方で停車します。次に夜道に黒い洋服をきた人が歩いてきますので、気がついたら思い切りブレーキを踏みます。
 ところが私は黒いシャツの人がわからず跳ねてしまいました。
私は自分の運転能力には自信があって、絶対自分は運転技術とか反射神経は大丈夫と思っていましたので、この模擬運転での結果には少々ショックでした。
阪神淡路大震災から13年、まだ若いと思っていましたが、いつの間にかSマークを押される年になりましたが、目的を持ってしっかりした歩みを進めていきたいと思います。


 

       
      こころのはなし(第113回)2008.01.15

 お寺の裏庭に水仙が満開です。真っ白な水仙や、花の額にあたる部分が黄色のものなどが冬の日を浴びています。また日陰のほうに目を移すと、白や赤い椿が咲き始めました。
いつもの年より少し開花が早いのかなと感じますが、これも温暖化の所為でしょうか。
 今年2008年は主要8カ国の首脳が集まる洞爺湖サミットが開催されます。サミットとは山などの頂上を意味します。これを広義に解釈しまうと世界を牽引する主要8カ国という事になるのでしょうか。
 主要8カ国、G8と呼ばれアメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、ロシアです。この主要国首脳会議の主要議題は地球環境問題だといわれています。
 いま地球環境は危機的状況にあるのではないでしょうか。特に地球温暖化です。この地球の温度が上昇すると色々な弊害が生じます。旱魃や異常気象です。大洪水が起こったり、旱魃になったり、砂漠化も考えられます。生態系が変わります。また農作物に被害が出ます。北極の氷が解けて海水の上昇があり、海抜の低い土地は海に埋没してしまいます。 このように地球破壊は確実に進行しています。
 私は早朝に起床して本堂で勤行をします。今から10年も前ですと冬の時期に暖房のない本堂で長時間座っていると足のほうから底冷えがして、手でも悴んでしまいましたが、最近は大寒を過ぎてからも12度ぐらいの温度ですから、最近は手が冷たいと感じたことはありません。以前と比べたら温暖化は進んでいます。
 朝日新聞の世論調査ですが、いまの地球を「病んでいる」と感じている人は4人に3人、特に地球温暖化を「心配」とする人は9割を超えています。
 いま国民の大多数の人は地球温暖化に対する危機感を持っています。しかし、京都議定書で義務づけられた温室効果ガスの削減目標が達成できません。
この地球環境の悪化は人間の業によって引き起こされました。
「業」とはサンスクリットでカルマといい、人間の行い、行為をいいます。地球環境の悪化はすべて人間の行為から引き起こされたものです。
 この人間の行為は心の有り様によって起こり変化します。この心に最も害になるもの、毒になるものが三つありますので三毒といいます。この三毒とは貧(とん)瞋(じん)痴(ち)です。
貧とは貪り、欲張ること、欲が深いことです。瞋とは腹を立てることです。腹を立てると頭に血が上ってカーとなり、分別を忘れてしまいます。喧嘩は腹を立てるから起こるのです。痴とは真理を知らないことです。この真理を知らないことによって迷い苦しむ。これを無明ともいいます。
 さて、話は元に戻りますが、地球環境が悪くなる、地球温暖化などはみな三毒のうちの貧(よくばり)のこころに起因するのです。人間は京都議定書で温室ガスの削減目標が定められているのに逆に排出量が6,4%増えるなどしているのは、人間の貪欲なまでの貪りの心によるのです。1月9日の産経新聞「正論」で作家の曽野綾子さんは「どこまで恵まれれば気が済むのか」と言われていますが、人間の貧欲は行き着くところを知りません。いま一番必要なのは小欲知足、足ることを知るということではないでしょうか。

 

       
      こころのはなし(第112回)2008.01.01

新年明けましておめでとうございます。
 皆様には恙無く新年をお迎えのことと思います。

弘憲寺ホームページも平成3年から始めましたので丸5年になり、6年目に踏み出したわけです。ことしも何とか続けられたら幸いです。
昨晩は除夜の鐘を突きながら新年を迎えました。大晦日の除夜の鐘を撞く頃には大勢の参拝客がこられ、寒い中にもかかわらず行列を成して鐘を撞く順番を待っておられました。
 弘憲寺の除夜の鐘は1人3回づつ撞き、次と替わります。終わった方から本堂に進み、おぜんざいの接待を受けます。2年ほど前までは甘酒を出していましたが、飲酒運転になるのでこれを取りやめ、ぜんざいにいたしました。ぜんざいを食べながら知らないもの同士が「おめでとうございます」と挨拶を交わし、会話が弾みます。お正月ならではの風景です。
 
 さて、今年は鼠年です。これから一年どのような年になるのでしょうか。十二支は子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)です。この十二支はいつの時代に出来たかは定かではなく、すでに殷(いん)の時代には使われていたといわれています。初め十二支は十二ヶ月の順序を示すための符号であったそうですが、子は正月、丑は二月とつけていったようです。
しかし本来の十二支は子(ねずみ)丑(うし)寅(とら)の十二支を子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)申(しん)、酉(ゆう)戌(じゅつ)亥(がい)と読みます。ところがこれでは一般の人は読めません。十二支の名称は、中国歴代王朝の暦を未開の地方に伝えるために、覚えやすい動物の名前を当てはめたといわれています。
  
さて、子は孳(じ){ふえる}の意味で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しています。ですから一月に子が来るということは非常に意味合いとしても芽出度いことです。
12年前、1996年、平成8年の子の年はどのような年であったのでしょう。

わたしたちは12年前というと何も記憶していません。さらに50年前といったら如何でしょうか、このホームページをご覧になっている方で、私はまだ生まれていなかったという人も多いでしょう。ところが50年前、100年前、150年前と50年単位で2000年前までさかのぼり、その年に何があったかを調べてある本があります。その内容を見てみると、今年2008年、その50年前は次のようなことがありました。
50年前
1958年・昭和33年
伊勢丹新宿本店で初めてバレンタンイチョコレートを売り出す。一万円札発行。東京タワー完工式。フラフープ大流行。阿蘇山大爆発。初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」を発売。
歌では「からたち日記」「星は何でも知っている」「有楽町で逢いましょう」などが流行しました。

100年前
1,908年・明治41年
島崎藤村「春」東京朝日新聞に発表。夏目漱石「三四郎」を朝日新聞に発表。国木田独歩没。第一次西園寺公望内閣発足。

150年前
1858年・安政5年
江戸大火。井伊直弼大老となる。コレラ全国に流行。歌川広重没。安政の大獄始まる。江戸大火。西郷隆盛と僧月照と入水(隆盛蘇生)。福沢諭吉、江戸築地鉄砲洲の中津藩中津藩に蘭学塾を開く(慶応義塾大学の始まり)

日本史を50年ごとにさかのぼると色々なことがわかり、これが2000年前までさかのぼって知ることが出来るのは本当に楽しい。よくぞここまで調べたものだと感心させられます。お正月時間に余裕のある方は日本史を勉強されてみては如何でしょう。
 日本史<50年周期>逆引き年表
吉川弘文間編集部{編}
現代こよみ辞典 <編> 岡田芳朗・阿久根末吉


 

       
      こころのはなし(第111回)2007.12.16

15日の晩、高松駅近くのシンボルタワー30階にあるフランス料理の店「アイルス・イン・タカマツ」という所でNHK文化センター高松の主催で、全日本作法会教授の講師の方が本格フランス料理のデナーによるテーブルマナーの講義を頂きました。
 講師の方は私の知人ですので、家内と共に出席をいたしました。
私は西洋料理は結婚式とか、色々な食事会などで食していますが、正式なテーブルマナーは初めてのことでした。
 
 食事の前1時間30分はテーブルマナーの講義を受けました。先ずテーブルマナーの概要、着席の仕方、ナプキンの扱い方、
そしてフルコースのいただき方です。
 はじめにアミューズこれは先付けです。これは簡単に言いますと食欲を起こさせる前菜とでも言ったらよいでしょうか、飲み物はシャンパンのような食前酒です。次にだされたのが前菜、大根の上にフォグラを載せた物、フォグラは世界の三大珍味ですよね、
因みに世界の三大珍味とはフォグラ、キャビヤ、トリフだそうです。また世界の三大料理というと、フランス料理、トルコ料理、中国料理だそうです。日本料理も遜色ないと思うのですが如何でしょうか。
 次に出されたのが魚介類のスープ料理、瀬戸内の魚介と香川県野菜、これが終わるとお口直しでシチリア産レモンのグラニテです。要するのレモン味のシャベットです。
次がメインデッシュの肉料理、和牛フィレ肉のソテー、後はデザートとコーヒーが出て終わりました。
 それぞれの料理ではソムリエの方や、講師が説明をしてくださり、生まれて初めて西洋料理の講義を受けたわけです。

この講義を受けて感じたことは、やはり西洋、ヨーロッパの食文化と東洋の食文化の違いです。
西洋は遊牧民、羊を追って生活する民です。東洋は農耕民族ですその違いが食生活の違いにはっきりと出ることがわかりました。
遊牧民は羊、牛などの動物を食しますから、どうしてもナイフ、ホークを使用します。正式に西洋料理のフルコースを味わうと、陶器の上にある料理を必ずフォークとナイフを使って食べなければなりません。どうもそれが違和感があるのです。日本料理では決して金属を使いません。木とか竹の箸だけです。だからやさしい。料理も自然の食材に合わせて調理します。ここが大きな違いです。
 
 次の講師が「あなたがテーブルに着いているのは、皆さんを楽しませるためです。愉快に振舞って、貴方の役割を果たしてください。陰気はご法度です!」といわれました。
ここも日本の食事と西洋の食事との大きな違いではないでしょうか。日本の食事方法は仏教の教えや、さらに儒教や道教の考え方が色濃く反映しています。まず、仏教では不殺生を固く禁じています。自分の欲望で食べたいからといって、生き物の命をむやみに殺してはならない。と戒めてきました。また食事中におしゃべりをすることを戒めてきました。これは御蔭様の心が働いています。
食事しながらいま食べようとしているものは多くの人の手がかかっている。その来処を考え、感謝しようと教えられてきました。そうした中で、食事中にお話をすることは、多くの人に心を及ぼすことが出来ないからとの理由からです。このように食事の場で、躾としての生活習慣を身につけ、社会性を身に付けていったのです。いま日本文化中で精神性、特にこの食教育が大きく崩れていっています。

 

       
      こころのはなし(第110回)2007.12.01

ウドンの話は一応終わりにして、話を替えたいと思います。
先月10月の中ごろ、高松市の保健センターから高齢者の大腸ガン検査の受診券が送られて来ました。
 掛かりつけの病院に行き、診察券を渡すと先ず検便をしてくださいという。その日の夕方に一度、次の日の朝に一度です。看護師さんから採取用の道具というか、器具というのかわかりませんが渡されました。
 私の小学校の頃は昭和20年代でしたから、検便の道具も今のようなスマートなものでなく、マッチの空箱を使ったように思います。その後小さなブリキの缶を渡されたことを覚えています。
 さて、今回便を採取して病院に持参しましたが、自分は先ず大腸ガンではないと思っていましたから、何の不安も無く提出しました。
 後日、夜8頃病院の主治医から電話があり、「便を検査したところが、便に出血が見られます。紹介状を書きますから総合病院で消化管内視鏡検査をしてください。」とのことでしたので、総合病院と検査日の打ち合わせをしました。その検査の日が11月29日です。検査日まで約一ヶ月あります。今まで自分は腸の中に内視鏡を入れた経験がありません。出血が認められるということはどういうことだろうか。もしかしたらポリープが出来ているのだろうか?出血をしているのだからポリープではなくて、若しかしたら大腸ガンなのかもしれないと、悪いほうばかりを考えるのです。そうすると一層不安が増大し、あまり食欲も湧きません。
どうしても気分が晴れないのです。
 しかし、一ヵ月後の検査ですので、その間の予定は消化して行かなければなりません。仕事をしている時は忘れるのですが、何かにつけて思い出し、不安になるのです。

11月26日から28日まで全真言宗教誨師研修大会が京都の洛北にある大覚寺において行われます。これにも参加しなければなりません。朝6時09分の瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、京都に8時過ぎに着き、そこからバスで渡月橋を渡り、天竜寺前を通り、9時過ぎに大覚寺に到着しましたが、京都は紅葉の時期ということで、どこへ行っても観光客で大変な人です。私の乗ったバスより一便遅れて乗車した友達は、天龍寺の前で車の渋滞で大覚寺まで一時間半かかり、「研修会の開会式に間に合わないかと思ったよ」と言っていました。そんな状況下でもふと大腸ガン検査のことが心をよぎり、また不安になってしまいます。
私は普段からあまり物事に動じないところがあると思っていましたが、ことが自分の体のことになると、この不安が断ち切れません。
 いよいよ検査の前日の晩下剤を4錠飲みそのまま就寝、次の日に10時に総合病院に行き、検査の説明を聞き、次に2リットルの水を2時間かけて飲みました。この水は薄い塩分で、下剤が入っているのでしょう。何遍もトイレに行き、腸にある排泄物を出してしまい午後から内視鏡を入れて検査が始まりました。自分が緊張するのがよくわかります。モニターテレビを自分も見ながら 
腸内の様子を見ることが出来ます。
 2、30分かかったでしょうか、ドクターは検査の終了を告げ、腸内の状況を説明してくださいました。
 お蔭で異常なしということで、一度に緊張が解け、不安もいっぺんに吹き飛んでしまいました。
 人間は不安な事柄に執らわれるとその不安が増大し、苦しみになってきます。苦しみとは自分の思うようにならない感情です。
この執われ、難しくは執着といいます。この世の中には思うようにならないことの方が多いのです。この世の中は思うようにならない世界なのだと知って生きていかなければいけません。
 執らわれない心を説いているのが般若心経というお経なのです。


       
      こころのはなし(第109回)2007.11.15

讃岐うどんの話も連続で7回続きました。うどんの話はいくらでも続けられますが、8回を持って終わろうかと思いますが、讃岐うどんも美味しいからと言っても麺だけ食べたら毎食食べられるわけでもありません。やはり出汁が重要な役割を果たします。
 讃岐では出汁もかけずに麺だけを食べる人もいますが、それはまれなことです。前にも話しましたが、うどんは蕎麦と同じように出汁はかけて食べるかつけて食べるかのどちらかです。
ですからうどんの出汁が美味しさの重要な要素になります。
老僧から昔はうどんはどのようにして食べていたのですかと聞きますと、「讃岐は昔は醤油と味噌は自家製、茹でたてのウドンに自家製の醤油をかけて食べた」という答えが返ってきました。それは美味いはずです。醤油にはその家その家の特徴があり、今市販されているものとは一味も二味も違うと思います。
 今でこそ鰹節や昆布だしを使って出汁を出しますが、昔はそんな材料は贅沢品だといいます。讃岐うどんは今よりもっとシンプルだったといっています。主としてイリコ、(煮干)が使われていました。
讃岐はイリコの生産地です。特に観音寺市沖にある伊吹島のイリコは上質で、今も全国ブランドになっています。
伊吹島のイリコは脂がまわらないといわれ、上等の出汁が出ます。
ところが同じ讃岐でも東讃に位置する引田方面のものは脂が回りやすい。要するに脂が出るとイリコが変質して味が落ちるのです。昔からイリコを買うと必ず紙の袋に入れてくれたものです。
これには理由があります。イリコから脂が出ると紙袋につきます。
脂が付くともう既にイリコは古くなっていると判断できるからです。
 最近うどん屋さんに「出汁の材料は何を使っているんですか?イリコですか、鰹節だけですか」と尋ねましたら、「イリコは使わずカタクチイワシをつかっています」とのことでした。
後は何を出汁として使っているか、どのぐらいの割合で入れるのかは教えてもらえませんでした。これは企業秘密ですよね。
やはりウドンの旨みには出汁は欠かせません。
 これも老僧に聞いた話ですが、出汁はトラハゼを使うという話でした。トラハゼを焼いて天日で干してそれを出汁に使うというのです。ただし、これは漁師所(りょうしどころ)しかしないということでした。老僧は漁師町にあるお寺さんです。
ではトラハゼとはどういう魚でしょうか。島根県太田市静間町和江311上野蒲鉾店ホームページでしらべてみると次のようです。上野蒲鉾店はこのトラハゼを使って蒲鉾を作っているそうです。この上野蒲鉾店のホームページを引用させていただくと次のように書いています。
トラハゼの標準和名は、トラギスまたはクラカケトラギスで、銀白色のキスとは明らかに違い、一見ハゼに似ているために、関西、四国、九州ではトラハゼと呼ばれ、広島ではシマハゼと呼ばれています。
分類 スズキ目トラギス科
別名 トラハゼ、アカハゼ、オキハゼ、シマゴチ、シマハゼ、マダヨソ、ロウグイ
このトラハゼは白身で淡白な味、秋から冬が食べごろ。新鮮なものは天ぷら種にするとよく、塩焼きや酢の物、椀種、フライ、開き干しなどにもされると書いてあります。いずれにしてもまだ食したことがないので、何ともいえませんが、淡白な上品な出汁が出るのではないかと想像します。

さて、最近家庭では椎茸を使って出汁をとりますが、昔は椎茸は贅沢品であったので、ウドンの出汁には使わなかったそうです。現在は昔と違って生活が豊かになり、口も肥え、より美味しくという志向から出汁も贅沢になってきました。


       
      こころのはなし(第108回)2007.11.15

 (1)卓袱台(2)卓袱  この二つの漢字をなんと読むのでしょう。1番がちゃぶだい2番がしっぽくと読みます。1の漢字の台を抜いてしまうと1と2は同じ漢字です。ところが1はチャブ2はシッポクと読むのはなぜでしょうか。
(1) の卓袱台は中国語で矮脚食卓aijiao fanzhuo(アイジアオ・フアンズオ)といいます。矮は背の低い食卓をいいます。
(2) は卓袱 シッポクと読みます。卓は食卓の卓、袱は袱紗(ふくさ)の袱です。これは中国式の食卓を言います。もう一つは八仙卓といって大きな正方形のテーブル、一辺に二人ずつ8人かけられるテーブルを指します。
このシッポクにはもう一つ米の粉、小麦粉を主材料として作った食品という意味があります。これは主としてあんかけそばを指します。この「しっぽく」は現在のベトナム付近の方言であるという説もあります。

讃岐うどんには「しっぽくうどん」があります。これはうどんの中に大根・ニンジン・里芋・あぶらあげを入れた煮込みうどんです。しかし、うどんの上にこれらの具をのせて熱い出し汁をかけたものもあります。本来卓袱うどんの出し汁は関東の濃い味付けではなく、本当に味が薄い出汁です。ですから具に入れた野菜の香りが良くわかります。これを讃岐では卓袱うどんといい、冬の期間食します。ある地区では大晦日の年越しの時だけ作るというところもあります。

この讃岐の卓袱ウドンに対し、江戸では卓袱蕎麦というのがあります。ホームページに麺類雑学辞典があります。このページは日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会
http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/47_01.html

に「しっぽく」の由来が出ています。それによると、江戸時代、蕎麦の種もののなかでもっとも早く登場したのが「しっぽく」である。寛延4年(1,751)脱稿の『蕎麦全書』によれば、寛延ないしその直前頃の延享(1,744〜48)頃に、日本橋の「近江屋」というそば屋がはじめている。また同じ頃、人形町の「万屋」というそば屋もしっぽくをだしているが、これはあまり流行らなかったようである。 

しっぽくとは「卓袱」。元禄(1,688〜1,704)頃から長崎で盛んであった和風中華料理の卓袱料理のことであるこの卓袱料理のなかに、大皿に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上に色々な具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、蕎麦を台に売り出したのが「しっぽくそば」ということになっている。

ただ、幕末ならともかくこの時代に、開港場という特殊な地域で流行った料理を遠く離れた江戸のそば屋が直接取り入れたというのは、少々無理があるといえなくもない。実際、しっぽく料理そのものは享保(1716〜36)頃に京都に移植され、それが大阪をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大阪はいうまでもなくうどん文化圏だとすれば、京・大阪のうどん屋がいち早く卓袱うどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになったと考えるのが自然のようである。とこのように書いてあります。

 さて、それでは讃岐のしっぽくうどんは何時ごろから言われるようになったのかは不明ですが、讃岐では京や大阪よりうどんを食べるの早かったのではないかと思います。しかし、ウドンに野菜を入れて食べるのを「卓袱うどん」と呼ぶようになったのは畿内に伝わってからであろうと思われます。

       
      こころのはなし(第108回)2007.11.01

 讃岐は年間の降雨量が少なく、その上、川が少ないので旱魃になる。また耕地面積が少ないのでお米が取れません。そのような事情からお米は貴重品であったのです。そしてお米には年貢がかかり、麦には年貢がかからなかったから代用食としてウドンが発達し、毎日食べても飽きないように塩加減をしながら打ち込み、腰の強いウドンが出来上がってきました。
 
 最近はオリジナルのウドンが食べられるようになってきました。「釜玉ウドン」といって、釜から揚げたてのウドンに生卵を入れて醤油をかけてよくかき回して食べる。またある店では大根と降ろしがねとを置き、客に大根をすらせ、それを出し汁に入れて食べる「降ろしウドン」。天ぷらを自由にトッピングして、食べるウドンとか、秋の季節になるとマツタケを載せて食べる「松茸ウドン」というのもあります。またセルフで丼にウドン玉だけを入れてもらい、出し汁は自分でかけて、あとは削り節(鰹節)をかけて食べる人や、ウドンの上に天カスを載せて食べる人もいます。讃岐のウドンの食べ方はさまざまです。
 しかし、煮込みウドンは「シッポクうどん」だけです。このシッポクうどんは前にも少し触れましたが、大根、里芋、ニンジン、などを入れて煮込んだうどんです。このシッポクうどんは非常に味が薄いのです。関東の人でしたらこのシッポクうどんを食べたら、「これ味がついているの」といわれるほど薄味です。出し汁にほとんど色がついていないのです。それだからこそ野菜の香りが分かりますし、うどんそのものの味がよく分かるのです。
このシッポクという意味は何でしょうか。
 私の知人に聞いてみますけれどわかりません。そこで広辞苑を引いて見ますと次のように書いてあります。漢字は「卓袱」と書きます。卓は食卓の卓、袱はふくさです。袱紗とはお茶で使う袱紗のことです。なぜこの漢字を「しっぽくと」読むかというと、これは唐音(とういん)です。唐音というのは日本漢字の一つで、宋・元・明・清の中国音を伝えたものの総称です。禅僧や商人などの往来に伴って主に中国江南省地方の発音が伝えられたものです。このシッポクの意味は、中国で食卓の被いのことで、転じて、その食卓の称。卓袱台といいます。もう一つの意味は、蕎麦・うどんの種に松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などを用いた料理をいいます。

 

       
      こころのはなし(第106回)2007.10.01

 前回麦打ち法要のお話を致しました。この法要は浄土真宗だけのものかと思っていましたら、東讃(香川県の東の地域)では真言宗の寺院でも行われていたようです。現在東かがわ市の寺でも行われています。真言宗では麦打ち法要と言わず、麦たたき法要と言われていました。昔は動力がない時には麦の穂を筵の上に広げ、竹竿の先に太さ10センチぐらいの丸太をつけ、それが回転するようになっています。その木の部分を回しながら麦の穂の上に打ちつけ麦粒をとります。この道具をなんと呼ぶのか知りませんが、麦打ち法要の麦打ちの語源になり、麦たたき法要の語源となったのではないかと思われます。真言宗の寺院では麦の穂をたたく時に法要が勤まる。そしてウドンの接待が行われていました。また小豆島では夏場に麦そのものをお寺の本尊にお供えしました。
 
ある老僧にお話を聞くと、「本来讃岐ウドンは太くて短いので、煮込みウドンであった」と言われました。その煮込みウドンが短く太いところから「泥鰌ウドン」と言われていました。ウドンが泥鰌の形に似ていたからでしょう。この泥鰌ウドンが少々なまって、「ドンジョうどん」と讃岐の人は発音します。
現在、泥鰌うどんを出す店を何軒か知っていますが、生きた泥鰌を入れて食すのは後のことと思われます。しかし、泥鰌を入れることによって、よい出汁が出ますし、滋養にもなることなので食べられるようになったのでしょう。その泥鰌も最近讃岐産ではなく台湾や中国から輸入しているものを使うらしいのです。讃岐は川が少ないために多くの溜池があります。そのため池にフナや泥鰌がいましたので、農家の人たちは何かの行事には集まっては泥鰌を獲り、泥鰌うどんを作りました。私も二三度呼ばれたことがありますが、食べるのには少し勇気が要ります。それこそドジョウが丸太(まるた)で入っているのです。この丸太と言うのはドジョウがそのままの姿で入っていることを讃岐ではこのように表現します。
 

また讃岐の郷土料理として、「鮒のてっぱい」があります。「てっぱい」と言うのは「鉄砲和え」から来た言葉でしょう。鉄砲和えはぶつ切りにしてゆでたネギを魚介類・野菜を加えて酢味噌などで合えて料理ですが、讃岐ではこのフナのてっぱいは、大根の千切りに溜池で獲れたフナを用いて、からし味噌で和えて食べる料理です。これが絶妙な味で、本当に美味しく日本酒によくあいます。昔は法事の席に必ずこのフナのてっぱい、醤油豆、ウドンが出されたものです。醤油豆とはやはり郷土料理で、乾燥させたソラマメを焙烙(ほうろく)で煎り、醤油ベースのたれに漬け込み、軟らかくして食べるのです。この醤油豆は作る家々で味が違い、お酒の席にはもってこいの料理です。このような郷土料理も法事の席から姿を消し、家庭でもほとんど作られなくなってしまいました。うどんも家庭で打つということがなくなり、近くのうどん屋でウドン玉だけを買ってきて食べるようになりました。


 

       
      こころのはなし(第105回)2007.09.15

 讃岐ウドンの話も4回目となりました。
私が弘憲寺の住職に就任した昭和43年の夏、お盆経のためにバイクの免許を取得し、盆参りのために檀家参りに行きました。高松に生活してまだ3ヶ月あまりですから、檀家の所在がわかりません。地図を見ながら訪ね歩き、一軒一軒読経してまいりました。
 ちょうど高松の西郊外に鬼無町(きなしちょう)というところがあります。この鬼無町は松の盆栽の生産地で、米、みかん栽培を行っている農村地域です。この鬼無町藤井という集落に寺の檀家が数十軒あります。一軒の檀家さんのお婆さんが、一軒一軒檀家を案内してくださり、大いに助かりました。そのおばあさんは親切にも読経が終わるまで家の外で待ってくださり、また次の家に案内をしてくださいました。このおばあさんは既になくなられましたが、その親切を今でも忘れることができません。
 普通檀家参りして、読経が終わるとお布施を用意してあり、お布施を頂いて次の家に参りますが、この鬼無地区の集落では夏のお盆経に行ってもお布施が出ないのです。始めは家の方が忘れているのだろうと思っていましたら、何件廻ってもお布施が出てこないのです。自分からお布施がありませんよと催促も出来ず、その集落の檀家参りで一軒もいただけなかったのです。
 ところがその集落の最後の家で読経を済ませた時に、その家の主人が、「院主さん、ご苦労様でした。今年も夏初穂(なつばつっお)を近くの製粉所に預けてあるから、粉でもよし、冷麦でもよし、好きな方をお持ちかえりになってください」というのです。
 ところが私はこの意味がわかりませんでした。寺に帰って義母に聞くと、それはこのような意味だよと教えてくれました。
 「昔からこの集落では夏のお盆経は現金のお布施はなく、御布施の替わりに物納でお初穂(はつほ)を頂くのです」。というのです。このお初穂というのはよく神社でお初穂料(はつほりょう)と書いてあります。その年に収穫した麦、お米またその年に取り入れた穀物、野菜、果物などの称です。これを「おはつほ」と読みますが、讃岐では「ばっつお」と発音いたします。夏に収穫する小麦を初初穂を「はつばっつお」発音するのです。
要するに夏に収穫した小麦粉をお布施として頂くことを意味いたします。この習慣も鬼無町にあった製粉所がなくなって終わってしまいました。
 この讃岐は弘法大師生誕の地です。ですからお寺も真言宗が多いと思われるのですが、実は讃岐は浄土真宗の寺院が倍以上あるのです。この浄土真宗の年中行事というのは、親鸞聖人がなくなられたご命日である11月28日の前の21日から28日、浄土真宗東本願寺の寺院では報恩講が勤められます。もう一つは夏に行われる「夏祭り」という行事です。これは11月28日の報恩講を夏の7月28日に行う行事で、「夏祭り」と称し、また別名讃岐の寺院では「麦打ち法要」といっています。
 このときに門徒の方々は、お寺に参拝する時に、夏に収穫した小麦の粉(夏初穂 なつばっつお)を持ち寄り、門徒の方々の手でウドンを打つのです。門徒の人(注1)の手で打ちますから、本当の手作りのウドンです。
 このウドンは先ず太さが不ぞろいです。現在のウドン店のウドンは実に細い、だいたい割り箸を割った一本の太さです。
ところが寺で打つウドンはひどいのになると親指ぐらいの太さのウドンになります。その太く短いウドンが喉を通る時引っかかる。
少し細くなるとのどをすんなりと通っていきますので、これを「喉越しがいい」と表現いたします。現在でも香川県では東の方の地域、(東讃)の浄土真宗寺院で行われていると聞きますが、今ではほとんどの寺院で夏祭りの行事は行っているものの、ウドンを打って接待する寺院はほとんどないと聞いています。
(注1)門徒とはその寺の檀家を指します。特に浄土系では門徒といい、真言宗や禅宗では檀家といいます。

 

       
      こころのはなし(第104回)2007.09.15

前のページで触れた智泉大徳についてお話をしたいと思います。智泉大徳は789年(1218年前)平安時代前期の僧、真言宗を開き、和歌山県高野山を開創した空海の甥に当たります。
父は讃岐滝宮(現在の綾歌郡綾川町)の官使(太政官の使者)で菅原氏です。母は佐伯氏の出身で空海の姉です。

智泉大徳は奈良大安寺を本寺として出家しました。この大安寺は現在でも続いていますが、空海が大学を離れ、山岳修行をしている時に勤操大徳(ごんぞうだいとく)より虚空蔵求聞持法を伝授された方で、この奈良大安寺を拠点としていたお寺です。大同年間の末年ころに空海の室に入り金剛界、胎蔵界両部の大法を受け、弘仁3年(812)12月、京都高雄山寺の三綱となりました。
以後常に空海の側近にあって苦楽をともにして、唐より伝えた真言の教えの宣布の事業を助けました。

天長2年(825)2月14日、高野山東南院でお亡くなりになりました。一説には5月15日滅、37歳の若さでございました。
智泉大徳を大法師とも伝燈大法師ともいいます。
このとき智泉大徳の死を悼んで書いた空海のたっしん文はあまりにも有名で、性霊集八にございます。たっしん文とは法事の際に唱える願文のことです。
このたっしん文を一部紹介いたしましょう。

前略
思うに、今はなき弟子、金剛密教の教えの後継者たりし智泉は、出家以前は、わたしを舅(おじ)とよぶ関係にあった。仏道に入ってからは、私の教えを受け継ぐ最初の弟子となった。親に仕える心をもってわたしにつかえて二十四年。つねにつつしんで、法を習いおさめた。金剛、胎蔵両部にわたり密教の奥儀をあますところなくおさめた。つつしみ深き口に人の欠点をあげつらうことがなかった。人の悪口を言わないのはただ阮嗣宗(げんしそう)だけに限っているのでないことは、この智泉を見ても明らかであった。心の怒りを顔にあらわさず、あやまりを二度と犯さないのは、顔回のみでないことは、この智泉を見ても明らかであった。

きびしく修行をするときも、むつまじく一つ家に住むときも、また王宮に仕えるときも、山中に修行する時も、光と影がよりそうように、常に離れることがなかった。(中略)

文中につぎのように空海は二度にわたって悲しみを表しています。
ああ哀しいことよ。哀しいことよ。この上の哀しさがまたとあろうか。ああ悲しきことよ。悲しきことよ。悲しみのどんぞことはこのことであろう。
さらにまた、ああ哀しいことよ。哀しいことよ。哀しいといってかえらぬこととは知りながら哀しい。
ああ悲しいことよ。悲しいことよ。悲しいといってかえらぬこととは知りながら悲しい。

智泉大徳が亡くなられことが空海にとっていかに大きな悲しみであったかがこの文章からわかります。
空海の手足となってつかえた智泉大徳は空海から真言密教の教えは言うにおよばず、日常生活の事柄、すべてを伝えたのではないでしょうか。そういう意味で、ウドンの製法も伝えたのかもしれません。


 

       
      こころのはなし(第102回)2007.08.15

ウドンはどこから来たのか。こう考えると麺は中国だろうと考えます。さらに辿って行くとシルクロードを西に向かい、ローマに行き着くかもしれません。ここで元高野山大学講師岸田先生の書かれた「うどんはどこから来たのか」を調べてみたいと思います。 
元高野山大学講師でいらした岸田知子先生は主に中国文学をご専門としておられ、私が以前高野山大学の非常勤講師を務めているとき、中国空海ロードをご一緒に旅行したことがございます。
中国空海ロードとは空海上人が32歳のみぎり、中国に密教の教えを求め入唐した際、暴風のために乗船した遣唐使船が漂流し、福州長渓県赤岸鎮(現在福建省)の海口に到着しました。空海はその赤岸鎮から長安(現在の西安)まで2,400キロを走破しました。その空海和尚が歩まれた道を空海ロードといいます。

 そのようなご縁から岸田先生から一冊の本を頂戴いたしました。その本のタイトルが「来た 見た 食った さぬきうどん」です。その中の寄稿として掲載されているのが岸田知子先生の「ウドンはどこから来たのか」です。この本の著者は北野チッパーズUSAです。この著者を説明すると長くなりますので省略いたしますが、岸田先生の文章を引用させていただきます。

 
「そもそも麺という字は麪の俗字で麦の粉を意味する。漢代の文献に「餅は并(へい)なり、麪を溲(こ)ねて合并せしむるなり」とあるように、中国では昔から小麦粉で作る食品を総称して餅(ピン)といった。字は同じでも日本のモチとは違う。現在の食品で言えば、饅頭(マントウ)包子(パオズ)餃子(ギョウザ)焼売(シュウマイ)などはみな餅(ピン)で、中身や形状、調理法によってさまざまな種類がある。餅(ピン)をひも状に伸ばして、ゆでて食べるのを麺条というのが、これは水餃子や?飩(こんとん)「これは日本でいうワンタン」から発達したものと思われる。現代中国の南の地方では、麺条を麺と呼んでいる。」
 
とあるので、麺と言ったら日本人は普通そば、ウドン、ラーメンなどの細長いひも状の麺を想像するけれど、基本的にはどうも違うらしい。しかし、麺といったら麦の粉で作ったものを麺と考えればいいのではないかと思う。

 香川県の人はウドンを弘法大師空海和尚が帰朝したときに日本に伝え伝えたと信じている。しかし本当に空海和尚が伝えたのかというと、甚だ疑問である。だが空海和尚が伝えたのではないと否定する根拠もないのです。ところが岸田知子先生の寄稿文の中で、次のように書かれています。

 「中国の北部ではかなり昔から穀類の粉を材料とした食品を食べていた。しかし、粉を挽くのに人力や牛馬が必要であったため、実は裕福な階層しか食することがなかったのである。ところが、唐代に西方より水車による製粉法が伝わり、大量の製粉が可能になった。また、小麦の栽培面積が拡大し、小麦の価格が下がり、粉食が庶民にまで流行するようになった。唐代後半には都長安のみならず地方でも餅(ピン)を売る店が流行したという。」と書いてあります。これを見ると、長安(西安)に滞在していた空海和尚が餅(ピン)を食していたことは考えられるが、果たして現在の讃岐ウドンのようなものを食していたとは考えにくい。

さらに岸田先生は「日本の麺文化の中で、そばは江戸で発展し普及したため、これに関する本も多いが、ウドンやそうめんの歴史についてはわかっていることが少なく、書かれたものも少ない。そもそも日本では固い小麦を粉にする石臼が発達せず、農家に石臼が発達するのは江戸時代中期以後であるといわれている。」とあるので、これを見る限り空海がウドンを伝えたという説は遠ざかるのではないか。また讃岐では空海和尚の甥に当たる智泉大徳がウドンを伝えたと主張するお寺さんがいらっしゃる。
 


       
      こころのはなし(第101回)2007.08.01

先月法話を頼まれて兵庫県に参りました。法話で開口一番に聴衆に向かって自己紹介から始めて、「讃岐といったら何をイメージしますか」と尋ねました。私は聴衆に期待したのは「弘法大師空海上人生誕の地」と答えていただきたかったのですが、豈図らんや、「讃岐うどん」と答えられました。
 予想していなかった答えなので咄嗟に「讃岐はお大師さまのお生まれになったところです」と話し始めましたが、今や讃岐うどんは全国区になりました。
 私は生まれが神奈川県の藤沢ですので、ウドンというというと代用食というイメージが強いのです。お米が足らないときの代用食です。私が生まれ育った年代は食糧難の時代、お米が足らない分、蕎麦を細かく切って、お米と一緒に炊きこんだ時代でした。それでもこれはまだよい方で、サツマイモを乾燥させ、それを粉にしてお団子状にして蒸かして食べる芋団子を主食にした時代です。
 うどんは煮込んで食べるもの、煮込みウドンと思っていました。私は生まれてから大学を卒業して高野山に登り、修行して高松の弘憲寺に住職として入るまでウドンは煮て食べるものと思っていました。
弘憲寺に入山すると昼の食事は決まってウドンです。寺の門前に中浦というウドン屋があって、ここはウドン粉を練るのに讃岐ウドン本来の作り方である「踏む」やり方を現在まで行っている正調讃岐ウドンの店です。門前にある店ですから昼時になると中浦に飛んでいって、食べる分だけ買ってくる。要するに出来たてのヌクヌク(あたたかい)ウドンです。
讃岐ウドンの基本はウドン、つけ汁、すり生姜、細ネギです。これを基本として丼に入れたうどんにだし汁をかけるか、蕎麦猪口にだしを入れ、ネギ、すり生姜を入れてつけて食べる方法です。ところが藤沢育ちは蕎麦が主で、ウドンを食べる習慣があまりなかったものですから、先ずウドンを蕎麦のように蕎麦猪口で汁をつけて食べているのに驚かされました。「ヤー・ウドンを蕎麦のようにたべているよ」ということでした。
ところがお寺ではほとんど昼食はウドンです。昼の忙しいときは料理を作る手間が省け、だし汁だけ作っておけばすぐ間に合います。讃岐の人はウドンさえあれば他におかずがなくても文句を言わないところが凄いのです。毎日ウドンを食べても飽きないのかといわれますが、それが飽きないのです。
 お寺では毎年春の彼岸法会やら色々な行事を行います。その時に参拝者にお接待をいたします。そのお接待はウドンだけです。そのウドン接待が何十年続いていても誰一人「お接待の食事がウドンだけなのか、とか粗末な食事だ」といったような苦情を聞いたことがありません。本当に讃岐の人はウドン好きです。
 特に讃岐のお坊さんはウドンが嫌いでは務まりません。それは法事のたびにウドンが出るからです。それも法事を営む家に着いたとたんに、「うどんが出来てます」。といわれ何の抵抗もなく頂くのです。うどんを食べてから法事を勤め、終わると今度は正式なお膳が出るのです。

これから暫く「こころの講話」ではウドンシリーズで「讃岐ウドンとは何ぞや」をお届けいたします。お楽しみに。


       
      こころのはなし(第100回)2007.07.15

こころの講話シリーズがちょうど100回目を迎えました。毎回間際にならないと文章が書けません。時間の余裕があって原稿を前にして書こうとしてもなかなか書けるものではありません。               
ホームページのこころの講話も一日,十五日の締め切り間際に追い詰められないと、文章が浮かんできません。私はよく説教や講演を依頼されます。ほとんど私が所属している高野山真言宗の寺院からですが、早いところは一年前から頼まれることがありますが、どんなに早く依頼されても原稿を書き始めるのが一ヶ月前、これでも早い方で、普通は一週間前ぐらいにならないと火がつきません。自分を追い詰めないとよいアイデアーが出てこないのです。
100回目のこの原稿も15日の締め切りにパソコンに向かっています。本当は14日に書く予定でしたが、兵庫県宍粟市で行われた高野山真言宗播磨支所9区参与会研修会の講師を依頼され、講演が終わり帰宅してから原稿を書こうかと思っていました。ところがあいにく14日は大型台風4号が九州に接近中です。早朝テレビのニュースを見ますと、すでに九州では台風接近ために各地で川の増水や、土砂崩れの様子を放映しています。私は一抹の不安を抱きながら朝9時に家を出て、車で瀬戸中央自動車道を通り、山陽道、さらに中国道を通り、折から台風の余波で通行途中の岡山市、備前市、竜野の山間部は猛烈な雨で、揖保川は増水し、濁流が渦巻いています。揖保川沿いに車を運転し、やっとのことで12時半に会場である宍粟市波賀町にある市民センター波賀に到着しました。午後2時半から1時間半の時間を頂いて「真言宗の教えてなに?」という演題で講演を致しました。
会場には雨にもかかわらず300人近い会員の方が研修を受けられました。この参与会というのは主として各寺院の檀信徒を中心に組織されていて和歌山県高野山が主管しています。毎年各地のブロックごとに研修を行っていて、この講演が終わり帰宅してから心の講話の原稿を書こうと思っていましたが、会場を出る頃には強い雨が降り続いています。無事に帰宅できるかなと不安になってきました。なぜなら風速20メートルになると瀬戸自動車道の瀬戸大橋が前面通行止めになってしまうからです。
通行止めになると岡山か倉敷あたりで一泊しないといけません。とにかく瀬戸大橋までは行ってみない事にはどうにもなりません。山陽道など高速道路はすでに50キロ規制です。それでも大型トラックなどは100キロ近くのスピードで私の車を追い抜いていきます。追い抜きざまに水しぶきが立ち、前方が一瞬見えなくなります。運転が恐ろしくなり、ハンドルを硬く握り締めて
極度の緊張を強いられます。途中パーキングエリヤに立ち寄り、しばらく休憩した後ふたたび運転を再開し、やっとのこと瀬戸大橋に近づいてきました。道路脇にある電光掲示板に自動二輪通行止めと表示されています。やれやれ車は通行可能ということで、時速50キロで大橋を渡りかけました。ところが瀬戸内海の上に架かっている橋ですので、風をさえぎるものが何もありません。まともに強風を受け、車は横揺れするしハンドルは取られるしで、
このまま車は横転するのではないかという恐怖が過ぎりました。
夜8時近くに寺にたどり着きすぐにテレビを着けてみると、ニュースで瀬戸大橋が強風のため通行止めになったことを報道していました。この日は本当に疲労困憊でそのまま寝入ってしまい、やはりこころの講話の原稿は15日になってしまいました。また101号から頑張ろうと思います

       
      こころのはなし(第99回)2007.07.01

二十数年間も高松刑務所に宗教教誨師として訪問させていただいておりますと、色々なことを体験します。昨年、明治以来施行されていた監獄法が大きく改正され、「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が施行され、行政改革の実現に向けて歴史的な一歩を踏み出しました。
この法律の目的は、刑事施設の適正な管理運営とともに、受刑者の人権を尊重しながら、その受刑者の状況に応じた適正な処遇の仕方を行うことにありますが、特に受刑者の改善更正の意欲を呼び起こし円滑な社会復帰を図るための処遇をより一層充実させることに重点が置かれ、特に民間協力者である宗教教誨師、篤志面接員の役割がさらに重要になってまいりました。
私は月に一、二度刑務所に赴き、教誨を希望する受刑者に法話や道徳的なお話や、また受刑者から希望して読経願いが出されると、仏壇の前で供養のための読経をし、精神講話を致します。
また特殊なものとしては棺前教誨も行います。棺前教誨とは、受刑者が病気のため刑務所内で亡くなり、遺族がいなかったり、遺族が遺体の引取りを拒否したとき、刑務所内で葬儀を執行いたします。
今年に入ってから私は二件、葬儀の導師を勤めました。今年の初めに刑務所から電話を頂き、「刑務所内で受刑者が亡くなり、刑務所で葬儀を執り行わなければならなくなりました。つきましては本人は家の宗教が真言宗なので、先生に導師をお願いいたしたいのですが」ということでしたので葬儀の日程を相談して、翌日施設に赴きました。到着するとすぐに刑務官の方と打ち合わせをしました。その席で刑務官が亡くなった受刑者には妹さんが一人居り、電話でお兄さんの死亡を告げたところ、「私は葬儀にも行きません。お骨も引き取りません」ということでした。
そこで刑務官の方が「そう言わず、あなたのただ一人のお兄さんではないですか。もう最後ですから、一度顔だけでも拝んでくれませんか」と再三説得し、やっとのことで妹さんは承諾し、次の日早朝に刑務所に来て面会だけ済ませて、遺骨の引き取りを拒否してそのまま帰っていかれたそうです。

葬儀の執り行われるところは、刑務所内に6畳ぐらいの小さな建物があり、そこに仏壇が祀られ、その前にお棺が安置してあります。定刻に私が導師となり引導を渡し、所長、部長、四、五人の刑務官が参列し、焼香をして葬斎場に向かって出棺して行きました。この後、四十九日間施設内に安置し読経をした後、高松市内にある刑務所の墓地に埋葬されました。

考えてみると誰にもほしまれることなく旅立って行った受刑者は、本当に寂しい人生の終焉であり、ただ一人の妹にも愛想をつかされ、家族の墓にも入ることを拒否され、もちろん墓石に名前が刻まれることもなく土に返っていく、これは自業自得といってしまえばそれまでですが、なんとも心空しい葬儀でございました。

       
      こころのはなし(第98回)2007.06.15

先月、教誨師会の会議が京都であり、出席のため高松駅から瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、一路京都を目指しました。途中坂出駅手前で電車が急に減速し、一時停車をしてしばらく経ってまたゆっくりと走り出し、瀬戸大橋を渡るときには平常に走っていましたが、岡山駅近くで車内放送があり、マリンライナーが遅れ接続の「のぞみ」に乗れないので後続の「のぞみ」に乗車してくださいということでした。急いで改札を通り、新幹線ホームに上がると既に自分が乗るべきのぞみは発車した後でした。ホームに立っていると放送があり、「瀬戸大橋線の遅れでのぞみに乗車できなかった方は後続ののぞみ12号車、13号車にご乗車下さい。座席は確保してあります。」とのことでしたので、安心して後続を待ちました。
 
 20分ぐらい待ちますとのぞみがホームに入ってきました。指定された通り、12号車の空席に座って発車しました。のぞみは姫路駅に停車、乗車してくる客がそこは私の席ですからどいてくださいというのではないかと一抹の不安を覚えました。
姫路駅ではどうやらパスし、次の新神戸駅ではどうだろうかと落ち着きません。ところが新神戸では乗車してきた客がやってこられて、「そこは私の座席です。」といわれますので、座席を立ちましたが、車内を見渡すとほとんど空席がありません。私は車掌のところに行き、今までの経緯を説明し、座席の確保をお願いしましたところ埒が明きません。仕方がないので特急券なのにこのまま京都まで立ったつことになったらどうなるのですか。特急券を払い戻してくれますか?と聞いたら、車掌は到着駅で聞いてくださいという。仕方がないので、「では京都まで立ったままだったら、立っていたままでしたという証明書を出してくれますか」と尋ねたら、それは出せませんというのです。「ではどうしたらよいですか」といいますと、「グリーン車に行って座ってください」といいます.
グリーン車両に行き空いている所に座っていましたら、グリーン車の専属の車掌がきて、「グリーン券を拝見します。」といいます。再び岡山からの顛末を説明しましたところ、「それならばこのグリーン車にお座りいただいて結構です。」というので、やっとのこと座席にゆったり座ることができました。既にその時はのぞみが新大阪についていました。グリーン車の満足感も一区間だけのものでした。しかし、余禄もありました。座席の前にポケットがありその中に新幹線社内誌が二冊入っています。一冊の「ひととき」を手にとって開いて見ますと、「温かい巡礼」自分の癒し八十八箇所霊場巡り、の特集を組んでいます。私は四国高松ですので、四国霊場、小豆島霊場、などはよく知っていますが、伊豆に八十八箇所霊場があるとは少しも知りませんでした。
この霊場は天城湯ヶ島に近い嶺松院から始まり、伊豆を一周して修善寺が打ち止めです。伊豆の霊場はまだまだ知名度も低く、それゆえに四国八十八箇所と違った素朴な霊場です。
 この雑誌に、宗教評論家のひろさちやさんが、「巡礼とは、自分の中に仏を見つける旅である」と定義されています。
当にその通りで、せせこましい生活を離れて、一度自分の中の仏を見つけに歩いて見たいですね。

       
      こころのはなし(第97回)2007.06.01

いま讃岐平野は麦秋のころ、一面に黄色く色づいた麦畑が一面に広がっています。麦畑を見ると子どもの頃を思い出します。
私の生まれたところは神奈川県藤沢市辻堂というところです。
辻堂は隣町が鵠沼、茅ヶ崎という湘南真っ只中に位置します。
 今は湘南といえばサマースポーツのメッカで夏の海水浴には人、人で埋め尽くされてしまいますし、冬でも若者がサーフインを楽しんでいますが、子どもの頃はそれほど人出も多くなく、葦ずばりの海の家が4、5軒建っているぐらいでのんびりしていました。

お寺の屋上から見ると松林の向こうに江ノ島が見え、西の方角には富士山が見えます。子どもの頃はお寺の隣近所がみな農家ばかりで、主に薩摩芋や野菜、麦を栽培していました。冬になると近所のおじさんから麦踏の手伝いを頼まれます。私は小学校の頃はよく借り出され、麦わらぞうりを履いて着いていったものです。
 辻堂は砂地で麦をまき、芽が5〜6センチに伸びるとちょうど厳寒の頃ですので、朝霜柱が立ち、麦の根を持ち上げてしまいます。そのため一度か二度は畑に行って、藁ぞうりを履き麦を踏んで押さえつけるようにするのです。藁ぞうりは麦を傷めないために履くのです。約半日麦踏を手伝うと農家の叔父さんは「ご苦労さん、また頼むよ」といって私の手のひらに50円を乗せてくれました。子どもの頃の50円は大金で、急いでポケットに仕舞い込み、手でポケットを押さえながら家に帰った思い出があります。
 5月から6月になると冬に麦踏をした麦が撓わに実り、本当に麦秋そのものです。
いよいよ麦刈りになり、おじさんの呼び出しを受けて畑に出向き、おじさんが鎌で刈った麦を畝に並べていきます。それを私は纏めて束にするのが仕事ですが、途中でおじさんが私を呼ぶので、近づいていくと「ほら、ここを見てご覧、雲雀が巣作りをして雛がいるよ」というのです。麦の間を見ると小さな巣に雛が口をいっぱいに開き鳴いています。
 しばらく巣を見ているとおじさんが、「可愛そうだからこのままのして置くか」といって、巣のところの麦を刈らずに次の畝に移って行きました。
 それから一週間ほど経って雲雀の巣を見に行くと、そこのはもう雛の姿はなく、空になった巣だけが残っていました。青い空を見上げると雲雀が上空で一生懸命ないています。
 それから50年以上も経ちましたが、黄色くなった麦畑を見ると今も巣の中で鳴いていた雲雀のことを思い出すのです。

 夏雲雀微熱の午後の照り曇り    草 城
 

 

       
      こころのはなし(第96回)2007.05.15

お寺の木々はすべて新しい葉に換わり、眩しいほどの新緑が輝いています。このところ晴天が続き、本当に初夏を思わせる日々です。私はこの五月の晴天を五月晴れ(さつきばれ)と思っていましたらどうもそうではないようです。旧暦の五月は梅雨の季節で、元来、五月晴れ,五月空(さつきぞら)という言葉は、梅雨の間の晴れ間を指し、また梅雨明けの晴天のことをさした。(注1)

芭蕉の句で 
五月雨や流れて早し最上川
がありますがこの句は旧暦の五月梅雨の頃ということがわかります。
太陽暦でいうと6月が梅雨の季節に入ります。
この月は田植えが盛んで、讃岐平野も一斉に田植えの時期となり、弘法大師が約1200年前修築した満濃池のユル抜きが6月15日に行われます。ユル抜きとは満濃池の水門を開いて田畑に水を流し込むことをいいます。因みに6月15日は弘法大師空海のお誕生日です。讃岐は現在でも旧暦の五月に田植えを行うところが多いのでしょう。
最近は農家では秋の収穫時に台風に遇うことが多いのでこの時を避け、一月以上も早く田植えを致します。この頃は早いところでは8月にお米の収穫をするところもあるそうです。しかし、こんなに早く収穫すると何の風情もなくなってしまいますね。稲刈りは晩秋であり、収穫したお米の束を干す風景は日本のふるさとの情景であったのですが、今はこのような日本の風景を見るのは難しくなっているのかもしれません。  
農家も機械化が進み、コンバインで刈り取り、籾だけを袋詰めにして、乾燥機に掛けてしまいます。高齢化が進んでいる日本の農業は労働力の軽減ということは大切なことかもしれません。
 
さて、五月のことをサツキと読みますが、この月は田植えが盛んで、早苗(さなえ)を植える月の意味で早苗月といっていたのを略してサツキとなったといい、またサツキのサは、神に捧げる稲の意味で、そこから稲を植える月の意味になったといわれます。
 私は五月(サツキ)は皐月の字を当てるのが本来のものと思っていましたら、「万葉集」「日本書紀」では「五月」をサツキと訓(よ)ませていて、早月、皐月の字を当てるようになったのは後世のことであると書いています(注2)
 和風月名を見ると、日本人は四季おりおりの自然界の移り変わりを観察しながらそれを月名に織り込みながら、敏感に季節感を感じとり、自然界の営みに逆らわずに生活をしていたことがうかがえます。
注1、2 現代こよみ読み解き辞典 編著者 岡田芳朗 阿久根末忠 柏書房

       
      こころのはなし(第95回)2007.05.01

 ゴールデンウイークが始まり29日30日は天候にも恵まれ、多くの人が行楽地に行かれたのではないかと思います。逆にお寺はこの期間に法事が集中します。そのような中で30日にお伺いした檀家さんで、法事を済ませて衣を着替えているときに、短冊が一枚柱のところに掛けてありました。その短冊にはこのように書かれています。
 
合掌  腹が立ったらたったまま
    悲しかったら泣いたまま
    そっとこの手を合わせます
 
良い言葉なので手帳に書き写してきました。この言葉は何を言おうとしているのでしょうか。手を合わせて間を持ちなさいよと言っているのでしょうか。それとも自分を振り返りなさいよと教えているのでしょうか。合掌は素晴らしい表現方法だと思いますね、相手に向かって合掌したら相手方も心和みます。

合掌とは手を合わせるという行為です。インドでは古くからの礼法の一つで、南アジア諸国では挨拶にもこの礼法を用いています。合掌をすることは、相手に何も危害を与えませんという姿かもしれませんし、相手を尊ぶ基本的な姿でもあると思います。
インドの国花は蓮の花です。インド人は蓮の花を見て合掌を考え出したのでしょうか。合掌とは基本的には蓮の蕾を形作ります。蓮は泥の中にあっても泥に染まることはありません。蓮は清らかな心の象徴です。その清らかな心を表現して手を合わせはすの蕾の形をとるのが合掌です。ですから合掌は胸のところで手を合わすのです。
手には五指があります。この五指にはそれぞれに意味があります。小指から地、薬指は水、中指は火、人差し指は風、親指は空です。地水火風空はこの宇宙を構成する五つの要素です。これを五大といいます。この地球が誕生して45億年、そして38億年前に太古の海に初めて誕生した命は私たちの祖先です。その命の素になったものが地、水、火、風、空の五つの要素です。この五大が途切れることなく受け継がれているのが現在の私の命なのです。
この五大を表現しているのが五重塔です。五重塔は屋根が五層になっています。この五層が五大である地水火風空を表し、大宇宙を表現しています。またお寺で使う卒塔婆も大宇宙を表現しています。またお墓に立てる五輪塔も大宇宙を表しています。
この五大を表す五本の指も合掌することによって大宇宙を表現しています。要するに合掌することは、大宇宙から頂いたかけがえのない命だということを象徴的に表しています。
お互い合掌しあうということは、相手のいのちを尊重することにつながります。

 

       
      こころのはなし(第94回)2007.04.16

 春本番となり、お寺に一本ある桜も風が吹くたびに舞い、地面に花筵を敷いています。一昨日車を走らせているときに、一本の桐の木に目が止まりました。綺麗な紫色をした花が開いています。
 普段桐の花に目を留めたことはないのですが、木々が芽吹きだしたその中に、桐の紫色が際立って美しく見えました。昔は女の子が生まれると桐の木を植え、娘が嫁ぐときには成長した桐に木で箪笥を作り持たせ嫁がせたという話を聞いたことがあります。
 私の寺では、息子が生まれる時に、裏庭に桐の木を植え、成長して製材に出し、しばらく板にして乾燥させ、その板でお茶の台子を作り、いま家内が茶道で使用しています。桐の木は成長が早いので、このようなことができるのでしょう。
新潟県南蒲原郡田上町大字田上に「桐蔵KIRIZO 」があります。
http://www.1kirizo.com このホームページに「私たちは子どもの誕生を記念して桐の木を植えます」があります。ここにも次の代のために植樹をしている話が出ています。
 
 前に聞いた話ですが、中国には老酒という酒があります。老酒も娘が生まれると、甕に原料を仕込み封印して、地中に埋め、娘が嫁ぐときに甕を掘り出し、お祝い酒として飲んだと聞いています。要するに20年近くも寝かせて置くので古酒ということで老酒(ラオジュウー)というのだと聞いた事があります。

さて、話を元にもでしますが、桐の木の花は家紋の意匠に用いられています。豊臣家の紋が桐紋です。高野山の金剛峰寺の寺紋がやはり桐と巴を使用しています。金剛峰寺は豊臣秀吉が母の菩提のために寄進した寺ですので桐紋を使い、巴は高野山の地主の神様である高野明神の紋です。「桐紋はもともと菊とともに天皇家の紋である。しかし、将軍家に下賜され、その将軍家がさらに武将功臣に再下賜され、広まった。菊紋は規制が厳しかったが、桐紋はそれほどでもなかったので、あこがれの紋として広まったのである。」とホームページ「家紋world」に出てまいります。

私はこの家紋について素晴らしいと思うことがあります。それはデザイン(意匠)の素晴らしさです。家紋は既に平安時代にさかのぼるそうですが、日本人の祖先たちが家の象徴として、デザインして使用したということは素晴らしいことだと思います。家紋は約一万ほどあるそうですが、これを誰がデザインを考えたのでしょうか。
やはり家紋を考える専門のデザイナーがいて、そのデザイナーに依頼したのでしょうか。
 家紋のデザインはそのモチーフ(図案、柄)がほとんど植物であり、また動物でもやさしい小動物に限られています。例えば
鳩、馬、ウサギ、こうもりなどです。
 植物では茄子、三つ葉、唐辛子、夕顔の花、桃、胡桃、葵、梅花、柿の花、蕪、スミレ、夕顔、栗、などです。これらを丸型や四角やひし形の中に描き収めています。本当にやさしい動植物ばかりです。それに比べ西洋の家紋は、荒々しい鷲やライオンやハゲ鷹などです。西洋の家紋は戦う、闘争の象徴なのでしょう。ここが西洋と東洋の違いだと思います。東洋人は大自然と共生して生きていく智慧を持っています。これは農耕民族の特徴です。西洋は狩猟民族です。この違いが家紋にはっきりと出ています。
 最近日本人も家の家紋を知らない人が出てきました。檀家の方でお墓を建てなければいけなくなり、墓石に家紋を彫りこみたいが家の家紋を知らない。石材店の人が家紋全集を差し出し、それならばここから選んでください。すると、これが格好いいからこれにしますと決めていました。世も変わるものですね。

   
こころのはなし(第93回)2007.04.01

 3月29日、早朝の4時から車を走らせ日帰りで、和歌山県の高野山に行ってまいりました。お山では真言宗の布教師会研修会があります。布教師というのは真言宗密教の教え、弘法大師の教えを広めるために活躍する専門職のような役割です。高野山真言宗では布教師として活躍している人は約400人近くいます。それらの布教師の方が、新年度から新たに活動する活動方針や目的を再確認し、研修するのが毎年この時期なのです。ですからこれら400人もの人が一同に会することは年に一度ぐらいですので、高野山に登るということは旧知の人や友人とお会いする楽しみもあるのです。
 3月25日に能登半島地震があり、死者1、全壊121戸、重傷者23、軽傷者232、避難者1127、(29日午後2時半調べ、朝日新聞)という大災害がありました。被災した方々に心からなるお見舞いを申し上げます。
 私は、報道で地震を知ったときに、先ず頭に浮かんだのが、能登地方に居る友人は無事なのだろうかということでした。高野山布教師の中で被災地に住んでいる方がいらっしゃいます。その布教師の友人も29日には高野山の研修にこられるはずです。
朝10時近くに研修会場に入り、会場内を見渡して見ますと、被災したにもかかわらず友人が既にこられているのです。
「ああ、無事であったのだな、」と胸をなでおろしました。
友人は私の手を握り、「心配を掛けたな、有難う、君も元気で活躍しているか」と逆に心配をしてくれました。
よき友を持つということは本当に大切です。真の友人というのは、困っているときだけでなく、喜びのときはともに喜んでくれる人であり、色々な知識,智慧を与えてくれる人だと思います。


釈尊は法句経78番で次のように説かれます。

悪しき友と 交わるなかれ

いやしき人をも
侶(とも)とせざれ 心清き友と交わるべし
まされるものを とも侶(とも)とせよ


という詩です。釈尊は折りあるごとに、友達を選べと仰っておられます。昔から類は友を呼ぶという言葉がありまが、
善い人交われば、自然と善い事が身につき、悪人とばかり交わっていると、自然にこちらも悪いことばかり考えるようになり、悪の道にと陥りがちになる。悪を廃し、善につけと釈尊は説かれています。
先月高松刑務所で一人に被収容者がなくなりました。この人は8回も刑務所に入っていました。家の宗教が真言宗ということで、私が施設内で引導を渡しました。この人には妹さんがいて、妹さんに連絡しますと、最後の顔だけは見に行くけれど、葬儀には出ませんし、遺骨も引き取りません。ということでした。あとは刑務職員のみの立会いのもとで、葬儀を行いさびしく葬祭場に向かいました。家族は兄に今まで大変苦労させられてきたといいます。だから遺骨は引き取れないというのです。妹さんは今まで散々苦労を掛けられた私は兄を許すことはできない、だから遺骨を引き取らないということが、妹さんの精いっぱいの兄に対する抗議なのでしょう。自業自得といえばそれまでですが、本当にさびしい終末です。
釈尊はいくどともなく繰り返し、さとされています。
悪を廃して善につくことにより、人にも容れられ、世にも容れられ、この世で人並みな生活が営めることになりますと。

寺の檀家にお伺いすると一枚のカレンダーに目が留まりました。 
それが今月の言葉、「よい友達をつくろうよ」です。

花が蝶を呼ぶのでしょうか/ 蝶が花によってくるのでしょうか
ひとりぼっちはつまらない/ よい友達をつくろうよ/
花が咲かなければ蝶もこないし/ 蝶もこなければ花もつまらない/ よいともだちをつくろうよ。

やさしい詩ですが、私たちに善い友達を作ろうよと呼びかけています。自分が正しい道を歩まないと人は依って来ない、そして自分を高めることによってそれに相応しい真の友人を得ることできるのです。

 

       
   
こころのはなし(第93回)2007.03.15

 今年は暖冬と言われながらこの一週間は真冬に逆戻りです。気象庁が桜の開花予想を発表し、静岡などは3月13日に開花すると発表しました。私の住んでいる高松は3月17日と発表されましたので、寺の境内にある染井吉野のを見ますと、その時期に咲く気配は全然ありません。蕾のさきが赤みも帯びていませんので、今年も平年並みだろうと思っていましたところ、3月17日の開花予想が気象庁の入力ミスであったと訂正がありました。
 昔から、花の咲く順序は、梅、桃、桜と言っていましたが、いくら暖冬でも、桃を飛び越してまでは桜は咲かないでしょう。花屋さんの店頭に並ぶ桃は、開花を早めるために、室に入れて出荷したものです。

 中国の大衍暦(たいえんれき)の72候によると、新暦3月11日から10日ごろの言葉として「桃始めて華(さ)く」とあります。これは桃が花咲く時期という意味です。暦では今頃から桃の花が咲き始めるというのです。
さて、中国の大衍暦を作られた方は、唐のお坊さんで一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)という方です(683〜727)。またの名を大慧禅師といいます。
インド、中国、さらに日本に密教を伝えた空海まで、8人の祖師がいらっしゃいます。普通八祖大師といいます。その密教の教えを伝えた系譜(系統関係を図式に記したもの)があります。
その真言密教には二通りの系譜があります。一つの流れが付法(ふほう){教えを弟子に授けて後世に伝えること}の八祖と、もう一つ伝持(でんじ){仏法,戒法を受け伝えて護持すること}の八祖です。付法の八祖とは「広付法伝」に説く八祖、大日如来、金剛薩?、龍猛(りゅうみょう)菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、恵果和尚、弘法大師。の8人の祖師たちです。
伝持の八祖とは付法の八祖から、大日如来と金剛薩?が除かれて、善無畏三蔵と大衍暦を作られた不空三蔵が入ります。
龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏(ぜんむい)三蔵、一行阿闍梨、恵果和尚、弘法大師の8人です。
 
 この大衍暦を作られた一行阿闍梨は生粋の中国人で、姓は張、名は遂といいます。河北省の生まれ、幼少から聡明で、記憶力に優れ、21歳の時に父母を失い、荊州(けいしゅう。今の中国湖北省、湖南省の大部分)の景禅師について出家、天台の布算から数学と暦学を学んだ。後に大衍暦52巻を著します。善無畏三蔵、金剛智三蔵から密教を学び、大日経疏(だいにちきょうしょ)を撰しました。特に一行阿闍梨は算法、暦法、天文学者としても有名な方です。現在中国の切手に肖像が描かれていると聞いています。
 今回の「心の講話」は大変難しい話になりましたが、真言密教ルーツ知るには適当かと思います。

       
   

● こころのはなし(第92回)2007.03.01

 先月17日から23日まで家内と、私が習っている中国語の張 先生と一緒にオーストラリアのシドニーに行ってまいりました。
この旅行はシドニーに在住している私の弟子で、ウイリアム・和證斉