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心の講話

       
     

こころのはなし(第163回)2010/08/13

8月はお盆の月です。また夏祭りの月でもあります。四国の代表的な祭りはなんと言っても高知のよさこい祭、徳島の阿波踊り、です。このごろ高知のよさこい祭の意匠は全国的に波及し、踊り手は連によって違いますが、昔ながらの浴衣ではなく、奇抜な意匠を身に付けて躍動的なリズムで踊ります。
 徳島の阿波踊りは基本的には浴衣に鳥追い帽子をかぶり踊るのを基本としているようです。いずれにしてもよさこい踊りも、阿波踊りも元は盆踊りです。
 この盆踊りの起源は古く、今から2,500年前のお釈迦さまの時代までさかのぼります。
 お釈迦さまの弟子に10人の優秀なお弟子がおり、その一人に目連尊者という神通第一といわれる方がいました。目連尊者はマウドガリヤーヤーナといい漢訳しますと目?連(もっけんれん)といいます。私たちは親しみを込めて目連尊者といっています。
目連尊者はやはり十大弟子のひとりで、学徳にすぐれ、お釈迦さまにかわって説法することもあった舎利弗(しゃりほつ)の親友です。
では目連尊者の神通力とはどのようなものだったかと言うと、
 すべての世を見通す能力を持っていました。ある時、今は亡きお母さんはどこに居るだろうかと神通力をもって色々な世界を見通し、お母さんの所在を探しました。しかし、きっと極楽の世界に生まれかわっているだろうと確信をしていた母親は極楽の世界にはいませんでした。まさかと思い地獄の世界を照らし見ると、なんと目連尊者の母は地獄の世界に落ちて苦しんでいるではありませんか。その母の姿は餓鬼の姿で、お腹を空かせ目だけはらんらんと輝き、お腹が膨れ、もがき苦しんでいます。なとか母を救わなければいけないと考え、器の盛った食べ物を母親の元に届けました。母はその器を両手の持って貪るようにして食べようとすると、その食べ物はすべて炎になって燃えてしまいます。
 なぜ私を生み育ててくださったお母さんが地獄に落ちたのだろうか。それは母親が生きている時に貪欲にまみれた生活をしていた結果なのです。貪欲とは自害意識が強く自己中心的で、むさぼりの心大きく人に分け与えることがない、その結果として地獄に落ちてしまったのです。
 流石の目連尊者は救う手立てがありませんので、釈尊に相談をいたしました。すると釈尊は静かにこのように申されました。
 印度の雨期は5月、6月、7月の3ヶ月間続きます。その雨期の時に印度各地を布教し、修行している僧侶がこの祇園精舎に帰り、静かに修行します。雨期の期間はあらゆる命が成長するときです。そのような時に修行に出ている僧侶が生きもののいのちを誤って損なうこともあるかもしれない。それを防ぐ為にこの雨期の3ヶ月間祇園精舎で静かに修行します。その修行の最後の日が7月15日です。この日は修行が充分に出来たか否か反省する日です。この日に多くの修行者のために食べ物とか、衣とか修行僧が必要とするものを布施しなさい。布施行をすれば必ずこの布施の功徳によって目連尊者の母は救われ極楽の世界に生まれかわるであろうと説かれました。その結果、布施の功徳によって目連尊者の母は極楽の世界に生まれかわったという。その結果固唾を呑んで見守っていた多くの修行者が喜びのあまり小躍りして踊ったことが盆踊りの起源とされています。ところがこの教えはもっと大切なことを教えてくださっています。
 このお話は私たちの貪欲の心を誡めている教えです。貪欲とは自己中心主義で俺が、私がという欲望の世界です。この貪欲の心を抑制するために他に施すという行為を実践させるのです。
施しとは二つの言葉から出来ています。ほどこすの「ほど」とは自分の財布の紐をほどく、ほどいた財布から金銭などを自分を越して相手に与えることを意味します。ようするに布施とは自分の欲望から開放する行為なのです。ですからお盆は今は亡き人に色々なお供えを致しますが、お供えをするという行為が布施なのです。お盆は亡き人を供養する日ですが、もっと大切なのはお盆という行事を通して自らの貪欲の心をコントロール(制御)する日でもあるのです。

       
     

こころのはなし(第162回)2010/08/01

このごろ頓に心の講話を書くのが億劫になり、時々飛ばすようになりました。アクセスしてくださるのに申し訳がないと思うのですが、如何せん気力が萎えてしまい失礼しています。
 先月行なわれたサッカーワールドカップのニュースを見ていますとサッカー競技場に何万というサポーターが熱狂しています。そのエネルギーはすごいですね。私はその応援の光景を見て、よくあのようにひとつのことに熱中できるのだろうかとよく思うことがあります。よく考えてみると私は野球にしても、サッカーにしても自分を忘れるほど熱中することはありません。
 これが歳を取った証拠かもすれません。一言でいうと、感動することがなくなったということです。歳を経るごとに喜びや悲しみに無反応になっている自分がいるのです。感動が少なくなると少しずつ顔の筋肉が動かなくなり、無表情な顔になっていきます。
高齢者が笑わないのはそのためかもしれません。自分はその域に入ってきたことを最近自覚しています。ですから逆に感動することは素晴らしいことだと思うのです。
私には現在5人の孫がいます。上は小学校一年生から一番下は一年と数ヶ月の子です。この孫たちは好奇心のかたまりです。よく笑い、よく兄弟げんかをしますし、兄弟げんかが始まったと思ったらいつの間にか仲良く遊んでいます。自分の興味あるものには熱中する。その顔の表情の豊かさは大人には決して真似の出来るものではありません。
無心になるとは何も考えないということではありません。当に執らわれのないこころです。逆に一つのことに熱中して外の事に気をとられないことも無心になるということかもしれません。
無心の境地について、荘子は「すべての迷いを去って、心を純一(まじりけのない)に保つがよい。耳で聞くより心で聞く、いや、心で聞くより気で聴くがよい。気で聴くとは、あらゆる事象(ことの成り行き)をあるがままに受け入れることだ」といわれています。
サッカーを観戦したらすべての迷いを去って、それに没頭する。
勝っても負けてもことの成り行きにまかせて、ありのままを受け入れる。素直なこころになりきることが大切で、歳を経るごとにこの素直な心が失われていくのではないかと思います。
素直な心がないからサッカーのワールドカップで日本が勝っても素直に喜ぶことが出来ないのではないかと思います。このところ反省することばかりです。

       
     

こころのはなし(第161回)2010/07/01

いま日本相撲協会は野球賭博問題で連日大揺れです。日本の国技といわれる大相撲が、名古屋場所の開催が危惧される前代未聞のスキャンダルに揺れています。
 このごろ相撲界は次々と色々な問題が噴出しています。時津風部屋の力士暴行事件、大相撲の元序の口であった斉藤 俊さん(当時17歳)が2007年6月26日、朝稽古中に急死し兄弟子がビール瓶や金属バットで殴打するなど、「集団リンチ」ともとれる惨事が発覚し社会問題となったことは記憶に新しいところです。また以前から大相撲八百長疑惑がくすぶっていますし、2009年には若麒麟が大麻所持で逮捕され、若ノ鵬、露鵬、白露鵬と解雇処分になった事件。また朝青龍が今年1月に酒に酔って知人男性に暴行したとされる問題など、品位と秩序を重んじる相撲界にあって一体どうしたことでしょう。
 殊に今回の野球賭博問題は反社会的な行為として赦されるものではありません。6月28日付の産経新聞に、野球賭博の「胴元」は暴力団のケースが大半で、事情に詳しい元暴力団関係者が産経新聞の取材に応じ、プロ野球の試合が「一晩で数千万円が動くばくち」に一変するというとあります。その掛け金の一部が暴力団の資金になっていることを重く受けとめなければなりません。
 四十二章経という仏典があります。その中に次のように説かれています。
 「仏言(のたま)わく、財・色の人に於(お)けるや、譬(たと)えば小児の刀を貪(むさぼ)りて刃(やいば)の蜜を甜(な)めんに、一食の美(あま)さに足らずして、しかも舌を截(き)るの患(うれ)い有るがごとし。」
これを解釈しますと「利益や色欲を求め、うつつを抜かしていると、あたかも子どもが刃についている甘い蜜をなめているうちに、いつしかその刀で舌が切られてしまう。このように身の程知らずで過度に求めるとわが身を滅ぼしてしまうことを警告しています。世の中には一時の欲や錯覚にとらわれて大損する人が多い。
当にこの相撲界の野球賭博事件を教訓として賭け事に手を出さないことが大切です。

       
     

こころのはなし(第160回)2010/06/15

舎利弗と目連という修行者がいました。ある時舎利弗と目連は王舎城の街角にいると、舎利弗とは般若心経にでてくる舎利子のことです。一人の托鉢僧がやってきました。端正な姿で静かに歩くさまに心を打たれたので呼び止めて、名前を聞きました。その修行者はアッサジと答えました。その態度は落ち着いていてあまりにも立派なので「あなたは誰を師と仰がれているのですか」と訪ねました。私はブッタに仕えるものですが、最近仏教に入ったばかりでまだよく教えを学んでいないのです。ただブッタから次のことを聞いています。といって次の詩を唱えました。
この詩が今月のことばです。
「釈尊は因縁の法をお説きになります。諸法は因縁によって生じ、因縁によって滅します。我あることなし」とおっしゃっています。これが釈尊の教えです。
仏典から見ると、「諸々の法は原因より生起する。如来はその原因を説きたもう。もろもろの法の消滅も{説きたもう}偉大なる修行者は、このように説く者である。」
舎利弗と目連はこの詩を聞いて、竹林精舎に滞在している
ブッダのところにやってきてやがて弟子となったのです。
 諸法とは、この世に存在するすべてのもののことで、それは因縁によって生まれ、因縁によって滅するということです。
結果には必ず原因があります。原因があって結果ができるということです。たとえばここに籾があります。それを田圃にまけばお米が出来ます。しかし、そのためには水と太陽と熱と光と、そして肥料がなければなりません。さらに人間の力が加わっておそ、籾が芽を出し、やがて実を結び、お米が出来ます。籾だけでお米が出来るわけではありません。つまり、すべてのものは因縁によってできるということです。われわれ人間もまた、お父さんとお母さんとの因縁によって生命を宿し、母親の体から色々な栄養分を吸収して成長してきたのです。そしてこの世に生まれてからも、空気を吸い、水を飲み、食事を頂き着物を着せていただいています。その着物一つにしても、大勢の人が苦労してつくってくださったものなのです。社会のあらゆる力が加わって、私たちはこうして生きているのです。お母さんのお腹に宿った生命が、周囲の力によって生きている。その我というものはない。あるものは人間そのものだけ、それを
諸法は因縁によって生じ、因縁によって滅す。われあることなし。」と釈尊は教えられています。

       
     

こころのはなし(第159回)2010/05/15

古の奈良はいま平安遷都1300年、古都は多くの人が訪れ賑わいを見せていることでしょう。奈良遷都1,300年祭のホームページを見ますと、大遣唐使展がおこなわれています。当時日本の国は唐の国の文化、制度を輸入し、国づくりを進めていました。そのためには遣唐使船を派遣して建築、絵画、文物、仏教経典などあらゆるものを伝えました。
 しかし、当時の遣唐使船は造船技術や航海術もお粗末でし、海図すらなかったと思います。運を天に任せ幸運ならば唐土に到着するというものであったようです。
 遣唐使の前は遣隋使が推古天皇8年(600)から同22年にかけて前後6回にわたって日本から隋に派遣された公式の使節です。
遣唐使は7世紀後半から9世紀にかけて、日本から唐に派遣された公式の使節です。欽明天皇2年(630)8月に犬上御田鍬らを派遣したのを最初に寛平6年(894)に菅原道真の建議によって停止されるまで、およそ20回の任命があり、うち16回が実際に渡海しています。使節が渡航に用いる船数は、当初は2隻、のち奈良時代になって4隻編成が基本となります。船数の増加にともない員数も240人から250人さらに500人以上になり、最後の使節となった承和元年(834)任命の使では651人という人数になったようです。
円仁の「入唐求法巡礼行記」によると、米をむして乾かした携帯・保存用の食料と生水のみで飢えをしのぎながら暴風・高波をのりこえなければならず、航行中重病にかかれば独り異国に置き去りにされることもあったといいます。また造船技術・航海術が未熟であったため、難破・漂流することも珍しくなかったといわれます。
まさに命がけの航海であったようです。井上靖の「天平の甍」を読むとその艱難苦難が伝わってきます。
日本に戒律を伝えるために失明の苦難にもめげず、日本にたどり着いた唐の僧鑑真和尚は「たとえ限りなく広いおおうなばらが隔てようと、いのちを惜しむことはない」と述べられています。
そして密教の教えを唐に求めた弘法大師空海和尚は「広い中国の海にように広大な仏教を訪ね究めて、東の辺境である日本の旱(ひでり)のような法の渇きを癒したいと思っている。こうして私は、とうとう一命を大海に棄てる覚悟で真実の教えを求める旅に出た」と強い求道の意思を表されています。
空海和尚は遣唐使船に乗船し、長崎県田浦港から出航、2日目にして暴風の襲来を受け、漂流すること34日、九死に一生を得て赤岸鎮に漂着。それから2400キロを旅して唐の都長安に到着し、密教の師を求め、ここに青龍寺の真言第7祖恵果阿闍梨に出会うのです。
恵果阿闍梨は温顔を湛え、空海和尚を一目見るなり「わたしはあなたに出会うことをどれだけ待ちわびたことか」と法を伝えるにふさわしい者と直感し、直に密教の奥儀を余すところなく伝えられたのです。
空海和尚に法を伝えた後に恵果阿闍梨は病に伏し、空海和尚を呼び「わたしがこの国であなたに伝えることは何もない。早く本国に帰り、この教えを国家に奉り、天下に広めて人々の幸いを増すようにせよ。そうすれば国中平和で万人の生きる喜びも深くなるであろう」この恵果阿闍梨のお言葉こそが、空海和尚のゆるぎない心の支えとなり、高野山開創という現実的な行動となるのです。
来る平成27年は空海和尚が高野山を開かれてちょうど1,200年になります。これを記念して世界平和のため、人々の幸せが末永く続きますように、50日間の祈りをささげる大法会を営みます。ぜひ千載一遇の好機に高野山にご登山いただき、お大師さまに報恩謝徳の祈りをささげていただきますようお勧めを致します。

       
     

こころのはなし(第158回)2010/05/01

 今年の冬は天候不順な日が続きました。4月に入ってからも寒暖の差が激しく体調を整えるのに気を使いました。そのような時に一通の案内状を頂戴しました。
封筒の裏の差出人を見ると、内閣総理大臣 鳩山由紀夫となっていて、住所は千代田区永田町となっています。早速封筒を開いてみると、案内状に次のように書かれています。
拝啓 春暖の候いよいよご健勝の御事とお慶び申し上げます。さて 左記の通り「桜を見る会」を催す事と致しました。
ご夫妻おそろいにて御来観くださいますようご案内申し上げます。

日時 四月十七日(土)午前八時半から同十時半まで
となっています。
私はあまり行く気がすすまなかったのですが、ご同伴でとありますので、家内に「総理大臣から桜を見る会の案内状を頂いたのだけど、一緒に行きますか?」と誘ってみますと、二つ返事で「行きます」という。それから出席する前日まで、「着ていくものは何にしようか、着物がいいか、平服で行こうか」迷いまわっています。このへんが男性と違う所で、先ず着ていく衣装は、履いて行く靴はどれにしようか、出発する二日前まで悩んでいました。
ついに家内は桜を見る会に招待されたことのある友人に電話をして、色々とアドバイスを受けていました。
 友人は着物より平服のほうがいいですよと助言を頂いて、やっとのこと着ていく服が決まったようです。
 17日の朝八時半からですので、16日から新宿まで行ってホテルに宿泊し、17日の朝起きるなり窓を開けて外を見ると、何と雪が降っているではありませんか、びっくりしました。
朝食を済ませて地下鉄丸の内線新宿御苑前で下車し、大木戸門に向かい、受付を通って公園内に入ると八重紅枝垂れ桜が満開です。暫くすると鳩山総理がこられて中央台でご挨拶をされ、挨拶が終わると招待者に声をかけ握手をしてまわります。本当に総理大臣の職務は大変だなと思います。この頃難題が山積し、特に鳩山首相は支持率も下がり、心の休まる暇がないのではないかと思われますが、人生の書といわれる菜根譚に「草木が枯れだすころ、根本にはすでに新しい芽生えが始まっている。凍てつく寒さが来れば、陽気の訪れも遠くない。」という言葉があります。
4月17日に降った春雪は46年ぶりとのこと、この寒さが陽気の訪れとして鳩山さんの良き方向に向かう前触れであって欲しいものです。
 

 

       
     

こころのはなし(第157回)2010/04/01

 3月29日に息子の住職と共に、早朝3時に起床して車で和歌山県高野山に向け出発いたしました。高松中央インターから高速道に乗り、徳島県の鳴門、淡路島を通り、神戸、大阪難波を経て和歌山県に入り、弘法大師様のお母様おられた慈尊院のある九度山を経て、いよいよそこから曲がりくねった山道を登り始めました。途中花坂というところにまいりますと、ちらほらと雪が舞ってまいりました。高野山山上に登るとすでに一面真っ白です。約300キロを走り朝7時半に弘法大師さまがおいでになる奥の院に着きました。奥の院は老杉にかこまれ、清浄な霊気が漂い、薄っすらと雪化粧をした奥の院はそれは何ともいえない幽玄のせかいです。お大師さまがおわしますご廟前に参拝し、平安をお祈りいたしました。
 その晩は大師教会に泊めて頂き、翌早朝、大講堂で勤行に参加いたしました。身を切るような寒さの中でしたが心静かに祈りをささげることができました。
 高松の自房におりますと、日常の雑務に追われ、ついつい自分を見失いがちですが、高野山の澄み切った霊気の中で、心静かに祈りをささげる大切さを感じました。勤行では青年僧の若々しい声明(しょうみょう)の声が流れ、その声が寒気の中に流れ一緒に唱和していると、自身が大宇宙と融合しているかのような思いになってきます。
 真言宗には阿字観という座禅観法があります。密教のことばで瑜伽(ゆが)。瑜伽とはサンスクリット語のヨーガ(yoga)の音訳で、もともとyuj(ユュジ)「結びつける」という動詞からきた言葉です。結合という意味があります。これはもともと「くびきに馬を結びつける」という意味をもち、二つのものを一つにすることをいいます。馬をくびきに結びつけ、勝手な行動をさせないようにするという意味から、人間の精神活動を一定のところで固定し、結びつけて不動とする、動かないようにする意味に用いられるようになりました。
私たちの心は欲望のために、あれが欲しい、こうありたい。あのようになりたいといろいろな欲望が起こり、それが苦しみの原因となっています。このような心を意志の力でしっかりと繋ぎ止める心理作用が瑜伽(ヨーガ)の意味です。 以上のことから次に発展していきます。
(1) 自分と宇宙とを結ぶ。自身のこころと宇宙のこころとを融合させる。
(2) 心の活動と体の活動を結びつける。
(3) 散乱しているこころを一つにする。
この外に制御、結合、バランス、集中という意味を持っています。
このように密教で行なう修行の一つに瑜伽修行、これを行う修行者を瑜伽行者といいます。この瑜伽を阿字観法といいます。
弘法大師さまが高野山をお開きになられた一つの理由は阿字観法(修禅)の道場として最もふさわしい処としてお選びになられたのです。

 

       
     

こころのはなし(第156回)2010/03/15

 今月の6日は啓蟄でした。暦によると啓蟄とは土中にいた虫がそろそろと這い出てくる頃とあります。月初めに暖かい日がありましたので、このまま一気に春かと喜んでいましたが、再び寒波の襲来で高松でも9日、10日には霙が降りました。朝の勤行がことのほか辛く感じました。
 さて、13日頃になると中国の暦にある七十二節気のうちでは、「倉庚(そうこう)鳴く」とあります。倉庚とは鶯のことです。山里で鶯が鳴くころとあります。今年はまだまだのようですね。

3月16日は孫の卒園式です。お母さんは卒園式に着て行く着物合わせをしています。卒園式では孫がお別れのことばを読むそうです。孫は生まれてまもなく白血病と診断され、抗がん剤治療や色々な手を尽くして、最終的には骨髄移植をして奇跡的に助かりました。そのときには嫁は子に就ききりで、また家族の誰かが毎日片道一時間かけて県外の大学病院に行き、洗濯物の交換や、お弁当をとどけたりしてホローしました。その孫が2年間の幼稚園生活を終えて卒園します。本当に感無量です。

この季節はお別れの季節でもあります。そして先生や友だちと卒業の別れの挨拶が交わされます。サヨウナラ・・・
このサヨウナラとはどのような意味なのでしょうか?サヨウナラはサヨウナラバが変化した語だといいます。意味は「そのようであるならば」です。サヨウという語はもとはなかったものです。もとはオサラバといいました。サラバとはもう帰らなければならないという気持ちを挨拶語にしたものです。
子どもの頃サヨウナラといわないで「あばよ」と言って友達と別れたことを思い出します。アバヨとはアバは、「あれは」という意味で、もと感動をあらわす言葉が別れの挨拶になったといわれています。
 最近学習院が話題になっていますが、学習院の生徒が挨拶に使う「ごきげんよう」があります。これは御所ことばで出会いと別れの両方に用いるそうです。

何れにしろ春は悲喜交々縁によって出会い、縁によって別れていく季節です。また四月になれば孫が近くの小学校に入学です。少子化によって3つの小学校が統合され、校舎もすべて建て替えられました。そうした中で新しい世界が広がり、出会いがあり、色々なことを体験していくでしょう。この世界はご縁の世界です。ご縁によって成り立っています。孫も他人への気遣いのできる子に育ってほしいと願っています。
引用文献
 大修館書店 堀井令以知 著 にほんご歳時記

 

 

       
     

こころのはなし(第155回)2010/03/02

 先月、家内の血圧が高いので病院で診てもらうと、心筋梗塞の気があるといわれ、改めて色々と検査をしてもらいましたが、やはりその心配がるというので毎日病院通いをしています。そして食事は塩分少なめにして、病院では行くたびにストレッチをして帰ってきます。その功あってか血圧も一時より下がってきました。そのようなことがあったので、一度ゆっくりと温泉でもいって寛がせようと思い日程を調整したのですが、なかなか二日間の日程が取れません。
そして三月にずれ込み、やっと一日と二日の両日がとれて、岡山県の美作、湯郷温泉にマイカーを運転して家内共々行って来ました。この湯郷温泉は今から1200年ほど前、傷ついた白鷺に化身した文殊菩薩に導かれた円仁法師が湯郷温泉を見つけたといわれ、この伝統から鷺の湯ともいわれています。

宿泊した旅館は最近浴場などを改装し、内湯、露天風呂、薬石風呂と色々と工夫を凝らして集客に気を配っているのがよくわかります。特に薬石風呂は3畳ぐらいの部屋に小石を引き詰め、その小石の下から薬草の蒸気が出ているのでしょう、その蒸気によって小石が適度に温められ、その小石の上にバスタオルを敷き、横になると暖められた小石が身体に心地よく、10分ぐらい入っていると全身汗が吹き出てサウナ効果があらわれます。あとはシャワーで汗を流すと、実に爽快で病み付きになる感じでした。旅館の経営者はお客さんの要望に応えなければなりませんし、接客に心配りをして家庭では得られない満足感を提供しなければならず、本当に大変だなと思いました。

二日目は帰りの道すがら、二、三ケ所観光して行こうということで、先ず美作市(みまさかし)真神(まかみ)に在る長福寺に参拝いたしました。この長福寺は西日本播磨美作七福神霊場の一つで、立派な鎌倉中期、1285年の建立で丹塗りの美しい姿の三重塔が建っています。長福寺を後にして次の目的地である備前の閑谷学校に向いました。その閑谷(しずたに)学校に向う道は山の中の道で、クネクネと曲がる細い道です。対向車が来たら先ず交わすのが不可能と思われる山道ですが、ほとんど対向車もなく無事に里に下りることが出来ました。やれやれと思っていると和気清麻呂の生誕地である和気神社の横に出てきたではありませんか、これは幸運と早速家内と和気神社に参拝を致しました。境内にはわびすけという種類でしょうか、ピンク色の椿が今盛りと咲いています。この和気神社は本当に手入れが行き届き、神域を守る宮司さんのご苦労に頭が下がる思いでした。
和気神社を辞して40分ぐらい走ると備前の特別史跡閑谷学校に到着しました。この閑谷学校は岡山藩主池田光政が1670年に和気郡木谷村延原に庶民教育のための学校を建てるよう津田永忠に命じ、延原を閑谷と改称し、1673年講堂が完成しました。この講堂は現在国宝に指定されています。入母屋造りで錣葺(しころぶき)の大屋根をのせています。いったんこけら葺きの屋根をつくった上に、垂木ごとに漆をかけた一枚板を張り、その上に備前焼瓦をのせた手の込んだ造りです。この講堂では一と六のつく日に教授による四書五経などの講釈が行なわれたということです。本当に講堂は重厚な造りで圧倒させられます。校門を通り前庭に出ると紅梅、白梅が今を盛りにふくよかな香りを漂わせていました。梅園の横に在る茶店に入り甘酒をいただきながら家内と共に至福の時間を過ごすことが出来ました。

 

       
     

こころのはなし(第154回)2010/02/16

 2月1日のホームページの「こころの講話」では釈尊は煩悩の鎖から解放された人だとお話いたしました。煩悩のもとはものに執(とら)われることが最大の原因です。この執われる心から開放されることが大切です。
例えば方角とか日を気にする人がいます。今日はこちらの方角が悪いから他の道を行こうとか、今日は日が悪い友引だから結婚式はやめたほうがよいとか、仏滅だから法事はやめとこうと色々気にする人がいます。このようなことを一々気にしていたら満足に生きては生けません。しかし、多くの人が暦を気にしたり執われたりします。
また印鑑の画数が悪いといわれ、吉祥数の印鑑を作ったら社運が隆盛になるといわれ、高いお金を払い作ったら2ヵ月後に泥棒に入られ、金庫の中身を全部盗まれたという人もいます。
最近転んで足首を骨折し、入院したら隣のベットの人が骨折するのは姓名の画数が悪い、名前を変えたらもう骨折などしない。私は姓名判断を少しするので、私がよい名前を考えてあげるからといわれ、晃子を彰子に変えました。いよいよ骨折もよくなり退院する日になって、ベットから降りようとした弾みにベットから落ちてしまい、レントゲンを撮ってもらうと大腿骨にひびが入っていたというお話しもあります。
仏さまの智慧は世の中の真理をもって物事を思慮します。我々の知恵は損得の知恵です。
 
 産経新聞に次のような詩が載っていました。

 「ぼくは今日学校の帰りに/トンボをつかまえて家に帰ると/おかあさんがかわいそうだから放してあげなさいと言った/
ぼくはトンボを放してやった/トンボはうれしそうに空高く飛んでいった/それから台所に行くと/お母さんがほうきでゴキブリをたき殺していた/トンボもゴキブリも昆虫なのに」
少年の目には差別はありません。しかし、この母親は人間中心主義が身についています。人間に都合のよいものは「放してやりなさい」と優しいが、人間の都合悪いものはたたき殺しても心に痛みを感じない。これが人間の世界です。仏さまの目は生きとし生けるいのちはみな平等です。ですから仏さまは一切衆生とおっしゃっておられます。生きとし生けるいのちはみな平等と見るのが仏の知恵です。損得で考えるのは人間の知恵です。

先月知人家にお邪魔しました。玄関を入ると目の前に大きな水槽が置いてあります。それは熱帯魚の水槽です。見ると20センチほどの真っ白いなまずのような熱帯魚がゆったりと泳いでいます。その水槽の下にもう一つ水槽が置いてあり、中には赤い小さな金魚がたくさん泳いでいます。
私は上の水槽の熱帯魚の白と、下の水槽の赤い金魚のコントラストが綺麗ですので、つい褒めてしまいました。ほんとうに赤と白とできれいですね。すると友人が「イヤ・下の金魚は上の熱帯魚の餌なんですよ、生きた金魚が餌なのです。この熱帯魚きれいでしょう。ほんとうにかわいいです。」といい下の水槽から金魚を一匹掬い熱帯魚の水槽に入れると、その白い熱帯魚は一口で赤い金魚を飲み込んでしまいました。
白い熱帯魚も赤い金魚も同じいのち、人間の命も同じいのちに生きているのです。このように自覚するのが仏さまの智慧なのです。

       
     

こころのはなし(第153回)2010/02/01

 アッという間に一月も通り過ぎ、二月のこえをききました。古人は「東風氷りを解く」古の人は東の風は少しずつ氷りを溶かしますよと、寒さの中に春の風を感じ取っていました。2月3日は節分です。お寺の庭にすでに蕗の薹が出ています。春は確実にやって来ています。
 「世界がもし100人の村だったら」に
33人がキリスト教 
19人がイスラム教13人がヒンドゥー教
6人が仏教を信じています
5人は、木や石など、すべての自然に霊魂があると信じています。
24人は、ほかのさまざまな宗教を信じているか
あるいはなにも信じていません
世界の4大宗教といわれるのがキリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教、仏教です。仏教はこの中で最も長い歴史を持っています。

私たちは仏教徒です。仏教徒の定義はたいへん難しいと思いますが、一番簡単な定義は仏教を信じていることです。
 仏教は「佛の教え」です。インドの古い言葉で「目覚めた人」をブッタといいます。このブッタを漢字で発音するとブッタのブツは佛という字を当て、タは陀という漢字を当てはめます。これで佛陀となります。それで佛陀の佛の一字で「仏さま」というようになりました。佛さまの佛を分解してみますと「弗」(ふつ)に人偏がついています。人偏は人という字です。人がついて「人にあらざるもの」という意味になります。

「人にあらざるもの」とは私たちとどう違うのでしょうか。仏さまは「煩悩の鎖から解放された人」です。私たちはよく百八煩悩といいますが、百八煩悩とは数限りない煩悩の数を言います。
ショッとすると私たちは百八煩悩の塊ではないかと思います。その煩悩によって苦しみ、悩み、憂いながら苦しみの世界を生きています。その苦しみから解き放たれるには、(解脱)この煩悩の鎖から解き放たれないうちは、苦しみの世界に浮き沈みしているのです。その苦しみの世界から解き放たれるには、智慧を持つことです。
 ところが私たちの知恵は損得計算の上に立っている知恵です。
仏さまの智慧は般若の智慧といい、損得なしの知恵ではありません。智慧と知恵の違いは仏さまのちえは智慧、人間のちえは知恵と書きます。

仏典のジャータカ物語に「猿と一粒の豆」というお話があります。
あるところに一軒の農家がありました。一匹のサルが農家の庭先に干してある豆を失敬しました。口にいっぱいほうばり、おまけに両手にあふれるばかりの豆をつかんで、木の上に逃げました。木の上に腰を下ろして、ゆっくりと食べていたのです。ところが、途中でその豆の一粒をボロリと落としてしまいました。
すると猿はどうしたと思いますか、・・・
サルは両手に握っていた豆をパッと投げ捨てて、あわてて落ちた一粒をするすると木をすべり降りて探しにいったのです。
 木から降りて、木の下をサルは血眼のなって探しました。けれども豆は見つかりません。その時のサルの悲しそうな顔・・・
この話から皆さんはどのような教訓を学びますか。
一粒の豆のために、多くの豆を犠牲にするのは愚かです。一粒ぐらいどうでもいいではないかと思います。しかし、私たちはこの猿のように大切なものを求めず、一粒の豆だけを追うようなことを日常生活ではしているような気がします。
私の知り合いが、とても珍しい魚を飼っています。名前は分かりませんが、20センチもあるかと思う真っ白な魚で、ちょつとナマズに似ています。その飼育している水槽の下にもう一つ水槽が置いてあり、金魚がたくさん泳いでいます。私は金魚もたくさん飼っているのですね。というと「この金魚は上の水槽にいる熱帯魚の餌なのです」というのです。「生きていないといけないのです」というのです。私はびっくりしました。熱帯業を飼うために生きた金魚をえさとしてあげる。仏さまならば、熱帯魚も金魚も尊い命です。熱帯魚も金魚も同じいのちととらえ、両方のいのちを生かす方法を考えるのが仏さまの智慧なのです。この仏さまの智慧を持とうではありませんか。
引用文献
ひろさちや著 新訳仏教寓話 智慧袋
池田香代子再話 C.ダグラス・ラミス対訳
世界がもし100人のむらだったら

 

       
     

こころのはなし(第152回)2010/01/15

 うかうかしていたら早くも15日、ホームページ心の講話の書き換え、ほんとうに日がたつのが早いです。慌ててパソコンに向っています。この頃は寒波で本当に寒い。朝起きる頃は1度か2度の寒さですが、火の気のない本堂での勤行は若いとき、高野山で修行していた頃の修行感覚が戻ってきます。
年末までは起床は4時40分でしたが、今年の1日からは5時30分にいたしました。山門を開け、本堂の戸を開けると6時の鐘を撞きます。この2・3日は寒さと同時に強風です。隣が9階建てのマンションですから、そのビル風が半端ではございません。
手が悴み目から涙が出ます。寒いからといって鐘を打つスピードを上げるわけもいかず、ただ粛々と撞いています。

なぜそれまでして鐘を撞くのでしょうか。それは四威儀作法という本の中にこのように書かれています。
「洪鐘(こうしょう)晨(あした)に響いて群生(ぐんじょう)を覚(さま)し、声は十方無量の土に遍(へん)ず、識(しき)を含む群生も晋(あまね)く聞き知りて有情長夜(うじょうちょうや)の苦を祓(はら)い除(のぞ)かん」
この偈文は「打鐘の偈」といいます。まず寺院では午前四時になれば鐘を鳴らして大衆に暁天(朝)を告げます。
暁天とは寅の刻、現在の4時です。鐘の音は、上は三十三天から下は八寒八熱の奈落の底に至るまで響きわたって、目覚めるものを目覚めさせ、目覚めたものに一層のその覚醒(かくせい)の度を深めさせるのです。
 ある方が元来わが国の梵鐘の音色は荘厳幽玄であって、宗教的信念を喚起するのにすこぶる効あり。といわれている通り、そのために古くから文芸などに出てまいります。
新古今集に
山里の 春の夕ぐれ 来てみれば
      入相の鐘に 花ぞ散りける
明治時代に流行した新体詩では「孝女白菊」のはじめにある
 阿蘇の山里秋ふけて、ながめさみしき秋の暮れ、 いずくの寺の鐘ならん、諸行無常とつげわたる。
とあります。
また与謝野晶子の短歌に
 春の雨 高野の山に おん稚児の 
得度の日かや 鐘多く鳴る
このほか謡曲「三井寺」にも出てきますし、数多くの鐘を題材にしたものがありますが、何れにしろ寺で撞く鐘は迷えるものを覚醒させ、多くの人に信仰心を喚起するために朝撞くのです。
 また鐘を撞く回数は九回です。はじめの三つは捨て鐘といい、始から大きい音で撞くと近所の人がびっくりするので軽く撞きます。あとの六つは六道を表します。六道とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天を指します。要するに六ッの鐘の音は六道に迷う人々を救うという意味があるのです。


       
     

こころのはなし(第151回)2010/01/01

 明けましておめでとうございます。
皆様にはご機嫌麗しく新年をお迎えのことと存じます。
お正月が来ると明けましておめでとうと言いますが、明けましてとはどのような意味か調べてみました。明けましてとは日や年があらたまること。宇津保物語に見えるそうですが、この宇津保物語(うつほものがたり)は20巻からなるわが国最初の長編物語です。題名は、主人公藤原仲忠が幼少時に北山の大杉の空洞(うつほ)に住み、猿に養われて育ったという首巻の話によります。

さて、明けるというのは日や年があらたまると書きましたが堀井令以知著作の「にほんご歳時記」を見ますと、清少納言の「枕草子」に「春はあけぼの」とあります。この「あけぼの」とは夜がほのぼのと明けるころがアケボノです。しだいに物が見分けられるさまを、ホノカに明けると形容したもの。アケボノの前はアカツキです。その古い形はアカ(明)トキ(時)で、夜明け前の暗いときをいいます。
 
また東の空が白みはじめるころをシノノメ(東雲)というのは、篠(しの)竹で作られた篠の目の意味から、古代住居の明り取りに用いた篠の目から、夜明けの薄明かりがさしたことをシノノメといい。あけぼのをいうイナノメも、稲わらの窓の明かり取りの編みの目にもとずくとあります。
このように日本語というのは本当に繊細な意味を持ちます。感心することしきりです。
 
話は変わりますが、一休宗純禅師の道歌に、
 
 門松はめいどのたびの一里づか
   馬かごもなくとまりやもなし
とあります。私は今まで、「門松はめいどのたびの一里づか めでたくもありめでたくもなし」と覚えていましたが、ひろさちやさんの「仏教とっておきの話」にめでたくもありめでたくもなしではなく、「馬かごもなくとまりやもなし」とあるので自分の間違いにはじめて気づきました。
 
 人間の一生は瞬く間に過ぎてしまいます。80歳まで生きるとしてその中身を見てみると、27年間は寝ています。十年間は食事をしています。トイレを5年間使います。合計42年間。この時間は健康を保つための24年間です。
 80年間から42年間を差し引くと38年間です。38年間目をパッチリ開けて何かが出来るのは38年間です。この38年間はどのような時間でしょうか。仕事をしたり、勉強をしたり、遊んだり、その中で笑ったり、泣いたり、腹を立てたりしています。
またあれが欲しい、これは好きだ、あれは嫌いだとあれこれしている間にいつの間にか時は過ぎ、何もしなかった人生の幕が下ろされてしまいます。一休宗純禅師は「うかうかするなよ」と言っています。
引用文献
 にほんご歳時記 大修館書店 堀井 令以知著
 こよみ読み解き辞典柏書房 岡田芳朗 阿久根忠編著
 仏教とっておきの話 新潮社 ひろさちや
仏教スクール 第78号 文 篠原鋭一


       
     

こころのはなし(第150回)2009/12/15

 今年も残すところ半月になりました。11月には入ってからも比較的暖かい日が続いていましたが、この15日頃から冷たい風に変わってきました。
今年一年振り返ってみますと暗いニュースが多かったのではないかと思われます。昔は新聞などで時たまこころ温まる記事が出ていましたが、最近は皆無です。それに引き換え凶悪な事件や、また事故のニュースばかりです。そのような記事を見るにつけ亡くなった方の痛ましさや、遣りきれなさを覚えるのですが、それも覚えていても数日のことで、また次の事件や事故の情報が飛び込んできます。こうした情報の多さに感覚が麻痺してしまうのでしょうか。
今年は経済不況で日銀はデフレを宣言しました。経済界は特に二番底の不況があるのではないかと危惧しています。年の瀬になると倒産により職を失う人、リストラに遭う人などが生活に困窮し、生きる望を失い自らの命を絶つ人も少なくありません。
昨年一年間で自殺した人は三万二千人余、一年間の交通事故死より多いのです。三万二千人というとオリーブで有名な香川県小豆島の人口が三万二千人ですから、小豆島の人が一年のうちに居なくなったことになります。
自殺の原因を見ると、病気の問題、経済的な問題、家庭の問題と続きます。これらの問題をみますと、釈尊が説かれた四苦八苦の苦しみそのものです。四苦八苦とは生(生まれること)、老(老いることの苦しみ)、病(病による苦しみ)、死(死の苦しみ)この三つの苦しみである老、病、死の原因は人間としてこの世に生まれてきたことが原因で、四苦はその結果です。これは因果の法則です。要するに我々は原因と結果によっているということです。
ま四苦から次の四つの苦しみが引き出されます。それは一つには哀別離苦(あいべつりく)の苦しみです。愛しているものと別れなければならない苦しみです。次は怨憎会苦(おんぞうえく)、憎しみ怨むものと会うのは苦しみだという人間関係による苦しみです。次が求不得苦(ぐふとっく)です。求めても得られない苦しみ、欲求不満の苦しみです。最後は五蘊盛苦(ごおんじょうく)です。
この現実の世界には物や心が存在するいじょうはすべての対象物が苦しみの原因となるのです。
 ですから釈尊はこの世は苦しみの世界であるとお説きになりました。ではこの苦しみとは何か。苦しみとは梵語でドッカといい、漢訳すると不如意となります。読んで字の如しで意の如くならない。思うようにならないということが苦しみの原因です。
苦しみの原因が分かると、あとはその原因となるものに執われないことです。執われなければそのことが苦しみとはならないのです。執われるから思うようにならない、これが苦しみの出発点です。
この道理を知っていたならば自らの心が少しは軽くなるのではないでしょうか。要するに物に執着することなく正しい智慧を持って生きることです。穏やかな年末になることを祈っています。


       
     

こころのはなし(第149回)2009/11/15

 平安時代は多くの僧たちが危険を冒して遣唐使船で唐土に渡り、仏の教えを求めました。その目的を果たせないまま遭難した僧侶も少なくなかったことでしょう。
 また戒律を日本に伝えるために失明などの苦難にめげず、艱難辛苦の末、日本にたどり着いた鑑真和尚は「たとえ限りなく広いおおうなばらが隔てようとも、命を惜しむことはない」と述べています。これを不惜身命(ふしやくしんみよう)といいます。仏の教えのためには命を惜しまずに捧げることを言います。
 そして密教を唐土に求めた空海さまも「広い中国の海のように広大な仏教を訪ね究(きわ)めて、東の辺境である日本の旱(ひでり)のような法の渇(かわ)きを癒(いや)したいとおもっている。こうして私はとうとう一命を大海に棄てる覚悟で真実のおしえを求める旅に出た。」と「越州の節度使に与へて内外の経典を求める啓」で強い求道の意思を述べています。
 空海さまは遣唐使船に乗船し、長崎県の田浦港から出航、二日目にして暴風の襲来を受け、漂流すること三十四日、九死に一生を得て福州赤岸鎮に漂着したのです。
 その様子を「大使、福州の観察使に与ふるが為の書」に述べられています。「死の危険をおかして航海に乗り出した。こうしてひとたび本国の岸を離れて中途までおよんだころに、暴風が帆を破り、大風が舵(かじ)を折ってしまった。高波は天の河にしぶくほどとなり、小舟は波間にきりきり揉むありさまとなった。
(中略)猛風が吹ききたれば、これに顔をひそめて、そのまま死んで大亀の口に入るのではないかと覚悟し、大波に眉をひそめて、終(つい)の住みかを鯨の腹の中に定める気になった。浪のまにまに浮き沈みし、風の吹くままにまかせて南北に流れた。ただ天と海の水色の世界だけを見ていた。どうして山や谷の白い霧を見ることが出来ようか。波上に漂うこと二月あまり、ついに水は尽き人は疲れて、なお海路は長く、陸路は遠い。空を飛ぶ鳥の翼が脱け、水を泳ぐ魚の鰭(ひれ)で傷んでいるのも、どうして、今われわれの苦しみの喩(たとえ)とするのに充分といえようか。」と表現しています。
空海和尚は赤岸鎮に漂着、それから2400キロを旅して唐の都長安に到着し、密教の師を求め、ここに青龍寺の真言第七祖恵果阿闍梨に出会うのです。恵果阿闍梨は温顔を湛え、空海さまを一目見るなり「私はあなたに出会うことをどれだけ待ちわびたことか」と法を伝えるにふさわしいものと直感し、直に密教の奥儀を余す所なく伝えたのです。
空海さまに法を伝えた3ヶ月後に恵果阿闍梨は病に伏し、空海さまを呼び「私がこの国であなたに伝えることは何もない。早く本国に帰り、この教えを国家に奉り、天下に広めて人々の幸いを増すようにせよ。そうすれば、国中平和で万人の生きる喜びも深くなるであろう」
このお言葉こそが、空海さまのゆるぎない思想となり、高野山開創という現実的な行動となっていきます。
来る平成27年は空海さまが高野山を開かれて1200年になります。これを記念して世界平和のため、人々の幸せが末長く続きますように、50日間に亘り大法会が営なまれ祈りを捧げます。ぜひこの好機に高野山にご登山され、霊気に触れていただきたいと思います。


       
     

こころのはなし(第148回)2009/11/01

釈尊の言葉に
「頼りになるものは、自分自身だけである。自分自身のほかに、いったい誰が自分の救護者になりえようか。われわれは、よく整えられた自分自身の中にこそ、自分の救護者をみいださねばならぬ。」
私たちはそれぞれ自分自身でかけがえのない人生を生きて、やがては独りで死んでいかなければなりません。そう考えると、いかなる苦しみにも「身みずからこれに当たる」より他にありません。つまり、自分以外に何かに頼ることをやめて、自分自身を終極の「よりどころ」にしなければなりません。釈尊はお亡くなりになる時、阿難尊者という愛弟子に次のようにおっしゃいました。
「お前は自分自身に灯火(ともしび)をいだいて、自分の足元を、自分の行く手を照らし、輝かせなさい」と言い残しています。
これを仏教では「自灯明」(意味はみずからの明かりをともす)ということです。

現在密教禅塾の皆さんに喜捨していただいているボランティア基金はスリーランカのセネックス財団を通して寄進させていただいています。この財団を通して一人の子どもに里親として助成させていただいています。このセネックス財団の理事長はスリランカ仏教会の大僧正でありますシーラガマ ウイマラという方です。私はシラガマさんとは何度かお会いしていますが、偶然にも先月22日に会議のため高野山に登り、帰りのケーブルの中で何年ぶりかでお会いすることができました。そのお会いした二日前にシーラガマさんからポストカードが私に届いていました。
シーラガマさんは9月2日、57歳の誕生日を迎え、その感謝の誕生日カードを私に下さったのです。
そのカードにこのように書いてあります。
皆様お元気でしょうか。私は9月2日、57歳の誕生日を多くの人に支えられ、無事迎えることが出来ました。感謝申し上げます。
スリーランカでは誕生日は父母への感謝する日とされています。
 
この後にお父さんへの感謝のことば、お母さんへの感謝のことばが書かれております。
そして、皆様に感謝を込め57歳誕生日プレゼントとして6日間の布施行をいたしました。と書かれています。

一日目は誕生日布施行の前夜祭法要。二日目は百人の僧へ昼食接待布施行。三日目は入院患者の全快を祈り手首にお守りを結ぶ布施行。四日目は人々の幸せ、健康、諸々の願いを込めて仏への供養。五日目はきわめて貧しい人への食料布施。六日目は地域の方々へ報恩感謝の無料診療と献血運動を実施するとあります。

お釈迦さまが説いた「頼りになるものは、自分自身だけだある。自分自身のほかに、いったい誰が自分の救護者になりえようか。
われわれは、よく整えられた自分自身の中にこそ、自分の救護者を見出さねばならぬ。」
要するに「他のために」行動を起こすことは、結局自分の為であるということです。



       
     

こころのはなし(第147回)2009/10/12

毎月一日、十五日に文章を変えようと心掛けてはいますが、色々と雑用に追われているとついうっかり忘れてしまったり、題材が見つからずそのままになったりで、最近は頓に飛ばすことが多くなりました。今月は13日から16日まで山形にいる大学の同窓生に45年ぶりに家内共々会いに行くことになり、15日はホームページを書き換えることが出来ないので、少し早めに書くことにいたしました。
 
さて10月11日は自由律の句を詠む俳人種田山頭火の命日です。享年59歳、四国松山の一草庵でなくなっています。
今月の11日の朝、ラジオで11日は山頭火の命日ということを放送していましたので、前に一度読んだ事がある「俳人山頭火の生涯」大山澄太著 彌生選書を再び読んでみました。

この中に、「出家得度」について書かれています。
大正13年のある日、酔っ払った山頭火は熊本公会堂前を進行中の電車の前に仁王立ちした。急停車で事なきを得たが、車内の乗客は皆ひっくり返った。この騒ぎに、大勢の人が寄ってたかった。
自殺しようとしたのか、或いは酔狂からかそこは謎であるが、弟二郎もそれよりさき自殺している。やがて警察が来て、人山でかこまれた。その時、木庭という男が現れて、山頭火の腕をとらえ、「こっちへ来い」といいながらぐんぐん電車道を引張って俗にいう千体仏、つまり報恩寺という禅寺へ連れて行った。望月義庵和尚は、黙って微笑して迷える酒徒を容れた。和尚は何処の何者かを尋ねようとせず、また何の説法もせず、にこにこして三度の食事を供した。山頭火はそれまでにも、当時熊本で盛んに禅風を興していた沢木興道老師の会に、時々参じたことはあったのであるが、この寛容にして深切なもてなしによって、そして禅家の静かで簡素な雰囲気にしたって、心温まる思いがし、禅への関心を深めたばかりでなく、いつの程にか本格的に禅の道に参入する志を堅め、和尚に師事して、朝夕の行持を励み境内の掃除をし、座禅を組み、日々修行に打ち込むようになった。

ここまで読んで、望月義庵和尚の懐の深さというか、人間の大きさに只々深く感動いたしました。いまこのようなスケールの大きい人にはめったに会うことはできないでしょう。私は高野山の本山布教師として説教を通して教化活動をしてきました。
しかし、まさに教化のあるべき姿は望月和尚の「無言説」、あれこれと説かずに心で導くことこそ真の教化ではなかろうかと思います。
山頭火が沢木興道老師の会に時々参じたとありますが、私が大学時代、ちょうど昭和36年に興道老師について参禅をしたその記憶が蘇りました。

  お寺はしずかなぎんなん拾う     山頭火

       
     

こころのはなし(第146回)2009/10/01

 


今月の言葉は
たとえ真実のことでも、相手のためにならないことであるならば、語ってはならない。しかし、真実で、しかも相手のためになることであれば、たとえ相手に不愉快なことがあっても、それを語るべきである。」「経集」にある言葉です。
主婦の友社 から出ている、「病院で死ぬこと」という本があります。山崎章郎(ふみお)さんの著作です。
その著作の中で、わが国は現在、日本人の死因の第一を占めているガンのために、毎年二十万人の人たちが、この世を去っている。これは日本人のうち、四人に一人がガンで死亡していることを示している。(この本の出版が平成四年ですから、このデーターは変わっているかもしれません。)
 (中略)
一般の人がガン=死と考えるのも無理からぬことだと思う。しかし、もちろん、ガン=死という考えは誤った考えである。(中略)できはじめのガンであれば、ほとんどの人は治療によって完治するし、かなりの進行がんでも半分以上の人が治っていくのが実状だからだ。(中略)ただ、現時点では、不幸にして末期がんになっていく人もいるわけで、その数が年間二十万人ということになる。

体に変調を感じ病院に行き、色々な検査を重ね、ガンという思わぬ結果が出たとき医師は家族を呼び、患者さんの病気の状態を告げ、患者本人にガン告知をすべきか否かを医師も家族も迷うと思います。がん告知によって患者は絶望の渕に立たされ、生きる希望を失って死期を早める結果になるかもしれません。
ある坊さんが、ガンにおかされ、医師に「自分は若い時から修行を積んできているから、どのようなことにも動じない心をもっている。どうか正直に病状を言ってください」と懇願しました。

医師は「そうだな、修行も積んでいるので、ガン告知をしてもダメージは小さいだろう」と思い告知したところが、豈図らんや死期を早める結果になったという話を聞いたことがあります。

真実を伝えることは正しいことなのですが、受け手がその真実を事実としてうけとり、逆に頑張ろうという希望もって生きる時には真実を伝えることも出来ますが、逆に真実を告げた結果、最悪の事態になることも予想される。この判断は非常に難しい。

高野山管長に津田 実雄大僧正というかたがいらっしゃいました。昭和四十二年二月に肝臓ガンで遷化されました。
入院されたから没するまでわずか三週間でした。長男の現住職は次のようにお話されて居ます。
「うちの老僧は、よく『浮生一場』という字を軸に書いたということです。命というものは、与えられただけだ。宇宙から見れば、ほんのちょっとした間のことだ。だからその間をその間を大切に生きなきゃいかん、いつ命が尽きるかわからんが、尽きるまでに与えられたものに報いたい。そうゆう生き方やなかったかと思うんです」

人間というものは本当に弱いものです。その一言によって高められたり、希望を抱いたり、夢を持ち続けたりします。逆にその一言で希望を失なったり、絶望に追い込まれたりします。また立ち直る機会を与えることにもなるかもしれません。真実を伝えることの難しさは此処にあると思います。
「経 集」では仏の言葉として表題の言葉を説いているのです。

引用文献
 山崎 章郎著 病院で死ぬということ
 柳田 邦男著 ガン 50人の勇気
 松涛 弘道著 釈尊の名言108の知恵

 

 

       
     

こころのはなし(第145回)2009/9/01

 


8月10日でしたか、静岡県一帯に震度6弱の地震があり、高速道路が一時不通になりました。中学の同窓生が沼津の近くの函南にいるので、心配で次の朝早くメールを入れましたら、返事が返ってきて、その時の様子伝えてくれました。その時点で彼は
ペッボトルを数本持って、車の中にいて家の中は怖くて帰れないということでした。天災はいつくるかわかりません。
しかし、この自然災害は地球のはたらきであって、考えてみたら地球誕生から今日まで災害は続いているのです。地球誕生から今日まで38億年色々な困難を乗り越えてこうして「いのち」が続いているのです。このいのちを伝えてくれた私のいのちに繋がるご先祖さまに感謝しなければなりません。ご先祖さまというのは私の生命の根源です。
ご先祖さまに尊いいのちを頂いた。この尊いいのちを大切に生かさなかったら生きてきた甲斐がありません。
 8月にあるお寺にお話を依頼されてまいりますと、お寺の住職が、参拝にこられた檀家の方々に小雑誌を施本されていましたので、私も一冊頂きました。本の名前は「ぶっつきょうスクール」、ゆったりとおおらかにというタイトルがついています。その中に「お盆のひとときに想う」と題して次のように書いてあります。

八十歳まで生きるとして
その中身を見てみると
二十七年間は眠っています。
十年間は食事をしています。
トイレを五年間使います。
合わせると四十二年間・・・
健康を保つための
大切な四十二年間です。
八十年からこの期間を差し引くと
三十八年間
目をパッチリ開いて
何かができるのは三十八年間
この三十八年間は あなたにとって
短いですか?長いですか?
いずれにしても
まあ ゆったりと大らかに
いきていきましょう

こうした時の移ろいの中で、ご先祖から頂いた尊いいのちを大切に、悔いのない生き方をしていきましょう。
 

 

       
     

こころのはなし(第144回)2009/8/11

 


高速道路の料金が千円になったことで、割安感から今年のお盆は高速道路を使った故郷への帰省が多くなるようです。昔からこのお盆の時期は民族の大移動といって、どの交通機関も混雑いたします。特にお盆の期間中高速道路の大渋滞が予想され、すでに渋滞が30キロ〜50キロになるだろうといわれています。
やはり、お盆は日本人にとって忘れることが出来ない仏教行事、ご先祖への供養の期間です。東京では7月にお盆を向え、関西地方では月遅れの8月盆が多いようです。お盆はご先祖や今は亡き人々の御霊を13日にお迎えして、15日にお送りをする。(16日という所もあります。)
お盆とは梵語のウラバンナを中国に伝えた時、ウラバンナの音を漢字に当てはめ盂蘭盆(うらぼん)としました。ウラバンナとは倒懸(とうけん)と訳されます。倒懸とは逆さにつらされた苦しみをいいます。逆さ吊りはもっとも苦しい状態を指し、人間の苦しみを救うという意味があります。
このお盆の行事は「盂蘭盆経」に基づいています。釈尊の弟子の摩訶目?連(まかもっけんれん){ふつう目連尊者といいます。}
は父母の恩に報いたいと、超能力で世間を見ると、母は餓鬼道に堕ちて苦しんでいました。目連尊者はなんとかして母を救いたいと釈尊に尋ねました。
 釈尊は目連尊者に、雨期の3ケ月間お寺で修行している僧たちが、修行の終わる7月15日がちょうど反省の日となっている。この日に修行僧に布施供養すれば母親の苦しみを救うことが出来るだろうと教えられました。
 目連尊者は教えの如くに修行僧に数々の供養の品を布施すると、その功徳によって目連尊者の母は餓鬼道から救われたという
教えにもとづくのです。
 最初に少し触れましたが、7月13日に夕方の迎え火に始まり、16日の送り火に終わります。祖先の霊を自宅に向え、父母の恩を謝し、種々の供物(季節の野菜、果物等)をお供えしてお経をあげ、冥福を祈って倒懸の苦しみから逃れられるように祈るのです。
またお供えに13日は迎え団子といって、あんのついた団子をお供えし、15日には送り団子といって、白の団子をお供えする風習があります。
このお盆の行事は、インドから中国を経て飛鳥時代に日本に入ってきました。わが国では推古天皇の14年(606年)飛鳥の法隆寺で行なわれたのが初めで、聖武天皇の天平5年(733年)から宮中の仏事となりました。
このお盆で大切なことは、祖先から頂いたこのいのちあることに感謝し、そのご恩に報い、その祖先に感謝する日です。ここで
ご先祖さまの命をさかのぼってみましょう。
私たちの親は二人、祖父母は四人、曽祖父は八人、四代前は十六人、十代前の親は千二十四人人、二十代前になると百四万八千五百七十六人、二十代前というと約五百年前のこと、さらに四十代さかのぼると一兆九百九十五億一千百六十二万七千七百七十六人、平安時代紫式部が源氏物語を書いた時代です。
奈良の東大寺の大仏開眼供養の行われた天平勝宝四年(752)の頃までさかのぼると、三百兆人以上の親を私たち一人一人が持っていることになります。
この数を見ると、本当に私のいのちはご先祖から頂いた尊いいのちだということがわかります。そのご先祖の霊に感謝のまことを捧げるのがお盆なのです

 

       
     

こころのはなし(第143回)2009/7/01

 


友人から電話を頂き植物の半夏生が間違っているとご指摘をいただきましたので訂正させていただきます。

新暦の7月2日から6日ごろを季語で「半夏生ず」といいます。このころは植物の「半夏生」が咲く頃です。半夏生はドクダミ科で半化粧とも書きます。水辺に生える多年草で、浅い池、沼の中にも生えます。7月になると白い葉を付けるから名づけられたといわれ、葉の半分が白いので片白草とも呼ばれています。
また、「からすびしゃく」を別名「半夏」といいます。また雀の柄杓、杓子草、へそくりと言います。全国の畑地雑草として知られる多年草で、球状の地下茎を持ち、漢方薬では球茎を半夏と呼んでいます。

 讃岐では半夏生の時にウドンを食べる習慣がありますが、農家の人たちは、この日までには田植えを済ませ、どんな天候不順な年でも、このあとは田植えをしないという習慣がありました。「半夏生前なら半作取れる」という言い伝えは田植えが遅れても、半夏の前までであったら平年作の半分までは収穫できるという教えです。また半夏生の頃は竹の子・わらび、竹林に入ることを忌む習慣がありました。
 半夏とはもともと仏教で、90日間行なわれる夏安居に中間で45日目をいいます。インドでは3ヶ月間雨期が続きます。その間インド各地に出かけ、伝道活動をしているお坊さんが祇園精舎に帰り、90日間の修行をするのです。これを夏安居といいます。
この雨期の時期に寺にもでって修行するのは、虫や、昆虫を踏み殺さないために一箇所に留まり、修行するのです。仏教の十善戒の中に不殺生があります。生きとし生けるいのちを損なわないというのが仏教徒の心得です。
さて今月の言葉は兵庫県出石にある東光寺の東井義雄さんの詩です。
78年も わたしの胸の中で 働き続けてくれた 心臓
夜も昼も 一日の休みもなく 一分の休みもなく 
働き続けてくれた 心臓

二万八千四百七十日 一日の休みもなく
働き続けてくれた 心臓

六十八万三千二百八十時間 一時間の休みもなく
働き続けてくれた 心臓

四千九十九万六千八百分 一日の休みもなく
働き続けてくれた心臓

ろくに感謝もせず ろくにお礼も言わず ねぎらいもせず
いじめることだけしかしなかったために
きっと 疲れたのでしょう ありがとう ごくろうさま
もう 休息をとってもらっても 
不平をいう資格はまったくない 私なのだが
倅がいまだに 意識が戻らないままでいる
どうか もうひとがんばり 私を支えておくれ  
ありがとう すいません
南無阿弥陀佛

東井先生の息子さんは小学校に勤務していていて、子どもと一緒に走っていて、突然倒れてしまい156日まったく意識がありません。「一寸先は闇」ということばを、真っ先に思い出しました。こんな言葉がうまれてきたということの背後には、私の息子だけでなく、数知れない多くのこういう事実があり、こういうことに出合われた、数知れない多くの皆さんが、ため息のように、このことばをつぶやいてこられたということだと、気付かせていただきました。
 交通事故で、かわいい女の子さんを亡くされた若いお母さんのおことばを思い出しました。
 「朝、家を出たものが午後帰ってくる、それは当然のことだと思っていました。しかし、それは、ただごとでないことであったのです。それをあの子が、いのちがけで教えてくれたのです。それ以後、主人が出勤するときには、どんなに忙しくても、仕事の途中であっても、とんで行って見送ります。帰宅してくれたときにも、とんで行って迎えます。いのちがけで、人間の別れと出会いの大切さを教えてくれたあの子に申し訳ありませんから」という言葉でした。
 気付いてみれば「人生無常」は仏さまの切実な教えでした。それを、上の空で聞き流し、形ばかりの見送りをしていた私を知らせていただきました。と述べています。一瞬一瞬を大切に生きる。それを忘れてはいけません。

 

 

       
     

こころのはなし(第142回)2009/6/15

 


この頃日一日と新緑が初夏の太陽に照らされて緑をさらに濃くしています。
 今よく売れている本は「間違えやすい漢字」という本だそうです。パソコンを使いだしてから漢字を覚えなくなってきました。
 昔よく使われていた語で最近使わなくなったり、忘れ去られてしまった語を死語といいますが、その一つに「大和撫子」があります。この大和撫子の意味を辞書で調べてみますと、その中に次のように出ています。
 「日本女性の美称、また日本女性の清楚な美しさをほめていう語」とあります。ところがこれは女性に見られる理想の姿を具体的に述べているものではありません。女性の理想像について表現するのは大変難しいと思います。ですから広辞苑も「日本女性の美称」とだけの表現に留まっているのだと思います。例えば男らしい男の定義というのも難しいですね。男とは力が強い男が男らしい男だと言ってもいや違う。やさしさのある男が本当の男だと言う人がいるかもしれません。 大和撫子は女性の美称、美称とは物や人を飾ったりほめたりする呼び方です。
 大和撫子とはどのような女性を想像しますかと仮に質問したとしましょう。男性から見る大和撫子のイメージと、女性がイメージする大和撫子とは千差万別に見方のあります。
 しかし、辞書にあるように大和撫子は日本女性の清楚な美しさを褒めて言う語だとするならば、まずおしとやかな女性の姿を想像するだろうと思います。
昔から「男性は強く、女性はおしとやか」な姿を想像するのは私だけでしょうか。ところが最近はこれが逆転したようだと産経新聞に出ていました。
「男の子は強く、女の子はやさしく」などといわれた時代ははるか昔のこと、暴力を振るうのは男性と考えられていたのは昔のことと前置きして、「東京都が男性から相談を受けた家庭内暴力の四割が女性からの暴力で、暴言など精神的暴力が九割のほか殴る、蹴るなどの肉体的暴力も一割もあった」とかかれていました。
この記事を読みますと、女性が強くなったのか、男性が弱くなったのか本当の所はわかりませんが、何れにしろ女性が負けていない時代になったということでしょうか。それとも慎み深い女性が少なくなってきたからなのでしょうか。
 
 いまみな平等だということを言います。また男女平等ともいいます。平等とは何でも同じということではありません。この平等ということは辞書で見ますと。「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」とあります。しかし、ここで注意しなければいけないのは、私たちはいのちという基盤に立って考える時、等しくいのちは平等なのです。このいのちはかけがえのない命です。このいのちの大切さを本当に自覚した時、他への思いやりとなり、他のいのちを大切に出来るのです。そして真に平等の心が生まれるのです。
 さて、話は変わりますが、日本時間の六月八日、アメリカ・テキサス州フォトワースで開かれた第十三回バン・クライバーン国際ピアノコンクールで全盲の日本人ピアニスト。辻井伸行さん二十歳が優勝いたしました。一九六二年にスタートしたこのコンクールで日本人が優勝したのは初めてということです。障害を克服しての快挙に内外の注目を集めそうだと報道されています。
 辻井さんは東京生まれ、生まれつきの全盲で、伸行さんの才能にはじめて気づいたのは二歳三ヶ月の時、家にあったおもちゃのピアノで母親が口ずさんだ「ジングルベル」をすらすらと弾く姿に、「この子は音楽が好きなんだな」と気づき、それからピアノの練習に力を入れ、七歳で全日本盲学生音楽コンクール第一位、十歳でリサイタルデビューと才能を早くから開花させ、今回の優勝となったのです。しかし、天才少年といわれていましたが、その蔭には並々ならぬたゆまぬ努力と苦労があったことと思います。
 さて、このコンクールで全盲の辻井伸行さんの審査はとても難しかったのではと想像します。ともすると聴衆も全盲だという意識を持って聞くだろうし、審査員も全盲だからという見方で実力を審査するかもしれません。しかし、審査員から非公式に「全盲というハンディキャプはまったく考慮していない。純粋に演奏が評価された」と打ち明けられたといいます。
 純粋に音楽の実力だけで審査して評価する。なかなかできることではあるません。ともすると差別があったり、健常者と違って障害があるからということで、ハンディを付けて評価しても不思議ではありません。今回のコンクールの審査員はほんとうに平等ということの意味を理解しているのだと気づかされ、平等ということはいのちの尊厳の上に成り立つのだと再認識をいたしました。
 最近平等の意味を履き違える方がおおいように思われます。もう一度平等ということについて真剣に考えてみようではありませんか。

 

       
     

こころのはなし(第141回)2009/5/01

 


この頃よく心の講話が書けない事が多くなりました。4月は本当に多忙な月でした。と申しますのは、香川大学の讃岐学という講座が開講されました。この講座は香川の魅力を県外から来た学生らにも伝えるため、香川大学は今年から「讃岐学入門」を開講し一般公開されました。学生や一般から応募した聴講生ら約300人が耳を傾けてくださいました。
 
 この講師をお引き受けはしたのですが、一番難しいのが講義時間が90分で、その中で空海大師の足跡たどり、また四国八十八ヶ所霊場について述べなければいけませんので、その資料集めに四苦八苦いたしました。空海大師の足跡はわからないことが多々ありますが、しかし空海研究は今までに相当進んでいますし、多くの学術論文が発表されています。
 その意味では空海大師の講義はさほど苦労とは思いませんが、難しいのが四国八十八ヶ所についてです。第一に八十八ヶ所の何を要点として話をしたらよいかということです。八十八の寺院の説明ではいけませんし、あくまで讃岐学という学問の範疇としてとらえなければなりません。信用に足りる資料がないといけません。しかし、そのような学術資料がほとんどありません。
そこで私は八十八ヶ所の開創について調べ始めました。先ず八十八ヶ所の寺院の伝えられている縁起(社寺などの由来または霊験などの伝説)について調べました。

すると多くの寺院は、空海大師以前、行基菩薩や役小角(えんのこずか)の創建であったり、空鉢(くうはつ)上人の開基とされるところもあります。ですから空海大師以前に既に四国には多くの寺があり、後に空海大師が巡錫されたという事になります。もちろん空海大師が開基のお寺もございます。ですから四国八十八ヶ所の寺院はすべてが空海大師が建てられたのではないのです。

では八十八ヶ所は誰が選定したのかこれも定かではありません。しかし、山林修行をされていた19歳から30歳頃までに奈良の吉野山、葛城山系の山々、四国阿波(徳島県)の太龍寺、土佐(高知県)の室戸崎、伊予(愛媛県)石槌山などを修行の場所としておられたので、その時現在の八十八ヶ所との繋がりがあったとも考えられます。
何れにしろ四国八十八ヵ所は1,200年余りの歴史の中で、人々の大師信仰によって支えられ、そこには四国の風土、人情によって育まれた世界でも類を見ない全長1200キロの霊場の道が今も続いているのです。


 

 

       
     

こころのはなし(第140回)2009/4.1

 


桜の開花宣言が出されてから寒気が入り、毎日寒い日が続いています。お寺の庭に銅像の弘法大師像がまつられています。その大師像のすぐ後ろに一本の染井吉野があり、この桜が満開になると
あたかも桜の天蓋をお大師さまにさし掛けたようになります。

その弘法大師像のまわりには四国八十八ヶ所のお砂踏みの霊場が造られています。お四国八十八を巡拝できない人ためにミニ八十八ヶ所が造ってあります。このような霊場を「うつし霊場」といいます。このようなうつし霊場は各地にあります。身近なところに小豆島八十八ヶ所・讃岐一国八十八ヶ所・摂津国八十八ヶ所(現在の大阪府一部は兵庫県に属する)・福岡県篠栗町にある篠栗八十八ヶ所、このほかお寺の裏山に八十八ヶ所の札所の本尊の石造を安置してミニ八十八ヶ所を開いている所は数え切れないほどあります。

四国八十八ヶ所は行程1,200`ありますし、札所は平坦な所ばかりではありません。難所といわれる所もございます。一生に一度は巡拝したいと思ってもなかなかお参りが出来ません。第一健康でなければ駄目ですし、経済的なこともあるでしょう。このような色々な問題をクリヤーしてはじめて巡拝が実現するのです。ですから、身近な所に八十八ヶ所があればお大師さまの遺跡を巡る同じ功徳がいただけるのです。

さて、この四国八十八ヶ所の開祖は誰なのでしょうか。一説には空海和尚の弟子で高雄山の真済(しんぜい)・嵯峨天皇の皇子真如親王説などがあります。また八十八ヶ所霊場の起源はというと、
今は昔ではじまる今昔物語に「今は昔、仏の道を行ける僧三人、伴いて四国の辺路(へじ)というは伊予・阿波・土佐の海辺の廻なり、」とあり、辺路は僻地という意味で、空海生誕以前に四国の海辺の道が四国をぐるっと廻っていたようです。空海和尚も海辺の道を歩かれて当然修行されていたことでしょう。今昔物語は12世紀後半の作と考えられていますから、その頃には四国を廻る路がすでにあり、平安時代末にはすでに僧侶が巡拝していたらしいのです。そして巡拝が一般化するのは江戸時代元禄の頃からです。
 この四国辺路が四国遍路になったのかについては定かではなありません。何れにしろ、現在も多くの人々が大師信仰をもととして、救いを求めて桜咲く四国路を歩いておられます。

 


 

 

       
     

こころのはなし(第139回)20093.15


昨日まで本当によく雨が降り薄ら寒い日が続きましたが、それが今日は見事な天気でした。今日15日に檀家さんの法事で木田郡三木町に参りました。ところが今まで何度ともなく訪れた所なのに道を間違え悪戦苦闘いたしました。春の陽気と車内の暖房が相まって頭のコンピューターがトラブルを起こしたのかも知れません。
法事の帰りに四国八十八ヶ所の87番札所、長尾寺の近くを通りますと、手甲、脚半、白衣(びゃくい)をつけたお遍路さんが結願札所の大窪寺に向けて歩いておられました。

昔から四国の春はお遍路さんの鈴の音からやってくるといわれます。菜の花の咲き乱れる路を菅笠をかぶり、お遍路さんが一歩一歩歩くたびに腰につけた鈴がチリンチリンとのどかな音色を立てる。ほんとうに平和な一時です。四国ならではの風景です。

詩人の坂村真民さんの「仏国四国」という詩を紹介させていただきます。
    仏国四国
     春
四国連山の雪が消えると
一時に大地は
菜の花ざかりとなる
タンポポもはなをつけ
道ゆく人の足をとめ
桃の花もほほえみかけて
働く人の心をよろこばせる
そして春の鳥が
諸仏諸菩薩の徳をたたえて
人々に呼びかける

四国は仏島である
世界にもない
仏の島である八十八の霊場が
大きな数珠のように
この四つの国々を
めぐりつないでいる

南無大師
遍照金剛と
信仰あつい人々の声が
春のいぶきと共に
野に山に
海沿いの路に
ひびきわたる
そして数々の霊験が
石にきざまれ
一木一草にしみわたって
大師の徳を
今に伝えている

あゝ
日本の庶民の信仰が
いまもなお素朴にして
美しくたくましく
その人々を幸せにし
その人々を豊かにし
生きる喜びと
安らぎとを与えている

大空に白い雲が流れ
大地には白衣(びゃくい)の人々が続き
四国はおへんろの鈴の音に
春の幕があけられていく

皆さんも一度四国を訪れてみませんか。坂村貧民先生がおっしゃてるように四国は仏の島です。自己を見つめ一心に歩く、必ずお大師さまのお加護をいただけます


 

 

       
     

こころのはなし(第138回)20093.01


3月の言葉は釈尊の説かれた法句経の186番にある言葉です。
貨幣の雨を降らしても、もろもろの欲望が満足することはない。
「欲望は愉悦短くして、思うようにならないものだ」と賢いものは知っている。愉悦とは心からの楽しみを言います。

昨年は色々な偽装事件や詐欺事件がつづきました。食品の偽装事件、大阪の吉兆の事件、中国産のウナギの産地偽装事件、また米粉加工会社「三笠フーズ」が農薬に汚染されたベトナム産の米を食用として売却しました。1キロ当たり18円で仕入れ、110円で卸し、利ざやを稼ぐあくどいやり方です。

最近では大阪府警に「54歳の女相場師」が逮捕されました。株取り引きによる高配当を語り、関西中国、四国の150人から総額15億円を集め詐欺容疑で逮捕されました。だます方も悪いけれど、だまされる方も甘い話に乗ってだまされる。それは欲があるからだましたり、だまされたりするのです。これを仏教では貪欲といいます。貪欲の貧は貧しいと書きます。貪欲とは貪りの心です。貪りとは物をほしがる気持ちです。これを貪欲といいます。今の世の中は欲望の突出した時代です。自分の欲望を満たす為には何でもするという時代になってしまいました。
其の顕著な犯罪が「振り込め詐欺」です。2008年中に発生した振り込め詐欺は認知件数240,481件、被害総額が275億9千4百98円、検挙数が4,400件です。

 詐欺の「さ詐」とは偽るとか、あざむくという意味です。「ぎ欺」とはやはりあざむく、だますという意味です。其の手口はオレオレ詐欺、架空請求詐欺、融資保証金詐欺、還付金等の詐欺などがあり、色々な手口を使って金を取ろうと虎視眈々と狙っています。
これが欲望の世界です。物や金では決して自分の欲望のすべてを満たすことは出来ないのことを知っておくべきです。


 

 

       
     

こころのはなし(第136回)2009.2.01


一度心の講話を休むと、何か力が抜けたように次の原稿を起こす気になれない。何か書かなければと思うのですが、一向にその気になれません。こんな状態が一月続きました。まさにスランプの状態でした。
 その間、お寺の裏庭に蕗の頭が顔をだし、梅の花が開花し始めました。「梅は寒苦を経て清らかに花を咲かせる」の言葉どうり、梅は寒さを耐えて花を咲かせています。この梅に学び怠けないように頑張ろうと思います。
 さて、高松市内に高松市歴史資料館があります、主として高松の縄文時代から今日に到るまでの歴史的価値の高い資料が展示されています。またその中に文豪菊池寛資料室もあります。
 この歴史資料館に友の会があり、また郷土の歴史や文化を学ぶ讃岐村塾という会があります。隔月ぐらいに資料館に集まり研鑽を深めます。去る2月24日には県外研修で播磨の古寺と日本三奇を訪ねて、市職員の方々のお世話で朝8時に高松市役所をバスにて出発いたしました。
10時40分には姫路市の北に位置する書写山ロープウエイ山麓に到着、ロープウエイ山上駅に到着し、そこから歩いて円教寺に参拝をいたしました。この日は寒波の襲来で散策をしている時に雪花がちらついていましたが、その寒さを忘れるぐらいの素晴らしいお寺でした。この書写山円教寺は西国三十三観音の二十七番札所です。天台宗の寺院で西の比叡山といわれているようにまさに壮大な寺院です。966年に性空上人によって開かれ、鎮護国家の道場でありました。鎮護国家とは仏法によって国家を鎮定し守護することです。
この寺の中心をなしているのが大講堂で花山法皇によって創建され、桃山時代初期のもので鎌倉時代の特徴も残し、重要文化財に指定されています。見上げるほどの建造物で、その荘厳さに圧倒されました。また西国二十七番の札所になっている摩尼殿は、京都の清水寺の舞台と同じような建物で、お堂の前にせり出しをつくり、これもまた素晴らしい建物です。
 私はこのような壮大な伽藍配置の立派な堂等を拝見するといつも思うのですが、これらの建造物をどのようにし維持管理しているのか、さぞご苦労が多いのだろうと拝察します。
私の寺は円教寺の半分にもおよばない寺ですが、それでも雨漏りの心配、シロアリの心配、火災の心配、盗難の心配等々、実に苦労が多いのです。参拝や観光で寺院を訪れる時はやもするとそのような部分を見落としがちです。摩尼殿の裏側に回ると壁板に無数の落書きがありました。本当に心無い人のために大切な文化財が傷つけられる、まことに残念なことです。落書きをする人は人の目を盗んで文化財や建造物に落書きをします。いくら管理者が注意しても注意しきれません。他のものを傷つけ損なわないことは十善戒の不殺生を犯したことになるのです。 

 

       
     

こころのはなし(第135回)2009.1.01


明けましておめでとうございます。
昨年12月15日の心の講話は、このホームページを開設した2003年1月以来始めて休んでしまいました。
昨年の12月は事の外多忙な日々が続き、気になりながらもついに原稿を書くことが出来ませんでした。読者の皆様にご迷惑をお掛けしましたことをお詫びいたします。
さて、皆様はこのお正月をどのようにお迎えになりましたでしょうか。お寺では31日の大晦日は毎年恒例の除夜の鐘で始まります。12時10分前から般若心経を唱えて、住職がはじめの梵鐘を撞き、今年5歳になる孫が住職に続いて撞きました。後は参拝者の方々が3回づつ撞きますが、今年も長蛇の列が出来て寒風吹く中をじっと待ち続けておられました。鐘を撞き終わりますと本堂に参拝されて善哉の接待を受けます。今年は本堂でゆっくりされる方が多く、朝方まで本堂内はいっぱいでした。
昨年アメリカのサブプライム問題に端を発して100年に一度といわれる経済危機を迎えました。一度に世界の経済がおかしくなり、日本が誇る自動車産業、特にトヨタ自動車は最高の利益を上げながら、この経済危機に直面するやいっぺんに赤字に転落し、多くの派遣社員を解雇しなければならなくなりました。職を失った人々は厳しい正月を迎えたのではないかと心を痛めます。
私は経済の仕組みはわかりませんが、つくづく浮き沈みの世の中だということは実感します。
釈尊が説かれた法句経の189番に次のような言葉があります。
     こは 安穏の
     よりどころにあらず
     こは すぐれたる
     よりどころにあらず
     かかるところに
     帰依するとも
     すべてのくるしみを
     のがれることなし
とあります。いま自分がいるこの会社は何の心配もない、また我が家も暖かい家族もいるし、何の不安もない、唯一の安らぎの場所であると思っているかもしれない。しかし、どのような所でも
優れた安住の場所ではないのです。人間には必ず苦しみがあります。苦しみとは思うようにならないこと、意の如くならないこと。これを不如意といいます。自分の思うようにならないところから起こる感情が苦しみなのです。
 私たちはどのような豪邸に住まおうと、どんな豪華な食事をしようと満足する心がなかったら、苦しみはついてまわるのです。
逆にどんな最悪の生活環境にあっても、食事が粗末であっても感謝のこころがあるとそのことが苦しみとはならないのです。しかし、現実に職を追われ、住む家を無くした人は現実に苦しみを受けています。そのような時にいくら心を説いてもお腹は満腹になりませんし、暖かい寝床に着けるわけではありません。先ずは目前の苦しみを取り除かなければなりません。それには多くの人々の援助が必要です。
 いま自分がそうした人たちに何が出来るのだろうか。また世界中でいま苦しんでいる人たちに自分は何が出来るのだろうか。いま必要なのは決断と実行力ではないでしょうか。


 

       
     

こころのはなし(第134回)2008.12.01


これから忘年会の季節です。罰金刑も従来まして重くなっていますがそれでも飲酒運転は無くなりません。
11月17日の新聞でも酒に酔って運転していた警視庁総務部の警視を酒酔い運転で逮捕したと報道していました。一泊二日の予定でキャンプ場で行われたレクリエーションに参加、バーベキュウーなどして飲酒、県道で飲酒運転をして、当て逃げ事故を起こしてしまいました。容疑者は飲酒運転撲滅運動の旗振り役をしたこともあり、交通部門のベテランだったと報じています。
 このような交通運転の撲滅役の人がと思うのですが、飲みすぎると理性をも失いかねません。ですからたいがいの宗教では飲酒を禁じているのです。これをふおんじゅ不飲酒戒といいます。
 法句経247番に、「またどんな人でも、穀酒・果酒を飲むことにふけ耽るものは、これすなわち、この世の中で、自身の根を掘るものである。」と規定されています。ここで仏教の飲酒についての考え方を宮坂宥勝先生「真理の花束 法句経」現代人の仏教 筑摩書房から見て生きたいと思います。
 
少年僧を戒めた「沙弥の十戒」の第5にも「穀酒・果酒、強い酒に沈酔する状態を禁ずることの学処(戒)があります。「飲酒を制すること」をこよなき幸せの中に数えています。
 ここで言う穀酒とはお米などの穀物から作った酒、果酒とは果物を醗酵して作った酒を指します。これらの酒を飲むことに「ふけ耽
る」のを戒めている点に注意をしたいと思います。
十善戒の中の殺すことなかれ、盗むことなかれ、貞潔であれ、いつわることなかれ、の四つの戒めは、それらの行為そのものが罪悪であるものについての禁制です。昔から仏教では殺すなかれ・盗むことなかれ・貞潔であれ・いつわることなかれの四つをしょうかい性戒といい、酩酊することなかれと言うのはしゃかい遮戒といって、その罪を一段と軽く見ています。さえぎ遮とは「さえぎる」という字を書きます。飲酒するというのは行為自体は善でも悪でもないけれど、飲酒のほかの犯罪をともないやすいからです。これが仏教の飲酒に対する見解です。
釈尊の時代にガンジス川中流域地方の都会には、すでに居酒屋があったようです。酒はとかく自制心を麻痺させがちです。自制をもっとも強調する釈尊の教えからすれば酒をつつしまなければならないということは当然のことですけれど、また飲酒によって健康を害する場合も少なくはありません。
自分の健康を考えて、せめて節酒するということだけでも、現代人のしゃかい遮戒(さえぎるためのいましめ)の実行になると思います。
と書かれています。飲酒は座を持ったり、人間関係を円滑にする一面ももっていますが、反面酒に飲まれると理性も失い、大失態を犯すことにつながります。ご用心・ご用心!


       
     

こころのはなし(第133回)2008.11.15


暦では見ると11月7日が二十四節気では立冬に当たりました。
立冬の頃の自然現象を観察して、水始めて氷(こお)るとなっています。
さらに新暦の11月13日から17日頃を「地始めて凍る」中国この立冬の頃の自然現象を観察して「地始めて凍る」と表現しています。上記の「水始めて氷る」の氷ると「地始めて凍る」の凍るとは同じ「こおる」でもどのように違うのでしょうか。
 「凍る」は水以外のものがこおる
 「氷る」は水がこおる
ことを意味します。しかし、私の住んでいる四国高松では、このところ気温が20度前後ですのでまだまだ氷を見ることはありませんし、一冬中でも一度あるかないかだと思います。このような暖かさですから紅葉が充分に色づきません。小豆島の寒霞渓(かんかけい)は美しく紅葉すると思いますが、ほかでは期待できません。
この寒霞渓は香川県小豆島の東部にあり名勝に指定されています。安山岩の奇岩、断崖からなっています。特に紅葉が有名で山頂からロープウエィで見る紅葉は素晴らしいものがあります。
私は11月8日9日と中学校の同窓会に参加いたしました。
行き先は岐阜県下呂温泉です。私は香川県高松市在住ですから、集合場所が私の出身地である神奈川県藤沢市辻堂駅前にバスが配車されます。そのために集合日前日の7日に辻堂に一泊し、朝6時40分に集合しました。バスが発車してから友人たちとしばらくはご無沙汰を謝したり、あれこれと近況を尋ねたりしていましたが、なんといっても道中が長い、東名高速道路に入り浜名湖を通り、豊田JCT ・名古屋IC・小牧JCT・一宮JCTから東海北陸自動車道を通り、郡上八幡から九頭竜湖に到りました。この九頭竜湖に到る山々は紅葉の真っ盛り、赤、黄、茶と見事なまでの紅葉です。まさに蜀江の錦かと形容されるにふさわしい景色です。蜀江の錦とは、中国の蜀(現在の四川省)から産出した錦。蜀は漢代から蜀錦の名で知られた錦の特産地で、その伝統は近世まで続き長命でありました。弘法大師の著作の中にも「蜀江の錦」ということばが出てきます。
宿泊の下呂温泉まで、美しい山々を見ながらしっかりと紅葉を楽しみました。片道のバスの走行距離は550キロにもなました。
下呂温泉に一泊した次の日はまた車中の人となり、恵那峡の川下りを楽しみ、浜名湖インターから東名高速道路をひた走り、夜9時に無事終着辻堂駅に着きました。
聊か強行軍でしたが、素晴らしい紅葉を見ることが出来ましたし、旧友とともに忌憚のない会話が飛び交い、命の洗濯が出来ました。この心の講話も2日遅れで書き上げました。土、日が多忙でご迷惑をおかけしました。


       
     

こころのはなし(第132回)2008.11.01


10月30日・31日に高野山真言宗の若手布教師が年に一度集まって布教の勉強会をいたしました。今回この勉強会が神奈川県茅ヶ崎市長楽寺で行われ私も年配ですが出席いたしました。この布教師と申しますのは、真言宗の教え、また弘法大師の教えを宣布流布(広める)する役目を持った人たちです。その教えを広める方法として昔から説教が行われてきました。どんなにインターネットや情報伝達の方法が進化しても、やはり効果的な人への伝達方法は説教が一番だと思います。この説教はじかに相手の視聴覚に訴えることが出来ます。やはり情報伝達のメディアが発達してもシンプルな方法ですが説得力が違います。文字や映像でも伝えることが出来ますが、感情や微妙なニュアンスが伝えられません。
 説教の歴史は1,200年にわたって培われてきたものです。はじめは法華経の解釈から始まり、その法華経を講義する方を講師(こうじ)と呼び、講師のお話の前にそのお弟子さんが話をする。講師の前にお話をするので御前座(おまえざ)と呼びました。それが後の落語の世界で前座ということばに代わりました。ところが御前座を務める弟子は聴衆から受けをとろうと、面白い話をする。どうしても講師の話より話が面白い弟子の話が受ける。弟子もより人気を博そうと難しい法華経の話より、浄瑠璃や歌舞伎などの大衆演芸の要素を取り入れていったものですから、この方が一般大衆向けの話になる。そこで落語という分野が出来てきたのです。
落語の開祖は安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)といわれています。策伝の師匠は甫寂(ほじゃく)いう方で、浄土宗西山派禅林寺36世、58歳で亡くなられましたが、この甫寂は優れた人格と見事な弁舌だったといいます。
 当時の世相は信長、秀吉、家康によって平和な時代が徐々に訪れようとしていましたが、永い戦乱の世にあって民衆の人の行うべき正しい道は廃れていました。このような時代では仏の道を説く布教は難しい。もはや難しい教相学では人が集まらない。民衆の求めるのは、楽しい話、心温まる話です。

安楽庵策伝は甫寂について10余年間「絵解きまんだら」学び、さらに自分の才能を加えて独特の技術を考案しました。これが「策伝まんだら」といわれるものですが、江戸時代の入ってからあまりの遊戯性の露骨さから自然に亡びてしまったといわれています。しかし、この後浄瑠璃説教、浪花節説教、さらには琵琶、講談、歌舞伎などあらゆる芸を説教の中に取り入れ、いわゆる「芸風説教」が盛んになりましたが、明治時代以降芸風説教は宗派内から批判され、ついには大正時代にほとんど絶えてしまいました。しかしながら今日まで伝えられているのは1,200年にわたって受け継がれてきた布教の心であり話術なのです。いまもう一度布教の原点を学び、時代にマッチした話を確立しようと高野山真言宗の若手布教師が毎年講座を開いているのです。今年で7年目になりました。


       
      こころのはなし(第131回)2008.10.15

 来年、平成21年は弘憲寺が高松のはらの庄 (現在高松市錦町)に、讃岐の初代藩主生駒親正公の菩提を弔うために創建されてから400年になります。弘憲寺の前身のお寺は法勲寺といい、今から1300年前の白鳳時代に建立されました。 弘憲寺は生駒親生公が亡くなり、6年後の7回忌に合わせて息子の生駒一正によって建立され、親正公の法名海依弘憲大禅定門の中から弘憲の二字をとって弘憲寺といたしました。
 生駒家は、天正15年(1587)、生駒親正公が豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて入り、現在の高松市の海浜地に城を築いたのが現在の高松城です。
 生駒家は、寛永17年(1640)までの四代54年にわたり讃岐をおさめましたが、生駒藩では三代藩主・正俊が36歳で急死し、当時11歳の高俊が後を継ぎます。しかし、11歳という若さであったために外祖父である伊勢津藩主・藤堂高虎が高俊の後見役になります。
 しかし、寛永17年(1640)、生駒高俊はお家騒動により改易となり、出羽の国矢島藩(現在の秋田県由利新庄市矢島町)1万石に転封となりました。このお家騒動を生駒騒動といい海音寺潮五郎の著作「列藩騒動禄」に出ているそうです。さて、この生駒騒動を頭に入れていただいて、次の話に移ります。
 先日、家内の妹からファクスが送られてきました。日本産経新聞の文化欄です。そのタイトルに「助さん」なぞに満ちた人生とあり、その横に実像を追い40数年、奈良県宇陀出身・漫遊歴なし・人柄誠実とあり、但野正弘さんが書かれています。
但野さんは40数年「助さん」の実像を調べ続けてきた方です。
この「助さん」というのは水戸の藩主の佐々介三郎宗淳(むねきよ)そうです、時代劇で有名な水戸黄門のお供役です。この助さんの生涯はわからないことだらけでそうです。まず出身地からして不明、禅僧として過ごした青年期について知る手がかりはほとんどないのが実状だそうです。黄門さまこと光圀公に仕えたとされる後半生にしても漫遊の印象とは程遠く、彼はおくれだって各地を歩くどころか、一緒に過ごした時間もあまり多くはなかったようですと書いています。
 助さんの父。直尚は讃岐(香川県)生駒藩に仕えていたというのです。ところが生駒騒動のお家騒動に巻き込まれ、奈良県の宇陀地方に移り住んだといわれています。舟で瀬戸内海を渡る逃避行の際に助さんは生まれたといい、墓碑文に「舟を一小島に泊めて君を生むと」と記されているがそれ以上はわからないとのことです。
それにしても「助さん」の父親が生駒藩に仕えていたとは驚きです。生駒騒動によって藩を離れ、相当ご苦労をなされたのではないでしょうか。逃避行の時に助さんが生まれ、奈良県の宇陀に住んでそこで成長したのでしょうか。助さんは15歳で出家し、還俗後に水戸藩士となり、59歳で亡くなられたそうです。弘憲寺に生駒藩禄高帳が保存されていますので、その中から佐々直尚の名を探してみたいと思います。

 

       
      こころのはなし(第130回)2008.10.01

最近閣僚による不適切な発言が相次ぎます。農薬に汚染され、カビの発生している事故米の不正転売問題で、太田誠一前農林水産大臣は9月12日のBS放送の番組収録で、次のように発言しました。「人体に影響がないことは自身を持って申し上げられる。だからあんまりじたばた騒いでいない」と発言しました。
さらに番組で「焼酎は蒸留する過程で有害なものが分かれているから(有害性は)ほとんどない。中国餃子の(混入農薬の)濃度に比べて60万分の1の低濃度」と発言、さらに「いい加減に問題を扱っているんだろうといわれそうだから、あまり安全だ安全だと言わない。言わないんだけど安全だ」とも述べ、番組後、「軽視しているのではなく、沈着冷静に対応していくということをいっている」と発言の真意を釈明しました。

 また麻生内閣発足後5日で問題発言を繰り返した中山国土交通相が引責辞職いたしました。中山国交相は「日本は単一民族」発言や、成田空港反対闘争を「ごね得」と発言し、いったんは撤回しましたが、9月27日、宮崎市での自民党会合などで「なんとか日教組は解体しなきゃあいかんと思っている」と述べました。
国交相の発言の要旨を見てみたいと思います。(四国新聞)
1、(成田空港反対闘争は)ごね得というか、戦後教育が悪かった。公のためにある程度は自分を犠牲にしてでもというのがない1、日本は随分内向きな、単一民族というか、あんまり世界と(交流が)ないものだから、内向きになりがち
1、大分県教育委員会の体たらくは日教組(が原因)だ。
日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから、大分県の学力は低い
1、何とか日教組は解体しなきゃいかんと思っている。民主党の最大の支持母体だ、
1、 日本の教育の「がん」である日教組をぶっ壊すために、わたしが頭になるんだという決意を示した。
まあ、色々発言したものです。国会議員はもっと見識と常識をわきまえている良識人の集まであると思っていましたが、どうもそうではないようです。

釈尊が説かれた、法句経の100番にこのようなお言葉があります。
「無意味なことば語からなることばは、たとえ千あるにしても、聞いて静まりをえる一つの有意義なことば語の方がすぐれている。」
仏教が言葉を尊重するのは、ことばが人格のあらわれであるという考え方にもとずくものです。無意味なことばというのは、どれだけ口のはし端にのぼっても何ら人に利益を与えることはありません。本当に有意義な言葉というのは、人の心を安らかにさせ、静まらせるものでなければならないと思います。
 言葉が氾濫している今の時代においては、とくに反省させられるものがあります。たましいを揺さぶり、考えさせられるような言葉、あるいは風雪に耐えて静かに生き残っていくような言葉は本当にわずかです。
 仏教の経典をスートラといいます。スートラとはもともと金言名句のような短い言葉を指しています。できるだけ言葉の表現を節約して、しかも短いうちに的確に真理をいいあらわすようにしたのが、経典の本来のあり方です。
ブッタのことを釈迦牟尼といいます。牟尼はせいじゃ聖者という意味で、もともと沈黙する人という意味をもっています。したがって、釈迦牟尼はサーキャ、釈迦族から現れたせいじゃ聖者ということです。せいじゃ聖者が沈黙を守るのは、もちろん知らないからではなく、「無益なことば語」を語らないということです。しかし、ひとたび口を開くとき、せいじゃ聖者のことばは人々の心を静まらせるに違いありません。
 いつの時代にも虚偽のことばは多いけれども、真実を伝えることばはまことに少ないものです。私たちは無駄なことば語を口にすることは数多いけれども有益なことばを与えてやることは稀なことです。そういう意味で、この法句経100番に示されたブッタのことばは、まことに得難いものとものであるといわなければなりません。
引用文献 現代人の仏教 心理の花束 法句経 著者宮坂宥勝
     筑摩書房
引用資料 9月28日付け 四国新聞

 

       
      こころのはなし(第129回)2008.09.15

9月に入りお寺の枯山水の庭園に、橙赤色の野萱草(のかんぞう)の花が一斉に咲き始めました。野萱草はユリ科の多年草、中国原産で葉は細長く線状。ユリに似た花を一日だけ開きます。また、ヤブカンゾウや同じ種類のニッコウキスゲ、ユウスゲなどの園芸品種を総称して萱草といい、萱草は別名忘れ草ともいい、今昔物語集(31)に「忘れ草という草こそ、其れを見る人、思ひをば忘れるなれ」と広辞苑に見えます。

 私の叔母は既になくなっていますが、関西女流文学賞を受賞した歌人でした。叔母がある時、野萱草は別名忘れ草といい、万葉の乙女たちが恋をして、夏の日の恋を忘れるために野萱草を植えたのだよ、だからこの花は一日だけ開いて、夕方には萎んでしまい、次の蕾が翌日に咲く、可憐な花なのだよ、以前は故郷である湘南、江ノ島片瀬海岸から腰越を通り、七里ヶ浜に到る山際に群生していてそれは綺麗だったと話していたことを覚えています。
 
さらに詳しく野萱草を調べてみると、野萱草は茶花でもあります。本州、四国、九州の陽光の地に生え、根は一部がふくらみ、横に伸びていく葡匐枝(ほふくし)がある。葡匐とはからだをふせるという言う意味で、根は地中にからだを伏せるように横に伸びるという意味です。野萱草は一日花、変種の蝦夷黄菅(えぞきすげ)は昼夜にわたって咲く性質があります。和名は原野に見かけることが多いので名づけられたものであろうといわれています。
 
お寺では8月末から9月いっぱい咲きます。野萱草が咲きますと、やっと暑い夏も終わりだなと感じます。特に香川県は7月4日の梅雨明けからまとまった雨もなく、また四国の水がめである早明浦ダムの貯水率は0パーセント、現在香川県は早明浦ダム発電用水を使いどうにか断水を免れています。その発電用水も放流14日目で82.8パーセント減る一方です。最後の頼みの綱は、台風です。台風13号が14日15時には台北の北北西約40キロにあって、17日15時には九州の南に達すると予想され、この進んでいくと四国が台風圏内に入り、早明浦ダム周辺では相当の雨が期待できます。そうしますと一気に渇水が解消されるのではないでしょうか。しかし、台風13号は勢力が相当強く、台風の被害も心配されます。雨が降っても災害がありませんようにと願うばかりですが、人間というものは身勝手なもので、結局は死んでも命がありますようにと願うのと一緒で、すべてがうまくいくようにと勝手なことばかり考えるのです。お寺の庭園にある野萱草だけが秋風に揺れながら無心に咲いています。

       
      こころのはなし(第128回)2008.09.01

以前貝原益軒の養生訓の中からお話をしたことがあります。
「養生」とは、日々の行動をつつしみ心穏やかに生活することです。この養生の考え方はいまの社会では逆行しているかに見えます。なぜならばいまの社会は欲望が突出している社会だからです。
毎日のテレビ広告、コマーシャル、新聞の折込、あらゆるメディアを媒介として、私たちの欲望をあおっています。
釈尊はこの欲望渦巻く社会を「世の中は燃えている」と表現しています。この世の人々の尽きることのない欲望がめらめらと燃える火に譬えたのでしょう。

 欲とはほしいと思う心、貪りほしがる心です。いつもその欲望が叶えられずに欲求不満の心にさいなまれています。これが今の人々の姿ではないでしょうか。欲は欲しいと思う対象があるからです。その欲しいという対照がなかったら欲望が起こりません。
対照があってもその対象に執われことなく、執着することがなかったなら欲望は起こりません。この執われることによって苦しみや、憂いが生じ、苦悩するのです。

平成20年3月12日の新聞に次のような記事が載っていました。
不動産賃貸会社などを経営していた父親の相続財産のうち59億円を申告せず、相続税28億円を脱税したとして大阪地検特捜部は相続税違反(脱税)の疑いで不動産賃貸業社長の姉妹を逮捕したと報じています。
容疑者は自宅物置などに58億円もの現金を段ボール数十箱などに隠匿していました。調べによると、平成16年10月に父親が87歳で病死。容疑者ら8人が法定相続人となったが、相続財産計75億のうち約16億しか申告せずに計59億3千万円を隠し、相続税28億6千万円を脱税した疑い。国税局の調査で、自宅に現金58億円が保管されていることを確認したとあり、大半の現金は段ボールなどにつめられ、かつてはガレージとして利用していた物置に隠されていたといいます。
この調べに容疑者は「自宅に現金を保管していたのを忘れ、申告も忘れていた」などと否認したとあります。

驚くことに58億の現金を段ボールに入れて物置きに隠し、保管していたことを忘れたなどということが有り得るでしょうか。私などは例え1万円を臍繰っても、隠した所は先ず忘れないと思います。欲の皮が突っ張ってもここまでくれば只々ご立派という外はございません。こうなると完全に欲ボケの世界です。

 欲の赴くままに生きていくと常に欲求不満に苛まれ、精神的抑圧感(ストレス)を溜めながら生活していかなければならなくなります。これでは心安らかな日々は訪れません。釈尊は欲望の解脱を説いています。解脱とはこころの開放という意味です。
 釈尊は人間の欲望に際限がないことを説き、それを超越することによってほんとうのしあわせや喜びが到来することを説いています。

       
      こころのはなし(第127回)2008.08.15

ことしのお盆の暑さは異常なほどです。連日35度を記録し、お盆の檀家回りは事の外厳しいものでした。檀家回りは棚経ともいいますが、昔は各家に仏壇のほかに精霊を御祀りする精霊棚を作り、その場所にご先祖の位牌をお祀りしました。お坊さんが参りますと家には上がらず、外から精霊棚に向かって回向したものです。それが何時の頃からかその精霊棚が無くなり、家の中の仏壇にお参りするようになりました。仏壇はその家の一番神聖な所にお祀りしますので奥まった風があまり通らない所です。そこでお経を唱えますから今年ほど暑い思いをしたことはありません。家の人は蝋燭の火が消えてしまうからといって扇風機も止めてしまいます。今年のお盆は苦行でした。
 
香川県は7月4日に梅雨明け宣言が出され、その後8月15日までほとんど降雨がありません。四国の水瓶といわれる早明浦ダムも貯水量が減り続け、ついに30%を割り込んでしましました。
その結果、香川用水が第三次取水宣言に入りました。
 早明浦ダムは高知県四国山脈にあります。このダムの水を徳島県に流れる吉野川に流し、徳島県阿波池田にある香川用水の取水口から阿讃山脈を抜けて香川県に引いています。
 
香川県は第三次取水制限を受け、井戸水の水質検査を通常の半額にしました。渇水の長期化、深刻化が懸念される中、市民に身近な水源の有効利用を呼びかけています。2005年、2007年の大渇水時と同様の措置。高松市渇水対策本部が解散するまで継続されます。
 また県では香川用水の第三次取水制限を受け、県は緊急支援策として18日から中小企業向けの緊急融資を実施する。(8月14日付けの四国新聞)とあり、渇水が市民生活に重大な影響を及ぼしています。
 しかし、香川県民は渇水でもあまり慌てた様子が見られません。いつも断水の際になって、台風が来て一度で早明浦ダムが満水になった事もありますし、また何とかなると考えているのかもしれません。ところが農家の方は深刻です。水不足になって畑の野菜が枯れてしまいます。結局は野菜が高くなり、一般家庭の台所を直撃します。原油高によっての物価の値上がり、さらに野菜類の値上がりで家庭でのやりくりは大変だと思います。

人間というものは勝手なもので、梅雨に入ると早く梅雨が明けてほしいと思うものです。梅雨は本当に鬱陶しいですよね、毎日じめじめとして何でもカビが生えます。普通つゆを梅雨と書きます。梅の実が黄色く熟すから梅雨とかいてつゆ、もう一つはカビが繁殖するので黴雨と書いてつゆと読みます。黴はかびという字です。黴が繁殖する時期なので黴雨と書いてつゆと読ませています。また五月雨(さみだれ)もつゆです。五月雨のサは五月、ミダレは水垂(みだれ)の意味です。このさみだれは陰暦の五月頃に降る長雨ですからつゆの時期です。ですから五月雨は梅雨を指し、芭蕉は奥の細道で「五月雨をあつめて早し最上川」と詠っています。
 これからは鬱陶しい梅雨だと嫌わずに、この梅雨も天の恵みと感謝したいものですが、喉もと過ぎれば熱さを忘れるで、苦しかったことも過ぎ去れば全く忘れてしまいます。いま香川県民は渇水で苦労していますが、水の有難さをしっかりと胸に刻んでおきたいと思います。

       
      こころのはなし(第126回)2008.08.01

心の講話の123話で夏安居(げあんご)についてお話をいたしました。インドの雨期は約3ヶ月続くといわれています。お釈迦様の時代、その雨期の時にインド各地を遊行していた僧侶たちが僧院に帰り、静かに修行しながら過ごします。雨期の期間安らかに居住するので夏安居、または安居と申します。なぜこの雨期の時僧院で修行するのかと申しますと、雨期の時はたくさんの虫たちの活動、繁殖の季節でもあります。そのような時に僧侶が野山、または平地を歩くと、その虫たちを踏み殺すこともあろうかと思います。また、毒虫もいるかも知れません。毒虫に刺される危険性もありますので、この雨期の期間中だけ、僧侶が一堂に集まり静かに修行をするのです。

 仏教では生きとし生ける命をむやみに損なわないということが根本原則です。人間の命はもちろん、あらゆるいのちあるものあるもの、また非情(感情を持たないもの)例えば草木などです。そうしたすべてのものに限りない愛情をそそぎ。すべてのいのちを大切にする。これがみ仏の教えです。

私たちが僧侶になるために修行しますが、その修行の期間中、御仏さまにお供えする清水(せいすい)を夜中の丑の時(夜中の2時)丑三つ時に伽藍の中にある閼伽井戸(あかいど)に汲みにまいります。閼伽(あか)とは清らかな水という意味と、仏前に供えるものという意味です。伽藍(がらん)とは僧侶たちが住んで仏道を修行する、清浄閑静な所を指しますが、後に寺院の建造物の称となりました。その清水を伽藍にある井戸に二人の僧が汲みにいくのです。井戸に到りますと、般若心経と唱え、水神様の真言を唱えてから静かに釣瓶を下ろし、清水を汲み上げます。
この閼伽井戸に夜中の2時に汲みに行くのには理由があります。
この丑三つ時がもっとも水が澄みわたるときなのです。
 水が澄みわたるということは水の中に居るであろう微生物も静かに寝ている時でもあります。その微生物が寝静まっている時に静かに水をくみ出すと、その微生物のいのちを損なわなくてすむわけです。さらに桶に汲んだ清水を道場にある流し場で、白の晒し木綿で水を濾します。これは静かに汲んで来た水の中に微生物が入っているかもしれない、そこでそのいのちを損なわないように木綿の布で濾し、濾した布を再び水の中で漱ぎ、微生物を逃がしてあげるのです。しかし、私たちの肉眼ではその微生物は見えませんけれど、尚且つ生命を尊重する意味からこのような作法を淡々と行うのです。
 また真言宗では錫杖(しゃくじょう)という仏具を使います。木の持ち手の上に金の輪が幾つもついていて、この錫杖を振るとジャラジャラと音がいたします。現在は般若心経を唱える時などに錫杖を振りリズムを取ったりします。この錫杖は本来僧侶が旅をするときに杖代わりに持って歩くもので、錫杖の頭の金の部分がジャラジャラとなると道に這っている虫たちがその音に驚いて逃げ出します。これはむやみに殺生をしないための配慮なのです。仏教がいかにものの命を大切にしたかお分かりいただけたと思います。

 

       
      こころのはなし(第125回)2008.07.15

今年は四国での梅雨明けが早く、連日30度を越す猛暑です。湿度も高く法衣を着ける我々には過酷な日々です。先日7日から9日まで爽やかな信濃路を車で走りました。
信州は母の故郷です。一度ゆっくり母の故郷を訪ね、母が女学校時代によく登ったという駒ケ岳に行ってみたいというのが永年の夢でした。母は平成4年に亡くなりましたが、亡くなるまで病室のベットのところに駒ケ岳の千畳敷から見た宝剣が岳の写真パネルを置いていました。亡くなるまで望郷の想いがあったのでしょう。
 
 その母が登った駒ケ岳に一度登ってみたいという思いを私は持っていました。ちょうど駒ケ岳の麓の駒ヶ根市に、叔父、叔母が健在ですし、従兄弟たちが居りますので、家内と二人で自家用車で行くことにいたしました。
 朝の7時に家を出発して一路長野を目指して高速道をひた走りに走り、淡路島の明石大橋の近くにあるパーキングに入り一休み、再び走行開始して琵琶湖を見渡せる大津パーキングに入り、名神高速を走り、さらに小牧を通り恵那峡パーキングに入りました。
ちょうど昼時でしたので昼食を取りました。私は大の蕎麦好きですので蕎麦を注文しました。寺にいれば私は必ずというほど自分で蕎麦を茹で食します。讃岐は皆さんもご存知の通り、讃岐ウドンが名物です。確かに讃岐ウドンは美味しいですが、食の回帰現象でしょうか、今は無性に蕎麦が食べたいのです。現在は岩手県の蕎麦を取り寄せていますが、自分で蕎麦打ちをしたいと思い、何回もチャレンジしましたが納得できるものが出来ず、最近簡単に手順だけ踏んでいけば打てる蕎麦打ち機械を購入しました。
ところが最初は何回かこの機械で打ちましたが、製麺する時間が三,四十分かかりますので面倒になり、最近では取り寄せの生めんを食しています。
さて、昼食を済ませて一気に駒ヶ根インターまで走り降りたところで従兄弟が出迎えてくださいました。
真っ先に叔父さんの家を訪問、しばらくお話して飯島町の叔母の家に行き、夕方から従兄弟たちも集まり会食をしながら談笑ました。その夜は中央アルプス駒ヶ根高原リゾートリンクスという素敵なホテルに宿を取り、露天風呂に入り高原の空気を胸いっぱいに吸い込みました。

翌日起きてみると雨が降っています。結構激しい雨なので駒ケ岳に登るのは無理かなと思っていましたら従兄弟夫婦が迎えに来てくださり、タクシーで1662メートルのしらび平駅に到着、ここから駒ケ岳ロープウエィで一気に終点の千畳敷駅に到着です。
この千畳敷駅の標高が2612メートルです。まだ残雪が残り、桜の花が咲いています。気温13度、下界とは全く異なる景色です。周りを眺めると駒ケ岳、中岳、宝剣岳、などが一望できて、8月になるとこの千畳敷が高山植物の花でいっぱいになるそうです。
母が何十年前に駒ケ岳に立って見た景色をいま私が見ている。
 何十年前に母がこの場所に立って踏んでいった同じ石を私が踏んでいると感じた時、思わず涙が出ました。その日の昼に下山、次の目的地の中野市に向かいました。


 

 

       
      こころのはなし(第124回)2008.07.01

今月17日に宮崎勤死刑囚(45)ら3人の死刑執行を指示した鳩山邦夫法相を、朝日新聞が18日付夕刊で「死に神」と報道したことについて、鳩山法相は20日の閣議後会見で、「(死刑囚は)犯した犯罪、法の規定によって執行された。死に神に連れていかれたというのは違うと思う。(記事は)執行された方に対する侮辱だと思う」と強く抗議した。
 「死に神」と鳩山法相を表現したのは、18日付朝日新聞夕刊のコラム「素粒子」。約3年の中断を経て死刑執行が再開された平成5年以降の法相の中で、鳩山法相が最も多い13人の死刑執行を行ったことに触れ、「2カ月間隔でゴーサイン出して新記録達成。またの名、死に神」とした。
 会見で、鳩山法相は「私を死に神と表現することがどれだけ悪影響を与えるか。そういう軽率な文章を平気で載せる態度自身が世の中を悪くしていると思う」と朝日新聞の報道姿勢を批判した。http://blog.goo.ne.jp/kazu4502/e/22584ccfe723d622d4512f8e12135116
上記ホームページ引用。

とあり、物議を醸し出しました。皆さんは死刑執行に対してどのような意見をお持ちでしょうか。日本は法治国家です。国民の意思によって制定された法に基づいて国家権力を行使することを建前とする国家です。法によって国家の秩序が守られ、国民の平和と安全が保障される社会です。法務大臣が刑の執行にサインをするということは当然ありうることです。それを死神と表現する朝日新聞が間違っていると思います。
 しかし、生命の問題から死刑賛成か、反対かということはそれぞれ個人が重く受け止めなければならない問題です。
それでは、仏教ではどのような立場を取るか宮坂宥勝氏(注1)の著作現代人の仏教2、「真理の花束法句経」に次のように書かれています。仏教は死刑反対の立場を取ります。その根拠となるのが法句経の129番です。
 「すべての者は、暴力に怯える。すべての者は、死を恐れる。自分に引き比べて殺してはならぬ。人をして殺させてはならぬ。」です。
経典の中にこのようなことが出てきます。あるとき、一人の比丘が、比丘というのは男子の修行僧を指します。この比丘が刑場にいって、行刑者に、「彼を苦しめてはならぬ、一撃で殺せ」と言いました。行刑者はその通りに一撃で刑人のいのちを奪ってしまいました。この比丘に対して、釈尊は教団追放を命じました。法句経に「人を殺させてはならぬ」とあるのはこれで、それは最も重い罪に問われるのです。仏教の死刑反対はその深い生命尊重の念に根ざしています。
 いかなる理由があろうとも、人が他のものを殺し、あるいは殺させることは赦されません。その根拠は「自分に引き比べて」という事にあります。自分が殺される立場にたった場合に、どうして他人を殺すことが出来るであろうか。これこそが仏教人道主義(注2)の根本原則であると述べていています。
 我々は自分の命や他の命、またこの地球に存在する生きとし生けるいのちの大切さを自覚しなければなりません。
 
注1 宮坂宥勝 1921年長野市に生まれる。東北大学文学部印度学科卒業 
文学博士 サンパウロ大学客員教授 名古屋大学客員教授 1999年
真言宗智山派管長 総本山智積院化主に就任。
著書 仏教の起源 インド学密教学論考 ブッダの教え、スッタニパータほか多数。
注2 人道主義 人間愛を根本におき人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段として非人間的なもの(例えば残酷行為)を排斥する。博愛主義とほぼ同義。
 

       
      こころのはなし(第123回)2008.06.15

お釈迦様の時には「夏安居(げあんご)」という期間がありました。夏安居というのは「安居(あんご)」ともいいます。
この安居は一定の時期を定めて、静かな僧院で道心を養い、瞑想をしたりして過ごします。本来雨期のことをさしますが、インドにおいては雨期は夏であり、雨期の間に安らかに居住するのでこの名があります。

 この安居は雨期の期間中は特に虫や昆虫、生きものの成育のときです。修行中の僧侶が虫などの生命を損ない傷つけるかもしれません。そこで雨期の期間は遊行に出ていた僧侶が僧院に帰り、その僧院で瞑想をしたりして雨期を過ごします。

この安居に二種類あります。前安居と後安居です。前安居とはインドの暦で4月16日に安居に入り、7月15日に終わる。後安居は5月16日に始まり8月15日に終わります。特に翌日の8月16日は自恣(じし)の日といたします。自恣とは夏安居(げあんご)の最後の日に、集まっている僧が互いに罪過を指摘し、懺悔(さんげ)する日です。懺悔とは過去の犯した罪を神仏や人々の前で告白をして許しを請うことです。要するに反省の日です。

安居はインドにおいては釈尊以前からバラモン教徒の間で行われていたといいます。日本においては聖徳太子、大和に安居院を建て、僧侶を安居せしめたといいます。また日本書紀には天武天皇即位11年の夏、はじめて僧尼を宮中に請じ、安居せしめたとあります。

真言宗においては弘仁4年(813)淳和天皇のとき、教王護国寺(現在の京都東寺)で安居会(あんごえ)が始まりました。ことに弘法大師の上奏により毎年恒例として行うようになりました。
和歌山県高野山ではこの伝統を引き継ぎ、毎年7月25日頃に
安居会がはじまり、各地から集まった僧侶が下界の暑さを忘れ、涼風の中で勉学に勤しみます。

特に坊さんの世界では昔から梅雨の時期である6月に研修会がよく開催されます。これは安居会の伝統を引き継ぐものと思われますが、一方梅雨の時期は田植えがあり農繁期の時です。農繁期はあまり法事などがないということで研修会はこの時期に集中します。

私は6月に入り、東京高輪にある高野山東京別院で開催された
研修会に参加いたしました。研修のメインテーマは「マンダラ〜その命にかえる〜」です。
基調講演に筑波大学名誉教授村上和雄先生が「命の暗号」と題してお話くださいました。先生は83年に高血圧の黒幕である酵素「ヒト・レニン」の遺伝子解読に成功し、さらに99年にはイネの遺伝子解読に成功し、日本を一気にこの研究のトップへ押し上げました。マックスプランク研究賞、日本学士院賞等を受賞されています。
先生は私たちの命は38億年前に誕生し、たった一個の細胞が今日までその命が途絶えることなく続いている。私たちはサムシング・グレート(大いなる存在)によって生かされている。また大いなる存在がなければ生きられないというお話をされました。
真言宗ではこれを大日如来の大いなる命と説きます。まさに村上先生のお話は密教の教え、弘法大師さまの教えそのものです。1200年前弘法大師は宇宙の真理を理解しておられたことに、改めて感動を覚えました。

 

 

       
      こころのはなし(第122回)2008.06.01

今月の言葉は江戸時代の初期、寛永7年に生まれた貝原益軒の書いた「養生訓」の中の言葉です。貝原益軒は儒学者として、また医者として福岡藩に重用された人です。この養生訓という書物は、83歳の時の著作です。この養生とは生を養うこと、自分の生命をていねいに養って、与えられた人生を全うする、ということです。今月の言葉は養生訓のなかの一文です。
 人間には、喜ぶ・怒る・うれう・思う・悲しむ・おそれる・驚く・にくむ・楽しむ・ほしがる・愛するなど、さまざまな感情がある。この中で、最も品性を傷つけ、生命をそこなうものは、「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つである。とあります。
品性とはその人のひとがら。人品。人格です。その人の人格を著しく傷つけるものは「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つだというのです。
 正しい宗教には必ず宗教道徳というものがあります。よく知られているのが戒律です。戒律というのは自己に対する戒めです。自発的に規則を守ろうとする心のはたらきです。その戒めが生活の正しいリズムを生みます。よく勘違いするのは、信仰をしていたら災難がなくなるとか、悪因縁が断ち切れるとか、現世利益だけを考えますが、それは間違いです。宗教は正しい心の有り様と実践を求めます。その目的はより最高の人格形成をすることにあります。信仰していたら災難を逃れられるなどということはありません。病気になる時には病気になる。死ぬ時には死ぬのです。しかし病気になった時に、絶望することなくその病気を受け入れ、こころの有り様によって生きる希望を見出し、心の安らぎを得ることが出来ます。
 ひろ さちやさんの著書(読売新聞社)に「曼荼羅人正論」の上巻にこのようなことが書かれていました。ある仏教学者の家が、隣の家からのもらい火で全焼いたしました。彼は蔵書のすべてと、研究ノートや原稿を失いました。しかし、その火事の数ヵ月後、講義のとき彼は教え子たちにこう語りました。「今度の火事で、私はいろいろ学ばせていただいた。わたしの場合、隣からの類焼だったから、最初は「焼かれた」と思った。しかしね、「焼かれた」と思えば、やはり腹が立ち、復讐の心が起きる。
で、そうではなくて、「焼いた」と思うことにした。自分で焼いたと。でもそう思うと、心が暗くなって、やりきれなかった。
そこで、「焼かれた」でもなく「焼いた」でもない、ただ「やけた」と思うことにした。そうすると、事実をありのままに、淡々と受け入れることができる。自分も他人も損なわないですむ。こんなことを、こんどの火事で学びました・・・」
すばらしいものの見方であり考え方です。正しい宗教というのは私たちのものの見方、考え方を変えることだと思っています。私たちはいろいろなこだわりを持ってものを見ていますが、それをこだわりなく見ようとするのが仏教であると言われています。
「怒る」「にくむ」「ほしがる」の三つの見方はこだわりから起こる心の一つの姿なのです。

       
      こころのはなし(第121回)2008.05.15

薫風南より来るという言葉があります。まさにこの言葉がぴったりの季節になりました。この二三日肌寒い日がありましたが、これから日一日と気温が上がり夏に向かっていきますが、身に付ける衣服も春の衣装から夏衣装に替わっていきます。
これから衣装が夏物になると気になるのがお腹の出具合です。昔はお腹が出ているのを社長腹といって、一種の貫禄・風格ととらえていましたが、最近ではお腹が出ていると最悪のように言われます。
 
このお腹の出ているのは内臓脂肪が蓄積されたものですが、この内臓脂肪の蓄積によりお腹のまわりに脂肪が付き、お腹が突き出て見えます。それだけならまだ良いのですが、内臓脂肪の蓄積によってさまざまな病気が引き起こされるといいます。このような状態を「メタボチックシンドローム」といい簡単に「メタボ」といっています。脂肪がどの部分につくかによって肥満は二つのタイプに分かれるといいます。
 下腹部や腰まわり、太もも、お尻のまわりの皮下に脂肪が蓄積するタイプ、これを「皮下脂肪型肥満」内臓の周りに脂肪が蓄積されるタイプを「内蔵型肥満」と呼ぶのだそうです。この二つのタイプのうち「皮下脂肪型肥満」のお腹は前に出ていますので外見からわかりやすいのですが、「内臓脂肪型肥満」は外見ではわからないことが多いといわれます。
 内臓脂肪型肥満を簡単に調べる方法として、ウエスト径、ウエスト径というのは臍まわりを測って何センチあるかということです。男性では85センチ以上、女性では90センチ以上であれば内臓脂肪型肥満が疑われるといわれております。
 
 厚生労働省の平成16年国民健康・栄養調査によると、40歳から74歳において男性の2人に一人、女性の5人に一人がメタボリックシンドロームか、その予備軍であるということが報告されています。さて、何隠そうこの私が昨年の春の健康診断で、臍まわりが86センチありメタボと診断されました。その時の体重が65キロでした。正直ショクを受けました。これは改善しないといけないということで、スポーツセンターに行き、ランニング30分と自転車のマシンで30分間の運動と、三食の食事を少なくして4ヶ月間で成果が現われ、現在体重57キロ、臍まわりが76センチまでになりました。

生活習慣病の主な疾患に肥満症、高血圧、糖尿病といわれますが、この原因は過度の飲食にあります。わかっていても美味しいものについ手が出てしまいます。何とかこの食欲を抑えないとまたもとの体形に戻ってしまいます。しかし欲を抑えるというのは大変なことです。ダイエットを何回チャレンジしても成功しないのは欲望を抑えることが如何に難しいかということです。

 江戸時代の儒学者で貝原益軒という方がいらっしゃいました。彼は83歳の時に養生訓という書物を書きました。「養生」とは自分の生命を丁寧に養って、与えられた人生を全うするということです。この養生訓に「飲み食いの栄養となる成分は人が生きていくためのただ一つのおぎないである。一日も欠かすことはできない。しかも、飲食は口や腹が欲する人の大欲である。だからこそ、つねに慎んで欲をこらえなければ節度を越してしまい病を生ずることになる」と説かれています。

欲望とは欲しがることです。また欲しいと思う心です。食欲・性欲・睡眠欲・出世欲・権力欲と欲にも色々あります。欲というのは持てば持つほど欲しくなり、買えば買うほど欲しくなり、手に入れれば手に入れるほどに欲しくなるのが欲望の本質です。
今の日本はすべてにおいて豊かさを享受しています。このような時代にこそ「小欲知足」欲望を小さくして、足りることを知ること、満足をするという生活を実践すべきです。

       
      こころのはなし(第120回)2008.05.01

よく今頃の季節になると床の間に「薫風南より来る」という一行が掛けてあるのを見かけます。出典は圜悟語録(えんごごろく)に見えます。正しくは「薫風自南来 殿閣生微涼」です。(くんぷうみなみよりきたりてでんかくびりょう)と読みます。
 爽やかな初夏の風が南より吹き来たり、宮殿にかすかな涼しさが生まれるという意味です。
 雲門文偃(うんもんぶんえん)という僧が、ある僧から「如何なるか是れ諸仏出身の処」(もろもろの仏が現出するとはどのような境地ですか)と問われて「東山水上行」(東山が水上を行く)と応えたのに対し、後の宋代の圜悟克勤(えんごこくきん)は、自分なら「薫風南より来たりて殿閣微涼を生ず」と応えるといったというのです。この語は決して季節を言っているのではなく、悟りについて述べたものですが、現在は薫風とあるので、若葉薫る今時分の言葉として捉えて床の間に掛けていますが本当は間違いです。
 しかし、真意はどうあれ五月の風薫る今の季節としては最も相応しい言葉です。私も二三日前に知人に手紙を書きましたが、始めに薫風南より来るの如く好季節となりました、と書き出しました。これはあくまで転用で本来の意味とは全くかけ離れたものです。本当の意味を知らず間違って使っていることがよくあります。

例えば不思議という言葉でもそうです。よく考えても原因・理由がわからない、また解釈がつかないことに使いますが、本来は「思議しない」という意味です。意味はあれこれ考えるな、思い悩むなというというのが「不思議」です。
 
また、「無学の人」といえば、世間一般では学問・教養のない人を言いますが、仏教では真理を究めつくしてもうこれ以上学ぶ必要がなくなった人を「無学の人」といいます。
 
言葉の意味を調べると本当に面白いですね。さて、五月五日はこどもの日です。この日を端午の節句といいます。中国では月の初めの午の日、「午」は「五」と音通などにより五月五日を言うようになりました。この端午の節句にはチマキや柏餅を食べますが、チマキは古くは茅(ちがや)の葉で巻いていたといいます。
またカシワモチは柏の葉で包む。カシワは本来、食物をつつむ葉ということで、炊(かし)ぐ意のカシと、ハ(葉)の構成であると、にほんご歳時記(大修館書店・堀井令以知著)に出ています。

       
      こころのはなし(第119回)2008.04.15

4月8日はお釈迦様のお誕生日、花祭りでした。お寺でも裏の畑から菜の花や椿の花を取り、花見堂の屋根いっぱいに飾りました。 前夜から家内が甘茶を煎じて参拝者に接待するために用意をいたしました。
 甘茶には肝臓や胃への効果や、消炎、去痰、腫瘍修復作用などの薬効に加え、生薬の苦味を中和する役割もあり、日本では8割以上の漢方薬に配合されているそうです。またヨーロッパではリケリッツィア、リコリス、レグリスなどと呼ばれ、お菓子などに使われることが多いそうです。この甘茶の主原料はアマチャというアジサイ属の植物。砂糖の千倍の甘さを持つ物質を含んでいます。
4月8日多くの方の参拝を頂き、ある方はペットボトルを持参し、「家族の健康のために皆で飲むのです。」という方や屋敷の周りに撒くと不思議に蛇などが入らないので甘茶を頂きますという方もいらっしゃいました。この日は暖かな日和に恵まれ、桜の花が満開ですし、大自然も生き生きと輝いているようでした。
 次の日、6時の鐘を撞いていると、目の前を一匹のツバメが飛び去っていきました。「おや、もう燕が今年も飛来したのかな、いつもより早いのではないだろうか、」?私は燕の飛来は5月頃と思っていましたので、早速に書物で調べてみました。

まず俳句歳時記で燕の季語を調べてみると、燕は春の社日(しゃにち)の頃に来て秋の社日の頃帰るといい、社燕(しゃえん)と言う。とあります。この社日の意味は春分・秋分の後の第五の戌(いぬ)の日、また、旧暦の2月・8月の甲(きのえ)の日ともいいます。土の神を祭って、春は五穀豊穣を祈り、秋は収穫のお礼をする。春を春社、秋を秋社といいます。因みに今年の第五の戌の日を調べてみると4月4日になりますから、私が9日に燕を見たのは早いわけではなく例年通りです。昔の人は季節や鳥の生態までもちゃんと観察していたのだなと感心させられます。
 燕が町々村々を飛び交うといかにも春の到来を感じさせます。
さて、産経新聞に南ひろこさんの漫画ひなちゃんの日常が連載されています。4月10日の新聞には
  おじさん「おっツバメだ」
      「今年もツバメがやってきたのか」
  ひなちゃん「やってきた?」
  おじいちゃん「つばめは暖かくなるとやって来る」
        「そう桜が咲く頃にね」
  ひなちゃん「じゃあお花見にくるんですかね?」
       お花見しながらツバメ前線北上中!?
という会話が出てきます。
漫画家である南ひろこさんは、今頃ツバメがやってくることをちゃんとご存知でこの漫画を描かれたのでしょう。
今年初めて見るツバメを新燕というそうです。俳句の季語では初燕といいます。
誓子の俳句に
      果樹園の刺ある線に新燕
と詠っています。また燕も季語です。芭蕉門下の十哲の第一といわれた宝井其角は
山の端に乙鳥(つばめ)をかへす入日かな
と詠っています。
燕には、つばくろ、つばくら、つばくらめ、乙鳥、玄鳥、といろいろと言い方があります。
地球温暖化がいわれるときにツバメはいつもと同じようにやってきて巣作りをしています。

       
      こころのはなし(第118回)2008.04.01

先週、27日に紀州高野山で研修会があり、前日の26日に高松を出て大阪難波のホテルに泊まり、翌日早朝6時28分発の高野山行きに乗車しました。すでに南海電鉄高野線沿線は桜の花が咲き、車上から見る紀ノ川の流れは春の陽光に照らされてきらきらと光って見えます。電車は高野口駅からゆっくりと山並みを縫いながら登っていきます。終点極楽橋に到着するとやはり平地と違い冷気が漂っています。 ここからケーブルに乗り換え、高野山参上までゆっくりと登っていきます。軌道の周りには蕗の頭が花開き、鶯の初音を聞くことが出来ました。約7分あまりの乗車ですが冷気が霊峰高野山独特の霊気に変わり、信仰の山高野山を実感いたします。
 高野山上駅に到着すると、下りのケーブルを待つ人の多くが外国人の観光客です。高野山も世界遺産になってから急に外国人旅行者が増えました。その理由は関西国際空港から高野山が近い位置にあることが挙げられます。また高野山から奈良、京都と廻る周遊が出来るからではないかと思われます。 いずれにしろ高野山は国際色豊かな山上宗教都市になりつつあります。
 高野山は毎月色々な法会や行事などがありますが、その中で春を告げる法会というとやはり弘法大師正御影供法会(しょうみえくほうえ)ではなおかと思います。この法会は特に真言宗では大切な法会(ほうえ)です。 正御影供とは弘法大師様の御影(おみえ)にお供え物をして報恩謝徳のために勤める法会です。
 弘法大師様は御年62歳で高野山にご入定(ごにゅうじょう)なされました。ご入定とは定(じょう)に入ることです。定とは座禅をしたまま永遠に仏の世界にお入りになることです。弘法大師様は入定したのち永遠に亘って悩み苦しむ人々を救済すると信じられています。
 このご入定はすでに4年前、天長9年11月12日に弟子たちを集めその志を告げられました。
これより米麦を召し上がらなくなり、野菜や木の芽をお召し上がりになり、もっぱら座禅の日々が多くなりました。
 以後、前年まで宮中で秘法を修し、また奈良唐招提寺の写経供養会の導師をつとめ、さらに比叡山西塔院落慶供養をおつとめになり、その年の11月15日弟子たちをふたたび集め、明年3月21日に入定することをお告げになりました。

いよいよご入定になります承和2年正月8日から14日までの7日間、宮中真言院において後七日御修法(ごしちにちみしほう)をつとめ、天皇陛下の玉体安穏を祈り、そん後高野山にお帰りになられ3月15日に再び弟子たちを集め、入定が一週間後に迫ったことを告げ、ご入定後の心得をおさとしになられました。

それが終わりましと、香水(こうずい)に身を清められ、住房である一室に入られ、その部屋に香がたかれ、弟子たちは部屋を取り囲み弥勒菩薩のご真言を夜となく昼となく唱え、五日も暮れ六日も暮れて七日目の寅の刻(午前四時)に温容に慈悲の光をたたえながら静かに息が止またのでございます。御年六十二歳でありました。ご尊体を拝しますと、座禅瞑想のお姿でございます。

これより中陰の例にならい追善を営み、四十九日が終わった翌日、五十日目に高野山奥の院の霊窟にご定身をお納め申し上げたのでございます。このご入定された三月二十一日に百味の供物を供え、報恩感謝のまことを捧げるのが正御影供(しょうみえく)でございます。

この正御影供は醍醐天皇が三月二十一日は弘法大師の正忌であるので、真言宗の寺院は以後毎年勤めるように詔を発し、今に至るまでつとめているのです。そして今年の当番会所が弘憲寺に当たり、旧暦の三月二十一日が四月二十六日に相当しますので、その前々日の二十四日から三日間法会をつとめさせていただきます。今その準備に勤しんでいます。
 

 

       
      こころのはなし(第117回)2008.03.15

鐘楼に上がり6時の鐘をつく頃、空は薄明るくなっています。
いつもこの時期になると北に帰る渡り鳥の群れがお寺近くの空を渡っていきます。恰もジェツト機の翼を広げたように隊形を組んで飛んでいきます。本当に近くを飛んでいるので鐘を打つ力を弱めて驚かせないように気を使います。渡り鳥の一団が通り過ぎると必ず列からはみ出たのでしょうか、または遅れて飛び立ったのでしょうか、二三羽の鳥が後を追いかけています。後を追う鳥は遅れまいと必死になって追いかけているのがわかります。
 置いてきぼりにならなければいいのですが、先に行った鳥は遅れた鳥のためにどこかで待つことをするのでしょうか。
色々なことを考えながら九つの鐘をつき終わると丁度6時になります。本堂は5時からの勤行ですので、6時からは持仏堂の勤行が始まります。まだ2週間前は本当に寒い日がありましたが、ここ二三日は本当に春の陽気になり温かくなりました。
 私はここ何年も風邪で寝込んだことがありませんが、先日6日の真夜中に嘔吐、下痢が始まり、また背中の節々が痛くて、朝起きられません。家内の勧めで行きつけの内科に行き、診察をしていただき、4種類の薬をもらい服用後に就寝しました。薬に睡眠薬が入っていたのか、それから次の日の朝まで熟睡をいたしました。
 次の朝に目覚めた時に4歳になる孫が枕元にやってきて、「おじいちゃん、どうしたの、大丈夫?早く良くなってね。」と顔をのぞきこむのです。私は本当に嬉しかったです。
この4歳になる孫は、生まれて2ヵ月後に急性白血病になり、病院に入院し抗がん剤治療を受け、その後徳島大学病院に移り、そこで本格的な治療が始まりました。孫が生後数ヶ月ですので親子共々完全無菌室に入り、臍帯血の移植をしてその後入院が続きましたが、臍帯血の功有り退院することが出来ました。それから孫も元気になったかに見えましたが、定期検査の結果異常に白血球が多く再入院し、次は骨髄移植でないと助からない旨を告げられました。
骨髄バンクには孫に適合する骨髄がありません。やむなく父親の骨髄をもらうことになりました。父親の骨髄は100%適合しません。しかし、緊急のことですし、親の骨髄ですからこれで助かるかもしれないとの判断で父親の骨髄を移植しました。
 しかし、移植してから孫は本当によく頑張りました。吐き気や、下痢が一日60回もあり、お尻は爛れ肛門は潰瘍が出来て排泄するたびに苦しみます。そばで見ていても家族はどうすることも出来ません。また潰瘍を治療する薬も投与できません。孫は本当に苦しかったと思います。しかし、神仏の加護とドクターのご努力で、孫は助りました。
 いま孫は元気よく走り回っています。私が寝込んでいる時に真っ先に「おじいちゃん大丈夫?早く良くなってね」と声をかけてくれたのは、病気の苦しみを経験した孫だったのです。4歳で人の苦しみの心情がわかるのでしょうか。思わず孫を抱きしめてあげました。
その孫が4月から幼稚園に入園します。本当に夢のようです。
 

 

       
      こころのはなし(第116回)2008.03.01

平成八年から三期にわたって、香川県教育委員会歴史博物館建設準備室では、博物館整備に伴う県内寺院の寺社調査の一環として、弘憲寺に伝わる書画・古文書をはじめとする歴史資料の調査をいたしました。
調査の概要の第一期は平成八年十一月十日に青山学院大学文学部教授浅井和春氏の指導のもとに実施した彫刻調査。
第二期は、平成九年七月七日から十日まで、のべ四十七人の準備室職員を投入して行われました。
第三期の弘憲寺調査は報告書作成のための補充調査を実施し特に仏画の赤外線調査をしていただきました。この第一期から第三期に至るまでの調査結果を159ページにもおよぶ報告書を作成していただきました。

特に私が注目したものは、千手観音曼荼羅図(仮称)です。この仏画は収蔵してある長持ち箱の中にあったもので、わたしが住職をしてから一度も目に触れたことのないもので、今回の調査によって発見されたものです。この千手観音曼荼羅は、千手観音と文殊菩薩さらには地蔵菩薩の来迎像を表し、さらに上の方に如来が描かれています。

中央に描かれている千手観音は、踏割蓮華座といって一つの蓮華を割って、それぞれ左右の蓮華の上に立たれ、雲に乗って来迎する様子が描かれています。お顔は本面のほかに両脇面の二面と頭上に十一面があり、四十二本の手にそれぞれの持ち物を持っていらっしゃいます。

さらに、千手観音の右下に描かれている文殊菩薩は、頭に五髻を結び、右手に剣、左手に経典を持って蓮華座に立っています。
地蔵菩薩は右手に錫杖、左手に宝珠を持って蓮華座に立っています。
また千手観音の右上には阿しゅく如来と薬壷をもっている薬師如来が描かれています。特にこの仏画で興味深いのは、桜花が描かれていることと、ところどころに鹿が描かれていることです。
どのような意図で描かれているのかわかりませんが、とても興味深い表現です。また仏画に描かれている仏さまのお顔がそれは丹精に描かれ、その美しさは相当の絵師が描いたものであろうと考えられます。香川県教育委員会歴史博物館建設準備委員会の調査では製作時期は鎌倉時代末から南北朝時代であろうと推測しています。現在奈良にある元興寺文化財研究所に鑑定を依頼しています。もし詳しいことがわかりましたら、このホームページ上に写真を載せ皆様に見ていただけたらと考えています。

 

       
      こころのはなし(第115回)2008.02.15

 数日前に寒気が押し寄せ、大阪や名古屋、東京も降雪を見ましたが、四国高松は天気予報が雪マークでしたが、終日雨が降り
外出に困ることはありませんでした。
 朝起きるときの最低気温が11日で2、5℃ですから底冷えがするほどでもなく、日一日と春に向かっている感じです。
 
今月の19日は二十四節気の雨水(うすい)に当たります。「雪散じて水となる也」というように、雪や氷が解けて水となり、雪が雨に変わって降りだす頃になります。
 この雨水を目安として農耕の準備をする目安とすると昔からいわれています。
 11日は高松では久しぶりの好天に恵まれましたので裏庭の菜園に行って見ますと、えんどう豆のつるが延びて、白い花をつけています。また畑の隅の方に蕗の頭が顔を出しています。蕗の頭を取り、澄まし汁の中に入れて春の香を楽しもうかと思いましたが、折角寒い冬を耐えてきたのだからもう少しこのままにしておこうと諦めることにいたしました。
 しかし、僅かな菜園であっても十分に春を実感しましたし、満ち足りた気持ちになりました。
 満ち足りた心を私たちは「満足する」といいます。足はたりる。それで十分だということ、過不足という言葉もあります。これはすぎたこととたらないことを意味します。

 青年の船としてチャーターされたさくら丸の船長弓場道義さんは乗船した学生に非常時の心構えとして、「船に荷物を積みすぎると重心が高くて復元力を失ってしまう。これがトップ・ヘビー(注)だ。復元力を回復するためにはいかに高価なものであっても、上層部の荷物を海に捨ててしまわなければならない。日本丸は、それに乗っている国民の一人一人が、いまやトップ・ヘビーになって復元力を失いつつあるのではないだろうか」と警告しています。不要なものをたくさん背負ってイザというとき身軽になって安全な場所に避難することはできない。捨てるのを惜しいと肌身離さず身にまとい、それが重荷になって身動きできない人間はさまにならない。 
 "満足"するとは"足が満つる"と書くように、下方の足に重心がおかれることを言う。と松濤弘道さんは釈尊の名言108の知恵で述べています。
(注)ゴルフ用語、(1)クラブのヘッドが柄に比べて重いことを言う。
(2)頭でっかちな

 

       
      こころのはなし(第114回)2008.02.01

 1月の17日は阪神淡路大震災13回目の慰霊の日でした。6、434人の方が亡くなられ、行方不明者が3人、家族、友人、知人と多くの方々が、悲しい思いでこの日を迎えられました。
私はこの大震災の時には和歌山県高野山の大師教会という所に居ました。朝仏前で勤行(おつとめ)をはじめた時に、衝撃的な揺れを感じました。広いお堂の中は須弥壇があるだけの広い空間です。このお堂を支えるために何本かの一抱えもある柱があるだけです。天井から何百という信者の方が寄進した燈籠が下がっています。この燈籠がガシャガシャと音を立てはじめました。
はじめ地震だとはわからず、天井を見上げた時にこれは地震だということをはじめて認識しました。私の上には天蓋という大きな仏具が下がっています。もしこれが落ちてきたらひとたまりもありません。
しかし、咄嗟にどこに逃げたらいいのかわかりません。じっとそのまま座っていましたら、振動はだんだんと弱くなり、静かになりました。お蔭で高野山は目立つほどの被害もなく済みましたが、
淡路島、兵庫県には多くの真言宗寺院があり、それらの寺院の被害状況がわかりませんし、その状況を調査しなければなりませんので、急遽数人の人と一緒に淡路島に向かいました。その状況は惨憺たるものでした。一ケ寺一ヶ寺を見舞い励ましの言葉をかけて高野山に帰りました。
 私もこの震災の後平成9年に高野山を下り、自坊がある高松に帰りました。この平成7年1月17日は生涯忘れることはないと思います。それは震災の日、1月17日が私の誕生日だからです。ちょうど53歳の時でした。あれから13年経ちました。
 昨年末に香川県公安委員会から免許証の書き換えの案内がありました。更新は誕生日の一ヶ月前から受け付けるというので、年末の方が逆に混まないかもしれないと、12月17日に行きました。
 更新のための手続きを終え、視力検査も済み、免許証の写真を撮影してもらい、講習会場に進もうとした時に、新しい交通法規の教科書をもらい古い免許証を提示した時に、この免許証にスタンプでSマークを押されました。
「このSマークは何ですか」と尋ねましたら、「これはシルバーマークです。高齢者の印です」というのです。「シルバーマークの方は講習の会場が違います。3階の教室に行って下さい。」というのです。促されるまま教室に入り、高齢者講習を1時間半も受講いたしました。「やれやれこれで新しい免許証をもらえるのだな」と思っていましたら、再び案内があり、隣の教室に移動してくださいというのです。案内された教室は、車の運転席が何10と用意されていて、まるでゲームセンターのようです。その運転席に座り、車の運転のシュミレーション(擬似体験)をするのです。
運転台の前には画面があって、道路が表示されています。その道路にしたがってハンドル操作をするのです。
また道路わきから子どもが飛び出してきますので、ブレーキをかけ減速したりします。また夜道で白いシャツを着た人が歩いてきます。人がいると感じたら思い切ってブレーキを踏みます。
その人の前方で停車します。次に夜道に黒い洋服をきた人が歩いてきますので、気がついたら思い切りブレーキを踏みます。
 ところが私は黒いシャツの人がわからず跳ねてしまいました。
私は自分の運転能力には自信があって、絶対自分は運転技術とか反射神経は大丈夫と思っていましたので、この模擬運転での結果には少々ショックでした。
阪神淡路大震災から13年、まだ若いと思っていましたが、いつの間にかSマークを押される年になりましたが、目的を持ってしっかりした歩みを進めていきたいと思います。


 

       
      こころのはなし(第113回)2008.01.15

 お寺の裏庭に水仙が満開です。真っ白な水仙や、花の額にあたる部分が黄色のものなどが冬の日を浴びています。また日陰のほうに目を移すと、白や赤い椿が咲き始めました。
いつもの年より少し開花が早いのかなと感じますが、これも温暖化の所為でしょうか。
 今年2008年は主要8カ国の首脳が集まる洞爺湖サミットが開催されます。サミットとは山などの頂上を意味します。これを広義に解釈しまうと世界を牽引する主要8カ国という事になるのでしょうか。
 主要8カ国、G8と呼ばれアメリカ、日本、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、イタリア、ロシアです。この主要国首脳会議の主要議題は地球環境問題だといわれています。
 いま地球環境は危機的状況にあるのではないでしょうか。特に地球温暖化です。この地球の温度が上昇すると色々な弊害が生じます。旱魃や異常気象です。大洪水が起こったり、旱魃になったり、砂漠化も考えられます。生態系が変わります。また農作物に被害が出ます。北極の氷が解けて海水の上昇があり、海抜の低い土地は海に埋没してしまいます。 このように地球破壊は確実に進行しています。
 私は早朝に起床して本堂で勤行をします。今から10年も前ですと冬の時期に暖房のない本堂で長時間座っていると足のほうから底冷えがして、手でも悴んでしまいましたが、最近は大寒を過ぎてからも12度ぐらいの温度ですから、最近は手が冷たいと感じたことはありません。以前と比べたら温暖化は進んでいます。
 朝日新聞の世論調査ですが、いまの地球を「病んでいる」と感じている人は4人に3人、特に地球温暖化を「心配」とする人は9割を超えています。
 いま国民の大多数の人は地球温暖化に対する危機感を持っています。しかし、京都議定書で義務づけられた温室効果ガスの削減目標が達成できません。
この地球環境の悪化は人間の業によって引き起こされました。
「業」とはサンスクリットでカルマといい、人間の行い、行為をいいます。地球環境の悪化はすべて人間の行為から引き起こされたものです。
 この人間の行為は心の有り様によって起こり変化します。この心に最も害になるもの、毒になるものが三つありますので三毒といいます。この三毒とは貧(とん)瞋(じん)痴(ち)です。
貧とは貪り、欲張ること、欲が深いことです。瞋とは腹を立てることです。腹を立てると頭に血が上ってカーとなり、分別を忘れてしまいます。喧嘩は腹を立てるから起こるのです。痴とは真理を知らないことです。この真理を知らないことによって迷い苦しむ。これを無明ともいいます。
 さて、話は元に戻りますが、地球環境が悪くなる、地球温暖化などはみな三毒のうちの貧(よくばり)のこころに起因するのです。人間は京都議定書で温室ガスの削減目標が定められているのに逆に排出量が6,4%増えるなどしているのは、人間の貪欲なまでの貪りの心によるのです。1月9日の産経新聞「正論」で作家の曽野綾子さんは「どこまで恵まれれば気が済むのか」と言われていますが、人間の貧欲は行き着くところを知りません。いま一番必要なのは小欲知足、足ることを知るということではないでしょうか。

 

       
      こころのはなし(第112回)2008.01.01

新年明けましておめでとうございます。
 皆様には恙無く新年をお迎えのことと思います。

弘憲寺ホームページも平成3年から始めましたので丸5年になり、6年目に踏み出したわけです。ことしも何とか続けられたら幸いです。
昨晩は除夜の鐘を突きながら新年を迎えました。大晦日の除夜の鐘を撞く頃には大勢の参拝客がこられ、寒い中にもかかわらず行列を成して鐘を撞く順番を待っておられました。
 弘憲寺の除夜の鐘は1人3回づつ撞き、次と替わります。終わった方から本堂に進み、おぜんざいの接待を受けます。2年ほど前までは甘酒を出していましたが、飲酒運転になるのでこれを取りやめ、ぜんざいにいたしました。ぜんざいを食べながら知らないもの同士が「おめでとうございます」と挨拶を交わし、会話が弾みます。お正月ならではの風景です。
 
 さて、今年は鼠年です。これから一年どのような年になるのでしょうか。十二支は子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)、未(ひつじ)、申(さる)、酉(とり)、戌(いぬ)、亥(い)です。この十二支はいつの時代に出来たかは定かではなく、すでに殷(いん)の時代には使われていたといわれています。初め十二支は十二ヶ月の順序を示すための符号であったそうですが、子は正月、丑は二月とつけていったようです。
しかし本来の十二支は子(ねずみ)丑(うし)寅(とら)の十二支を子(し)、丑(ちゅう)、寅(いん)、卯(ぼう)辰(しん)、巳(し)、午(ご)、未(び)申(しん)、酉(ゆう)戌(じゅつ)亥(がい)と読みます。ところがこれでは一般の人は読めません。十二支の名称は、中国歴代王朝の暦を未開の地方に伝えるために、覚えやすい動物の名前を当てはめたといわれています。
  
さて、子は孳(じ){ふえる}の意味で、新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態を表しています。ですから一月に子が来るということは非常に意味合いとしても芽出度いことです。
12年前、1996年、平成8年の子の年はどのような年であったのでしょう。

わたしたちは12年前というと何も記憶していません。さらに50年前といったら如何でしょうか、このホームページをご覧になっている方で、私はまだ生まれていなかったという人も多いでしょう。ところが50年前、100年前、150年前と50年単位で2000年前までさかのぼり、その年に何があったかを調べてある本があります。その内容を見てみると、今年2008年、その50年前は次のようなことがありました。
50年前
1958年・昭和33年
伊勢丹新宿本店で初めてバレンタンイチョコレートを売り出す。一万円札発行。東京タワー完工式。フラフープ大流行。阿蘇山大爆発。初のインスタントラーメン「即席チキンラーメン」を発売。
歌では「からたち日記」「星は何でも知っている」「有楽町で逢いましょう」などが流行しました。

100年前
1,908年・明治41年
島崎藤村「春」東京朝日新聞に発表。夏目漱石「三四郎」を朝日新聞に発表。国木田独歩没。第一次西園寺公望内閣発足。

150年前
1858年・安政5年
江戸大火。井伊直弼大老となる。コレラ全国に流行。歌川広重没。安政の大獄始まる。江戸大火。西郷隆盛と僧月照と入水(隆盛蘇生)。福沢諭吉、江戸築地鉄砲洲の中津藩中津藩に蘭学塾を開く(慶応義塾大学の始まり)

日本史を50年ごとにさかのぼると色々なことがわかり、これが2000年前までさかのぼって知ることが出来るのは本当に楽しい。よくぞここまで調べたものだと感心させられます。お正月時間に余裕のある方は日本史を勉強されてみては如何でしょう。
 日本史<50年周期>逆引き年表
吉川弘文間編集部{編}
現代こよみ辞典 <編> 岡田芳朗・阿久根末吉


 

       
      こころのはなし(第111回)2007.12.16

15日の晩、高松駅近くのシンボルタワー30階にあるフランス料理の店「アイルス・イン・タカマツ」という所でNHK文化センター高松の主催で、全日本作法会教授の講師の方が本格フランス料理のデナーによるテーブルマナーの講義を頂きました。
 講師の方は私の知人ですので、家内と共に出席をいたしました。
私は西洋料理は結婚式とか、色々な食事会などで食していますが、正式なテーブルマナーは初めてのことでした。
 
 食事の前1時間30分はテーブルマナーの講義を受けました。先ずテーブルマナーの概要、着席の仕方、ナプキンの扱い方、
そしてフルコースのいただき方です。
 はじめにアミューズこれは先付けです。これは簡単に言いますと食欲を起こさせる前菜とでも言ったらよいでしょうか、飲み物はシャンパンのような食前酒です。次にだされたのが前菜、大根の上にフォグラを載せた物、フォグラは世界の三大珍味ですよね、
因みに世界の三大珍味とはフォグラ、キャビヤ、トリフだそうです。また世界の三大料理というと、フランス料理、トルコ料理、中国料理だそうです。日本料理も遜色ないと思うのですが如何でしょうか。
 次に出されたのが魚介類のスープ料理、瀬戸内の魚介と香川県野菜、これが終わるとお口直しでシチリア産レモンのグラニテです。要するのレモン味のシャベットです。
次がメインデッシュの肉料理、和牛フィレ肉のソテー、後はデザートとコーヒーが出て終わりました。
 それぞれの料理ではソムリエの方や、講師が説明をしてくださり、生まれて初めて西洋料理の講義を受けたわけです。

この講義を受けて感じたことは、やはり西洋、ヨーロッパの食文化と東洋の食文化の違いです。
西洋は遊牧民、羊を追って生活する民です。東洋は農耕民族ですその違いが食生活の違いにはっきりと出ることがわかりました。
遊牧民は羊、牛などの動物を食しますから、どうしてもナイフ、ホークを使用します。正式に西洋料理のフルコースを味わうと、陶器の上にある料理を必ずフォークとナイフを使って食べなければなりません。どうもそれが違和感があるのです。日本料理では決して金属を使いません。木とか竹の箸だけです。だからやさしい。料理も自然の食材に合わせて調理します。ここが大きな違いです。
 
 次の講師が「あなたがテーブルに着いているのは、皆さんを楽しませるためです。愉快に振舞って、貴方の役割を果たしてください。陰気はご法度です!」といわれました。
ここも日本の食事と西洋の食事との大きな違いではないでしょうか。日本の食事方法は仏教の教えや、さらに儒教や道教の考え方が色濃く反映しています。まず、仏教では不殺生を固く禁じています。自分の欲望で食べたいからといって、生き物の命をむやみに殺してはならない。と戒めてきました。また食事中におしゃべりをすることを戒めてきました。これは御蔭様の心が働いています。
食事しながらいま食べようとしているものは多くの人の手がかかっている。その来処を考え、感謝しようと教えられてきました。そうした中で、食事中にお話をすることは、多くの人に心を及ぼすことが出来ないからとの理由からです。このように食事の場で、躾としての生活習慣を身につけ、社会性を身に付けていったのです。いま日本文化中で精神性、特にこの食教育が大きく崩れていっています。

 

       
      こころのはなし(第110回)2007.12.01

ウドンの話は一応終わりにして、話を替えたいと思います。
先月10月の中ごろ、高松市の保健センターから高齢者の大腸ガン検査の受診券が送られて来ました。
 掛かりつけの病院に行き、診察券を渡すと先ず検便をしてくださいという。その日の夕方に一度、次の日の朝に一度です。看護師さんから採取用の道具というか、器具というのかわかりませんが渡されました。
 私の小学校の頃は昭和20年代でしたから、検便の道具も今のようなスマートなものでなく、マッチの空箱を使ったように思います。その後小さなブリキの缶を渡されたことを覚えています。
 さて、今回便を採取して病院に持参しましたが、自分は先ず大腸ガンではないと思っていましたから、何の不安も無く提出しました。
 後日、夜8頃病院の主治医から電話があり、「便を検査したところが、便に出血が見られます。紹介状を書きますから総合病院で消化管内視鏡検査をしてください。」とのことでしたので、総合病院と検査日の打ち合わせをしました。その検査の日が11月29日です。検査日まで約一ヶ月あります。今まで自分は腸の中に内視鏡を入れた経験がありません。出血が認められるということはどういうことだろうか。もしかしたらポリープが出来ているのだろうか?出血をしているのだからポリープではなくて、若しかしたら大腸ガンなのかもしれないと、悪いほうばかりを考えるのです。そうすると一層不安が増大し、あまり食欲も湧きません。
どうしても気分が晴れないのです。
 しかし、一ヵ月後の検査ですので、その間の予定は消化して行かなければなりません。仕事をしている時は忘れるのですが、何かにつけて思い出し、不安になるのです。

11月26日から28日まで全真言宗教誨師研修大会が京都の洛北にある大覚寺において行われます。これにも参加しなければなりません。朝6時09分の瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、京都に8時過ぎに着き、そこからバスで渡月橋を渡り、天竜寺前を通り、9時過ぎに大覚寺に到着しましたが、京都は紅葉の時期ということで、どこへ行っても観光客で大変な人です。私の乗ったバスより一便遅れて乗車した友達は、天龍寺の前で車の渋滞で大覚寺まで一時間半かかり、「研修会の開会式に間に合わないかと思ったよ」と言っていました。そんな状況下でもふと大腸ガン検査のことが心をよぎり、また不安になってしまいます。
私は普段からあまり物事に動じないところがあると思っていましたが、ことが自分の体のことになると、この不安が断ち切れません。
 いよいよ検査の前日の晩下剤を4錠飲みそのまま就寝、次の日に10時に総合病院に行き、検査の説明を聞き、次に2リットルの水を2時間かけて飲みました。この水は薄い塩分で、下剤が入っているのでしょう。何遍もトイレに行き、腸にある排泄物を出してしまい午後から内視鏡を入れて検査が始まりました。自分が緊張するのがよくわかります。モニターテレビを自分も見ながら 
腸内の様子を見ることが出来ます。
 2、30分かかったでしょうか、ドクターは検査の終了を告げ、腸内の状況を説明してくださいました。
 お蔭で異常なしということで、一度に緊張が解け、不安もいっぺんに吹き飛んでしまいました。
 人間は不安な事柄に執らわれるとその不安が増大し、苦しみになってきます。苦しみとは自分の思うようにならない感情です。
この執われ、難しくは執着といいます。この世の中には思うようにならないことの方が多いのです。この世の中は思うようにならない世界なのだと知って生きていかなければいけません。
 執らわれない心を説いているのが般若心経というお経なのです。


       
      こころのはなし(第109回)2007.11.15

讃岐うどんの話も連続で7回続きました。うどんの話はいくらでも続けられますが、8回を持って終わろうかと思いますが、讃岐うどんも美味しいからと言っても麺だけ食べたら毎食食べられるわけでもありません。やはり出汁が重要な役割を果たします。
 讃岐では出汁もかけずに麺だけを食べる人もいますが、それはまれなことです。前にも話しましたが、うどんは蕎麦と同じように出汁はかけて食べるかつけて食べるかのどちらかです。
ですからうどんの出汁が美味しさの重要な要素になります。
老僧から昔はうどんはどのようにして食べていたのですかと聞きますと、「讃岐は昔は醤油と味噌は自家製、茹でたてのウドンに自家製の醤油をかけて食べた」という答えが返ってきました。それは美味いはずです。醤油にはその家その家の特徴があり、今市販されているものとは一味も二味も違うと思います。
 今でこそ鰹節や昆布だしを使って出汁を出しますが、昔はそんな材料は贅沢品だといいます。讃岐うどんは今よりもっとシンプルだったといっています。主としてイリコ、(煮干)が使われていました。
讃岐はイリコの生産地です。特に観音寺市沖にある伊吹島のイリコは上質で、今も全国ブランドになっています。
伊吹島のイリコは脂がまわらないといわれ、上等の出汁が出ます。
ところが同じ讃岐でも東讃に位置する引田方面のものは脂が回りやすい。要するに脂が出るとイリコが変質して味が落ちるのです。昔からイリコを買うと必ず紙の袋に入れてくれたものです。
これには理由があります。イリコから脂が出ると紙袋につきます。
脂が付くともう既にイリコは古くなっていると判断できるからです。
 最近うどん屋さんに「出汁の材料は何を使っているんですか?イリコですか、鰹節だけですか」と尋ねましたら、「イリコは使わずカタクチイワシをつかっています」とのことでした。
後は何を出汁として使っているか、どのぐらいの割合で入れるのかは教えてもらえませんでした。これは企業秘密ですよね。
やはりウドンの旨みには出汁は欠かせません。
 これも老僧に聞いた話ですが、出汁はトラハゼを使うという話でした。トラハゼを焼いて天日で干してそれを出汁に使うというのです。ただし、これは漁師所(りょうしどころ)しかしないということでした。老僧は漁師町にあるお寺さんです。
ではトラハゼとはどういう魚でしょうか。島根県太田市静間町和江311上野蒲鉾店ホームページでしらべてみると次のようです。上野蒲鉾店はこのトラハゼを使って蒲鉾を作っているそうです。この上野蒲鉾店のホームページを引用させていただくと次のように書いています。
トラハゼの標準和名は、トラギスまたはクラカケトラギスで、銀白色のキスとは明らかに違い、一見ハゼに似ているために、関西、四国、九州ではトラハゼと呼ばれ、広島ではシマハゼと呼ばれています。
分類 スズキ目トラギス科
別名 トラハゼ、アカハゼ、オキハゼ、シマゴチ、シマハゼ、マダヨソ、ロウグイ
このトラハゼは白身で淡白な味、秋から冬が食べごろ。新鮮なものは天ぷら種にするとよく、塩焼きや酢の物、椀種、フライ、開き干しなどにもされると書いてあります。いずれにしてもまだ食したことがないので、何ともいえませんが、淡白な上品な出汁が出るのではないかと想像します。

さて、最近家庭では椎茸を使って出汁をとりますが、昔は椎茸は贅沢品であったので、ウドンの出汁には使わなかったそうです。現在は昔と違って生活が豊かになり、口も肥え、より美味しくという志向から出汁も贅沢になってきました。


       
      こころのはなし(第108回)2007.11.15

 (1)卓袱台(2)卓袱  この二つの漢字をなんと読むのでしょう。1番がちゃぶだい2番がしっぽくと読みます。1の漢字の台を抜いてしまうと1と2は同じ漢字です。ところが1はチャブ2はシッポクと読むのはなぜでしょうか。
(1) の卓袱台は中国語で矮脚食卓aijiao fanzhuo(アイジアオ・フアンズオ)といいます。矮は背の低い食卓をいいます。
(2) は卓袱 シッポクと読みます。卓は食卓の卓、袱は袱紗(ふくさ)の袱です。これは中国式の食卓を言います。もう一つは八仙卓といって大きな正方形のテーブル、一辺に二人ずつ8人かけられるテーブルを指します。
このシッポクにはもう一つ米の粉、小麦粉を主材料として作った食品という意味があります。これは主としてあんかけそばを指します。この「しっぽく」は現在のベトナム付近の方言であるという説もあります。

讃岐うどんには「しっぽくうどん」があります。これはうどんの中に大根・ニンジン・里芋・あぶらあげを入れた煮込みうどんです。しかし、うどんの上にこれらの具をのせて熱い出し汁をかけたものもあります。本来卓袱うどんの出し汁は関東の濃い味付けではなく、本当に味が薄い出汁です。ですから具に入れた野菜の香りが良くわかります。これを讃岐では卓袱うどんといい、冬の期間食します。ある地区では大晦日の年越しの時だけ作るというところもあります。

この讃岐の卓袱ウドンに対し、江戸では卓袱蕎麦というのがあります。ホームページに麺類雑学辞典があります。このページは日本麺類業団体連合会/全国麺類生活衛生同業組合連合会
http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/47_01.html

に「しっぽく」の由来が出ています。それによると、江戸時代、蕎麦の種もののなかでもっとも早く登場したのが「しっぽく」である。寛延4年(1,751)脱稿の『蕎麦全書』によれば、寛延ないしその直前頃の延享(1,744〜48)頃に、日本橋の「近江屋」というそば屋がはじめている。また同じ頃、人形町の「万屋」というそば屋もしっぽくをだしているが、これはあまり流行らなかったようである。 

しっぽくとは「卓袱」。元禄(1,688〜1,704)頃から長崎で盛んであった和風中華料理の卓袱料理のことであるこの卓袱料理のなかに、大皿に盛った線麺(そうめん、またはうどん)の上に色々な具をのせたものがあった。これを江戸のそば屋が真似して、蕎麦を台に売り出したのが「しっぽくそば」ということになっている。

ただ、幕末ならともかくこの時代に、開港場という特殊な地域で流行った料理を遠く離れた江戸のそば屋が直接取り入れたというのは、少々無理があるといえなくもない。実際、しっぽく料理そのものは享保(1716〜36)頃に京都に移植され、それが大阪をはじめとする畿内に広まったとされている。そして、京・大阪はいうまでもなくうどん文化圏だとすれば、京・大阪のうどん屋がいち早く卓袱うどんを売り出し、それが江戸に伝わってそばの種ものになったと考えるのが自然のようである。とこのように書いてあります。

 さて、それでは讃岐のしっぽくうどんは何時ごろから言われるようになったのかは不明ですが、讃岐では京や大阪よりうどんを食べるの早かったのではないかと思います。しかし、ウドンに野菜を入れて食べるのを「卓袱うどん」と呼ぶようになったのは畿内に伝わってからであろうと思われます。

       
      こころのはなし(第108回)2007.11.01

 讃岐は年間の降雨量が少なく、その上、川が少ないので旱魃になる。また耕地面積が少ないのでお米が取れません。そのような事情からお米は貴重品であったのです。そしてお米には年貢がかかり、麦には年貢がかからなかったから代用食としてウドンが発達し、毎日食べても飽きないように塩加減をしながら打ち込み、腰の強いウドンが出来上がってきました。
 
 最近はオリジナルのウドンが食べられるようになってきました。「釜玉ウドン」といって、釜から揚げたてのウドンに生卵を入れて醤油をかけてよくかき回して食べる。またある店では大根と降ろしがねとを置き、客に大根をすらせ、それを出し汁に入れて食べる「降ろしウドン」。天ぷらを自由にトッピングして、食べるウドンとか、秋の季節になるとマツタケを載せて食べる「松茸ウドン」というのもあります。またセルフで丼にウドン玉だけを入れてもらい、出し汁は自分でかけて、あとは削り節(鰹節)をかけて食べる人や、ウドンの上に天カスを載せて食べる人もいます。讃岐のウドンの食べ方はさまざまです。
 しかし、煮込みウドンは「シッポクうどん」だけです。このシッポクうどんは前にも少し触れましたが、大根、里芋、ニンジン、などを入れて煮込んだうどんです。このシッポクうどんは非常に味が薄いのです。関東の人でしたらこのシッポクうどんを食べたら、「これ味がついているの」といわれるほど薄味です。出し汁にほとんど色がついていないのです。それだからこそ野菜の香りが分かりますし、うどんそのものの味がよく分かるのです。
このシッポクという意味は何でしょうか。
 私の知人に聞いてみますけれどわかりません。そこで広辞苑を引いて見ますと次のように書いてあります。漢字は「卓袱」と書きます。卓は食卓の卓、袱はふくさです。袱紗とはお茶で使う袱紗のことです。なぜこの漢字を「しっぽくと」読むかというと、これは唐音(とういん)です。唐音というのは日本漢字の一つで、宋・元・明・清の中国音を伝えたものの総称です。禅僧や商人などの往来に伴って主に中国江南省地方の発音が伝えられたものです。このシッポクの意味は、中国で食卓の被いのことで、転じて、その食卓の称。卓袱台といいます。もう一つの意味は、蕎麦・うどんの種に松茸・椎茸・蒲鉾・野菜などを用いた料理をいいます。

 

       
      こころのはなし(第106回)2007.10.01

 前回麦打ち法要のお話を致しました。この法要は浄土真宗だけのものかと思っていましたら、東讃(香川県の東の地域)では真言宗の寺院でも行われていたようです。現在東かがわ市の寺でも行われています。真言宗では麦打ち法要と言わず、麦たたき法要と言われていました。昔は動力がない時には麦の穂を筵の上に広げ、竹竿の先に太さ10センチぐらいの丸太をつけ、それが回転するようになっています。その木の部分を回しながら麦の穂の上に打ちつけ麦粒をとります。この道具をなんと呼ぶのか知りませんが、麦打ち法要の麦打ちの語源になり、麦たたき法要の語源となったのではないかと思われます。真言宗の寺院では麦の穂をたたく時に法要が勤まる。そしてウドンの接待が行われていました。また小豆島では夏場に麦そのものをお寺の本尊にお供えしました。
 
ある老僧にお話を聞くと、「本来讃岐ウドンは太くて短いので、煮込みウドンであった」と言われました。その煮込みウドンが短く太いところから「泥鰌ウドン」と言われていました。ウドンが泥鰌の形に似ていたからでしょう。この泥鰌ウドンが少々なまって、「ドンジョうどん」と讃岐の人は発音します。
現在、泥鰌うどんを出す店を何軒か知っていますが、生きた泥鰌を入れて食すのは後のことと思われます。しかし、泥鰌を入れることによって、よい出汁が出ますし、滋養にもなることなので食べられるようになったのでしょう。その泥鰌も最近讃岐産ではなく台湾や中国から輸入しているものを使うらしいのです。讃岐は川が少ないために多くの溜池があります。そのため池にフナや泥鰌がいましたので、農家の人たちは何かの行事には集まっては泥鰌を獲り、泥鰌うどんを作りました。私も二三度呼ばれたことがありますが、食べるのには少し勇気が要ります。それこそドジョウが丸太(まるた)で入っているのです。この丸太と言うのはドジョウがそのままの姿で入っていることを讃岐ではこのように表現します。
 

また讃岐の郷土料理として、「鮒のてっぱい」があります。「てっぱい」と言うのは「鉄砲和え」から来た言葉でしょう。鉄砲和えはぶつ切りにしてゆでたネギを魚介類・野菜を加えて酢味噌などで合えて料理ですが、讃岐ではこのフナのてっぱいは、大根の千切りに溜池で獲れたフナを用いて、からし味噌で和えて食べる料理です。これが絶妙な味で、本当に美味しく日本酒によくあいます。昔は法事の席に必ずこのフナのてっぱい、醤油豆、ウドンが出されたものです。醤油豆とはやはり郷土料理で、乾燥させたソラマメを焙烙(ほうろく)で煎り、醤油ベースのたれに漬け込み、軟らかくして食べるのです。この醤油豆は作る家々で味が違い、お酒の席にはもってこいの料理です。このような郷土料理も法事の席から姿を消し、家庭でもほとんど作られなくなってしまいました。うどんも家庭で打つということがなくなり、近くのうどん屋でウドン玉だけを買ってきて食べるようになりました。


 

       
      こころのはなし(第105回)2007.09.15

 讃岐ウドンの話も4回目となりました。
私が弘憲寺の住職に就任した昭和43年の夏、お盆経のためにバイクの免許を取得し、盆参りのために檀家参りに行きました。高松に生活してまだ3ヶ月あまりですから、檀家の所在がわかりません。地図を見ながら訪ね歩き、一軒一軒読経してまいりました。
 ちょうど高松の西郊外に鬼無町(きなしちょう)というところがあります。この鬼無町は松の盆栽の生産地で、米、みかん栽培を行っている農村地域です。この鬼無町藤井という集落に寺の檀家が数十軒あります。一軒の檀家さんのお婆さんが、一軒一軒檀家を案内してくださり、大いに助かりました。そのおばあさんは親切にも読経が終わるまで家の外で待ってくださり、また次の家に案内をしてくださいました。このおばあさんは既になくなられましたが、その親切を今でも忘れることができません。
 普通檀家参りして、読経が終わるとお布施を用意してあり、お布施を頂いて次の家に参りますが、この鬼無地区の集落では夏のお盆経に行ってもお布施が出ないのです。始めは家の方が忘れているのだろうと思っていましたら、何件廻ってもお布施が出てこないのです。自分からお布施がありませんよと催促も出来ず、その集落の檀家参りで一軒もいただけなかったのです。
 ところがその集落の最後の家で読経を済ませた時に、その家の主人が、「院主さん、ご苦労様でした。今年も夏初穂(なつばつっお)を近くの製粉所に預けてあるから、粉でもよし、冷麦でもよし、好きな方をお持ちかえりになってください」というのです。
 ところが私はこの意味がわかりませんでした。寺に帰って義母に聞くと、それはこのような意味だよと教えてくれました。
 「昔からこの集落では夏のお盆経は現金のお布施はなく、御布施の替わりに物納でお初穂(はつほ)を頂くのです」。というのです。このお初穂というのはよく神社でお初穂料(はつほりょう)と書いてあります。その年に収穫した麦、お米またその年に取り入れた穀物、野菜、果物などの称です。これを「おはつほ」と読みますが、讃岐では「ばっつお」と発音いたします。夏に収穫する小麦を初初穂を「はつばっつお」発音するのです。
要するに夏に収穫した小麦粉をお布施として頂くことを意味いたします。この習慣も鬼無町にあった製粉所がなくなって終わってしまいました。
 この讃岐は弘法大師生誕の地です。ですからお寺も真言宗が多いと思われるのですが、実は讃岐は浄土真宗の寺院が倍以上あるのです。この浄土真宗の年中行事というのは、親鸞聖人がなくなられたご命日である11月28日の前の21日から28日、浄土真宗東本願寺の寺院では報恩講が勤められます。もう一つは夏に行われる「夏祭り」という行事です。これは11月28日の報恩講を夏の7月28日に行う行事で、「夏祭り」と称し、また別名讃岐の寺院では「麦打ち法要」といっています。
 このときに門徒の方々は、お寺に参拝する時に、夏に収穫した小麦の粉(夏初穂 なつばっつお)を持ち寄り、門徒の方々の手でウドンを打つのです。門徒の人(注1)の手で打ちますから、本当の手作りのウドンです。
 このウドンは先ず太さが不ぞろいです。現在のウドン店のウドンは実に細い、だいたい割り箸を割った一本の太さです。
ところが寺で打つウドンはひどいのになると親指ぐらいの太さのウドンになります。その太く短いウドンが喉を通る時引っかかる。
少し細くなるとのどをすんなりと通っていきますので、これを「喉越しがいい」と表現いたします。現在でも香川県では東の方の地域、(東讃)の浄土真宗寺院で行われていると聞きますが、今ではほとんどの寺院で夏祭りの行事は行っているものの、ウドンを打って接待する寺院はほとんどないと聞いています。
(注1)門徒とはその寺の檀家を指します。特に浄土系では門徒といい、真言宗や禅宗では檀家といいます。

 

       
      こころのはなし(第104回)2007.09.15

前のページで触れた智泉大徳についてお話をしたいと思います。智泉大徳は789年(1218年前)平安時代前期の僧、真言宗を開き、和歌山県高野山を開創した空海の甥に当たります。
父は讃岐滝宮(現在の綾歌郡綾川町)の官使(太政官の使者)で菅原氏です。母は佐伯氏の出身で空海の姉です。

智泉大徳は奈良大安寺を本寺として出家しました。この大安寺は現在でも続いていますが、空海が大学を離れ、山岳修行をしている時に勤操大徳(ごんぞうだいとく)より虚空蔵求聞持法を伝授された方で、この奈良大安寺を拠点としていたお寺です。大同年間の末年ころに空海の室に入り金剛界、胎蔵界両部の大法を受け、弘仁3年(812)12月、京都高雄山寺の三綱となりました。
以後常に空海の側近にあって苦楽をともにして、唐より伝えた真言の教えの宣布の事業を助けました。

天長2年(825)2月14日、高野山東南院でお亡くなりになりました。一説には5月15日滅、37歳の若さでございました。
智泉大徳を大法師とも伝燈大法師ともいいます。
このとき智泉大徳の死を悼んで書いた空海のたっしん文はあまりにも有名で、性霊集八にございます。たっしん文とは法事の際に唱える願文のことです。
このたっしん文を一部紹介いたしましょう。

前略
思うに、今はなき弟子、金剛密教の教えの後継者たりし智泉は、出家以前は、わたしを舅(おじ)とよぶ関係にあった。仏道に入ってからは、私の教えを受け継ぐ最初の弟子となった。親に仕える心をもってわたしにつかえて二十四年。つねにつつしんで、法を習いおさめた。金剛、胎蔵両部にわたり密教の奥儀をあますところなくおさめた。つつしみ深き口に人の欠点をあげつらうことがなかった。人の悪口を言わないのはただ阮嗣宗(げんしそう)だけに限っているのでないことは、この智泉を見ても明らかであった。心の怒りを顔にあらわさず、あやまりを二度と犯さないのは、顔回のみでないことは、この智泉を見ても明らかであった。

きびしく修行をするときも、むつまじく一つ家に住むときも、また王宮に仕えるときも、山中に修行する時も、光と影がよりそうように、常に離れることがなかった。(中略)

文中につぎのように空海は二度にわたって悲しみを表しています。
ああ哀しいことよ。哀しいことよ。この上の哀しさがまたとあろうか。ああ悲しきことよ。悲しきことよ。悲しみのどんぞことはこのことであろう。
さらにまた、ああ哀しいことよ。哀しいことよ。哀しいといってかえらぬこととは知りながら哀しい。
ああ悲しいことよ。悲しいことよ。悲しいといってかえらぬこととは知りながら悲しい。

智泉大徳が亡くなられことが空海にとっていかに大きな悲しみであったかがこの文章からわかります。
空海の手足となってつかえた智泉大徳は空海から真言密教の教えは言うにおよばず、日常生活の事柄、すべてを伝えたのではないでしょうか。そういう意味で、ウドンの製法も伝えたのかもしれません。


 

       
      こころのはなし(第102回)2007.08.15

ウドンはどこから来たのか。こう考えると麺は中国だろうと考えます。さらに辿って行くとシルクロードを西に向かい、ローマに行き着くかもしれません。ここで元高野山大学講師岸田先生の書かれた「うどんはどこから来たのか」を調べてみたいと思います。 
元高野山大学講師でいらした岸田知子先生は主に中国文学をご専門としておられ、私が以前高野山大学の非常勤講師を務めているとき、中国空海ロードをご一緒に旅行したことがございます。
中国空海ロードとは空海上人が32歳のみぎり、中国に密教の教えを求め入唐した際、暴風のために乗船した遣唐使船が漂流し、福州長渓県赤岸鎮(現在福建省)の海口に到着しました。空海はその赤岸鎮から長安(現在の西安)まで2,400キロを走破しました。その空海和尚が歩まれた道を空海ロードといいます。

 そのようなご縁から岸田先生から一冊の本を頂戴いたしました。その本のタイトルが「来た 見た 食った さぬきうどん」です。その中の寄稿として掲載されているのが岸田知子先生の「ウドンはどこから来たのか」です。この本の著者は北野チッパーズUSAです。この著者を説明すると長くなりますので省略いたしますが、岸田先生の文章を引用させていただきます。

 
「そもそも麺という字は麪の俗字で麦の粉を意味する。漢代の文献に「餅は并(へい)なり、麪を溲(こ)ねて合并せしむるなり」とあるように、中国では昔から小麦粉で作る食品を総称して餅(ピン)といった。字は同じでも日本のモチとは違う。現在の食品で言えば、饅頭(マントウ)包子(パオズ)餃子(ギョウザ)焼売(シュウマイ)などはみな餅(ピン)で、中身や形状、調理法によってさまざまな種類がある。餅(ピン)をひも状に伸ばして、ゆでて食べるのを麺条というのが、これは水餃子や?飩(こんとん)「これは日本でいうワンタン」から発達したものと思われる。現代中国の南の地方では、麺条を麺と呼んでいる。」
 
とあるので、麺と言ったら日本人は普通そば、ウドン、ラーメンなどの細長いひも状の麺を想像するけれど、基本的にはどうも違うらしい。しかし、麺といったら麦の粉で作ったものを麺と考えればいいのではないかと思う。

 香川県の人はウドンを弘法大師空海和尚が帰朝したときに日本に伝え伝えたと信じている。しかし本当に空海和尚が伝えたのかというと、甚だ疑問である。だが空海和尚が伝えたのではないと否定する根拠もないのです。ところが岸田知子先生の寄稿文の中で、次のように書かれています。

 「中国の北部ではかなり昔から穀類の粉を材料とした食品を食べていた。しかし、粉を挽くのに人力や牛馬が必要であったため、実は裕福な階層しか食することがなかったのである。ところが、唐代に西方より水車による製粉法が伝わり、大量の製粉が可能になった。また、小麦の栽培面積が拡大し、小麦の価格が下がり、粉食が庶民にまで流行するようになった。唐代後半には都長安のみならず地方でも餅(ピン)を売る店が流行したという。」と書いてあります。これを見ると、長安(西安)に滞在していた空海和尚が餅(ピン)を食していたことは考えられるが、果たして現在の讃岐ウドンのようなものを食していたとは考えにくい。

さらに岸田先生は「日本の麺文化の中で、そばは江戸で発展し普及したため、これに関する本も多いが、ウドンやそうめんの歴史についてはわかっていることが少なく、書かれたものも少ない。そもそも日本では固い小麦を粉にする石臼が発達せず、農家に石臼が発達するのは江戸時代中期以後であるといわれている。」とあるので、これを見る限り空海がウドンを伝えたという説は遠ざかるのではないか。また讃岐では空海和尚の甥に当たる智泉大徳がウドンを伝えたと主張するお寺さんがいらっしゃる。
 


       
      こころのはなし(第101回)2007.08.01

先月法話を頼まれて兵庫県に参りました。法話で開口一番に聴衆に向かって自己紹介から始めて、「讃岐といったら何をイメージしますか」と尋ねました。私は聴衆に期待したのは「弘法大師空海上人生誕の地」と答えていただきたかったのですが、豈図らんや、「讃岐うどん」と答えられました。
 予想していなかった答えなので咄嗟に「讃岐はお大師さまのお生まれになったところです」と話し始めましたが、今や讃岐うどんは全国区になりました。
 私は生まれが神奈川県の藤沢ですので、ウドンというというと代用食というイメージが強いのです。お米が足らないときの代用食です。私が生まれ育った年代は食糧難の時代、お米が足らない分、蕎麦を細かく切って、お米と一緒に炊きこんだ時代でした。それでもこれはまだよい方で、サツマイモを乾燥させ、それを粉にしてお団子状にして蒸かして食べる芋団子を主食にした時代です。
 うどんは煮込んで食べるもの、煮込みウドンと思っていました。私は生まれてから大学を卒業して高野山に登り、修行して高松の弘憲寺に住職として入るまでウドンは煮て食べるものと思っていました。
弘憲寺に入山すると昼の食事は決まってウドンです。寺の門前に中浦というウドン屋があって、ここはウドン粉を練るのに讃岐ウドン本来の作り方である「踏む」やり方を現在まで行っている正調讃岐ウドンの店です。門前にある店ですから昼時になると中浦に飛んでいって、食べる分だけ買ってくる。要するに出来たてのヌクヌク(あたたかい)ウドンです。
讃岐ウドンの基本はウドン、つけ汁、すり生姜、細ネギです。これを基本として丼に入れたうどんにだし汁をかけるか、蕎麦猪口にだしを入れ、ネギ、すり生姜を入れてつけて食べる方法です。ところが藤沢育ちは蕎麦が主で、ウドンを食べる習慣があまりなかったものですから、先ずウドンを蕎麦のように蕎麦猪口で汁をつけて食べているのに驚かされました。「ヤー・ウドンを蕎麦のようにたべているよ」ということでした。
ところがお寺ではほとんど昼食はウドンです。昼の忙しいときは料理を作る手間が省け、だし汁だけ作っておけばすぐ間に合います。讃岐の人はウドンさえあれば他におかずがなくても文句を言わないところが凄いのです。毎日ウドンを食べても飽きないのかといわれますが、それが飽きないのです。
 お寺では毎年春の彼岸法会やら色々な行事を行います。その時に参拝者にお接待をいたします。そのお接待はウドンだけです。そのウドン接待が何十年続いていても誰一人「お接待の食事がウドンだけなのか、とか粗末な食事だ」といったような苦情を聞いたことがありません。本当に讃岐の人はウドン好きです。
 特に讃岐のお坊さんはウドンが嫌いでは務まりません。それは法事のたびにウドンが出るからです。それも法事を営む家に着いたとたんに、「うどんが出来てます」。といわれ何の抵抗もなく頂くのです。うどんを食べてから法事を勤め、終わると今度は正式なお膳が出るのです。

これから暫く「こころの講話」ではウドンシリーズで「讃岐ウドンとは何ぞや」をお届けいたします。お楽しみに。


       
      こころのはなし(第100回)2007.07.15

こころの講話シリーズがちょうど100回目を迎えました。毎回間際にならないと文章が書けません。時間の余裕があって原稿を前にして書こうとしてもなかなか書けるものではありません。               
ホームページのこころの講話も一日,十五日の締め切り間際に追い詰められないと、文章が浮かんできません。私はよく説教や講演を依頼されます。ほとんど私が所属している高野山真言宗の寺院からですが、早いところは一年前から頼まれることがありますが、どんなに早く依頼されても原稿を書き始めるのが一ヶ月前、これでも早い方で、普通は一週間前ぐらいにならないと火がつきません。自分を追い詰めないとよいアイデアーが出てこないのです。
100回目のこの原稿も15日の締め切りにパソコンに向かっています。本当は14日に書く予定でしたが、兵庫県宍粟市で行われた高野山真言宗播磨支所9区参与会研修会の講師を依頼され、講演が終わり帰宅してから原稿を書こうかと思っていました。ところがあいにく14日は大型台風4号が九州に接近中です。早朝テレビのニュースを見ますと、すでに九州では台風接近ために各地で川の増水や、土砂崩れの様子を放映しています。私は一抹の不安を抱きながら朝9時に家を出て、車で瀬戸中央自動車道を通り、山陽道、さらに中国道を通り、折から台風の余波で通行途中の岡山市、備前市、竜野の山間部は猛烈な雨で、揖保川は増水し、濁流が渦巻いています。揖保川沿いに車を運転し、やっとのことで12時半に会場である宍粟市波賀町にある市民センター波賀に到着しました。午後2時半から1時間半の時間を頂いて「真言宗の教えてなに?」という演題で講演を致しました。
会場には雨にもかかわらず300人近い会員の方が研修を受けられました。この参与会というのは主として各寺院の檀信徒を中心に組織されていて和歌山県高野山が主管しています。毎年各地のブロックごとに研修を行っていて、この講演が終わり帰宅してから心の講話の原稿を書こうと思っていましたが、会場を出る頃には強い雨が降り続いています。無事に帰宅できるかなと不安になってきました。なぜなら風速20メートルになると瀬戸自動車道の瀬戸大橋が前面通行止めになってしまうからです。
通行止めになると岡山か倉敷あたりで一泊しないといけません。とにかく瀬戸大橋までは行ってみない事にはどうにもなりません。山陽道など高速道路はすでに50キロ規制です。それでも大型トラックなどは100キロ近くのスピードで私の車を追い抜いていきます。追い抜きざまに水しぶきが立ち、前方が一瞬見えなくなります。運転が恐ろしくなり、ハンドルを硬く握り締めて
極度の緊張を強いられます。途中パーキングエリヤに立ち寄り、しばらく休憩した後ふたたび運転を再開し、やっとのこと瀬戸大橋に近づいてきました。道路脇にある電光掲示板に自動二輪通行止めと表示されています。やれやれ車は通行可能ということで、時速50キロで大橋を渡りかけました。ところが瀬戸内海の上に架かっている橋ですので、風をさえぎるものが何もありません。まともに強風を受け、車は横揺れするしハンドルは取られるしで、
このまま車は横転するのではないかという恐怖が過ぎりました。
夜8時近くに寺にたどり着きすぐにテレビを着けてみると、ニュースで瀬戸大橋が強風のため通行止めになったことを報道していました。この日は本当に疲労困憊でそのまま寝入ってしまい、やはりこころの講話の原稿は15日になってしまいました。また101号から頑張ろうと思います

       
      こころのはなし(第99回)2007.07.01

二十数年間も高松刑務所に宗教教誨師として訪問させていただいておりますと、色々なことを体験します。昨年、明治以来施行されていた監獄法が大きく改正され、「刑事施設及び受刑者の処遇等に関する法律」が施行され、行政改革の実現に向けて歴史的な一歩を踏み出しました。
この法律の目的は、刑事施設の適正な管理運営とともに、受刑者の人権を尊重しながら、その受刑者の状況に応じた適正な処遇の仕方を行うことにありますが、特に受刑者の改善更正の意欲を呼び起こし円滑な社会復帰を図るための処遇をより一層充実させることに重点が置かれ、特に民間協力者である宗教教誨師、篤志面接員の役割がさらに重要になってまいりました。
私は月に一、二度刑務所に赴き、教誨を希望する受刑者に法話や道徳的なお話や、また受刑者から希望して読経願いが出されると、仏壇の前で供養のための読経をし、精神講話を致します。
また特殊なものとしては棺前教誨も行います。棺前教誨とは、受刑者が病気のため刑務所内で亡くなり、遺族がいなかったり、遺族が遺体の引取りを拒否したとき、刑務所内で葬儀を執行いたします。
今年に入ってから私は二件、葬儀の導師を勤めました。今年の初めに刑務所から電話を頂き、「刑務所内で受刑者が亡くなり、刑務所で葬儀を執り行わなければならなくなりました。つきましては本人は家の宗教が真言宗なので、先生に導師をお願いいたしたいのですが」ということでしたので葬儀の日程を相談して、翌日施設に赴きました。到着するとすぐに刑務官の方と打ち合わせをしました。その席で刑務官が亡くなった受刑者には妹さんが一人居り、電話でお兄さんの死亡を告げたところ、「私は葬儀にも行きません。お骨も引き取りません」ということでした。
そこで刑務官の方が「そう言わず、あなたのただ一人のお兄さんではないですか。もう最後ですから、一度顔だけでも拝んでくれませんか」と再三説得し、やっとのことで妹さんは承諾し、次の日早朝に刑務所に来て面会だけ済ませて、遺骨の引き取りを拒否してそのまま帰っていかれたそうです。

葬儀の執り行われるところは、刑務所内に6畳ぐらいの小さな建物があり、そこに仏壇が祀られ、その前にお棺が安置してあります。定刻に私が導師となり引導を渡し、所長、部長、四、五人の刑務官が参列し、焼香をして葬斎場に向かって出棺して行きました。この後、四十九日間施設内に安置し読経をした後、高松市内にある刑務所の墓地に埋葬されました。

考えてみると誰にもほしまれることなく旅立って行った受刑者は、本当に寂しい人生の終焉であり、ただ一人の妹にも愛想をつかされ、家族の墓にも入ることを拒否され、もちろん墓石に名前が刻まれることもなく土に返っていく、これは自業自得といってしまえばそれまでですが、なんとも心空しい葬儀でございました。

       
      こころのはなし(第98回)2007.06.15

先月、教誨師会の会議が京都であり、出席のため高松駅から瀬戸大橋線マリンライナーに乗り、一路京都を目指しました。途中坂出駅手前で電車が急に減速し、一時停車をしてしばらく経ってまたゆっくりと走り出し、瀬戸大橋を渡るときには平常に走っていましたが、岡山駅近くで車内放送があり、マリンライナーが遅れ接続の「のぞみ」に乗れないので後続の「のぞみ」に乗車してくださいということでした。急いで改札を通り、新幹線ホームに上がると既に自分が乗るべきのぞみは発車した後でした。ホームに立っていると放送があり、「瀬戸大橋線の遅れでのぞみに乗車できなかった方は後続ののぞみ12号車、13号車にご乗車下さい。座席は確保してあります。」とのことでしたので、安心して後続を待ちました。
 
 20分ぐらい待ちますとのぞみがホームに入ってきました。指定された通り、12号車の空席に座って発車しました。のぞみは姫路駅に停車、乗車してくる客がそこは私の席ですからどいてくださいというのではないかと一抹の不安を覚えました。
姫路駅ではどうやらパスし、次の新神戸駅ではどうだろうかと落ち着きません。ところが新神戸では乗車してきた客がやってこられて、「そこは私の座席です。」といわれますので、座席を立ちましたが、車内を見渡すとほとんど空席がありません。私は車掌のところに行き、今までの経緯を説明し、座席の確保をお願いしましたところ埒が明きません。仕方がないので特急券なのにこのまま京都まで立ったつことになったらどうなるのですか。特急券を払い戻してくれますか?と聞いたら、車掌は到着駅で聞いてくださいという。仕方がないので、「では京都まで立ったままだったら、立っていたままでしたという証明書を出してくれますか」と尋ねたら、それは出せませんというのです。「ではどうしたらよいですか」といいますと、「グリーン車に行って座ってください」といいます.
グリーン車両に行き空いている所に座っていましたら、グリーン車の専属の車掌がきて、「グリーン券を拝見します。」といいます。再び岡山からの顛末を説明しましたところ、「それならばこのグリーン車にお座りいただいて結構です。」というので、やっとのこと座席にゆったり座ることができました。既にその時はのぞみが新大阪についていました。グリーン車の満足感も一区間だけのものでした。しかし、余禄もありました。座席の前にポケットがありその中に新幹線社内誌が二冊入っています。一冊の「ひととき」を手にとって開いて見ますと、「温かい巡礼」自分の癒し八十八箇所霊場巡り、の特集を組んでいます。私は四国高松ですので、四国霊場、小豆島霊場、などはよく知っていますが、伊豆に八十八箇所霊場があるとは少しも知りませんでした。
この霊場は天城湯ヶ島に近い嶺松院から始まり、伊豆を一周して修善寺が打ち止めです。伊豆の霊場はまだまだ知名度も低く、それゆえに四国八十八箇所と違った素朴な霊場です。
 この雑誌に、宗教評論家のひろさちやさんが、「巡礼とは、自分の中に仏を見つける旅である」と定義されています。
当にその通りで、せせこましい生活を離れて、一度自分の中の仏を見つけに歩いて見たいですね。

       
      こころのはなし(第97回)2007.06.01

いま讃岐平野は麦秋のころ、一面に黄色く色づいた麦畑が一面に広がっています。麦畑を見ると子どもの頃を思い出します。
私の生まれたところは神奈川県藤沢市辻堂というところです。
辻堂は隣町が鵠沼、茅ヶ崎という湘南真っ只中に位置します。
 今は湘南といえばサマースポーツのメッカで夏の海水浴には人、人で埋め尽くされてしまいますし、冬でも若者がサーフインを楽しんでいますが、子どもの頃はそれほど人出も多くなく、葦ずばりの海の家が4、5軒建っているぐらいでのんびりしていました。

お寺の屋上から見ると松林の向こうに江ノ島が見え、西の方角には富士山が見えます。子どもの頃はお寺の隣近所がみな農家ばかりで、主に薩摩芋や野菜、麦を栽培していました。冬になると近所のおじさんから麦踏の手伝いを頼まれます。私は小学校の頃はよく借り出され、麦わらぞうりを履いて着いていったものです。
 辻堂は砂地で麦をまき、芽が5〜6センチに伸びるとちょうど厳寒の頃ですので、朝霜柱が立ち、麦の根を持ち上げてしまいます。そのため一度か二度は畑に行って、藁ぞうりを履き麦を踏んで押さえつけるようにするのです。藁ぞうりは麦を傷めないために履くのです。約半日麦踏を手伝うと農家の叔父さんは「ご苦労さん、また頼むよ」といって私の手のひらに50円を乗せてくれました。子どもの頃の50円は大金で、急いでポケットに仕舞い込み、手でポケットを押さえながら家に帰った思い出があります。
 5月から6月になると冬に麦踏をした麦が撓わに実り、本当に麦秋そのものです。
いよいよ麦刈りになり、おじさんの呼び出しを受けて畑に出向き、おじさんが鎌で刈った麦を畝に並べていきます。それを私は纏めて束にするのが仕事ですが、途中でおじさんが私を呼ぶので、近づいていくと「ほら、ここを見てご覧、雲雀が巣作りをして雛がいるよ」というのです。麦の間を見ると小さな巣に雛が口をいっぱいに開き鳴いています。
 しばらく巣を見ているとおじさんが、「可愛そうだからこのままのして置くか」といって、巣のところの麦を刈らずに次の畝に移って行きました。
 それから一週間ほど経って雲雀の巣を見に行くと、そこのはもう雛の姿はなく、空になった巣だけが残っていました。青い空を見上げると雲雀が上空で一生懸命ないています。
 それから50年以上も経ちましたが、黄色くなった麦畑を見ると今も巣の中で鳴いていた雲雀のことを思い出すのです。

 夏雲雀微熱の午後の照り曇り    草 城
 

 

       
      こころのはなし(第96回)2007.05.15

お寺の木々はすべて新しい葉に換わり、眩しいほどの新緑が輝いています。このところ晴天が続き、本当に初夏を思わせる日々です。私はこの五月の晴天を五月晴れ(さつきばれ)と思っていましたらどうもそうではないようです。旧暦の五月は梅雨の季節で、元来、五月晴れ,五月空(さつきぞら)という言葉は、梅雨の間の晴れ間を指し、また梅雨明けの晴天のことをさした。(注1)

芭蕉の句で 
五月雨や流れて早し最上川
がありますがこの句は旧暦の五月梅雨の頃ということがわかります。
太陽暦でいうと6月が梅雨の季節に入ります。
この月は田植えが盛んで、讃岐平野も一斉に田植えの時期となり、弘法大師が約1200年前修築した満濃池のユル抜きが6月15日に行われます。ユル抜きとは満濃池の水門を開いて田畑に水を流し込むことをいいます。因みに6月15日は弘法大師空海のお誕生日です。讃岐は現在でも旧暦の五月に田植えを行うところが多いのでしょう。
最近は農家では秋の収穫時に台風に遇うことが多いのでこの時を避け、一月以上も早く田植えを致します。この頃は早いところでは8月にお米の収穫をするところもあるそうです。しかし、こんなに早く収穫すると何の風情もなくなってしまいますね。稲刈りは晩秋であり、収穫したお米の束を干す風景は日本のふるさとの情景であったのですが、今はこのような日本の風景を見るのは難しくなっているのかもしれません。  
農家も機械化が進み、コンバインで刈り取り、籾だけを袋詰めにして、乾燥機に掛けてしまいます。高齢化が進んでいる日本の農業は労働力の軽減ということは大切なことかもしれません。
 
さて、五月のことをサツキと読みますが、この月は田植えが盛んで、早苗(さなえ)を植える月の意味で早苗月といっていたのを略してサツキとなったといい、またサツキのサは、神に捧げる稲の意味で、そこから稲を植える月の意味になったといわれます。
 私は五月(サツキ)は皐月の字を当てるのが本来のものと思っていましたら、「万葉集」「日本書紀」では「五月」をサツキと訓(よ)ませていて、早月、皐月の字を当てるようになったのは後世のことであると書いています(注2)
 和風月名を見ると、日本人は四季おりおりの自然界の移り変わりを観察しながらそれを月名に織り込みながら、敏感に季節感を感じとり、自然界の営みに逆らわずに生活をしていたことがうかがえます。
注1、2 現代こよみ読み解き辞典 編著者 岡田芳朗 阿久根末忠 柏書房

       
      こころのはなし(第95回)2007.05.01

 ゴールデンウイークが始まり29日30日は天候にも恵まれ、多くの人が行楽地に行かれたのではないかと思います。逆にお寺はこの期間に法事が集中します。そのような中で30日にお伺いした檀家さんで、法事を済ませて衣を着替えているときに、短冊が一枚柱のところに掛けてありました。その短冊にはこのように書かれています。
 
合掌  腹が立ったらたったまま
    悲しかったら泣いたまま
    そっとこの手を合わせます
 
良い言葉なので手帳に書き写してきました。この言葉は何を言おうとしているのでしょうか。手を合わせて間を持ちなさいよと言っているのでしょうか。それとも自分を振り返りなさいよと教えているのでしょうか。合掌は素晴らしい表現方法だと思いますね、相手に向かって合掌したら相手方も心和みます。

合掌とは手を合わせるという行為です。インドでは古くからの礼法の一つで、南アジア諸国では挨拶にもこの礼法を用いています。合掌をすることは、相手に何も危害を与えませんという姿かもしれませんし、相手を尊ぶ基本的な姿でもあると思います。
インドの国花は蓮の花です。インド人は蓮の花を見て合掌を考え出したのでしょうか。合掌とは基本的には蓮の蕾を形作ります。蓮は泥の中にあっても泥に染まることはありません。蓮は清らかな心の象徴です。その清らかな心を表現して手を合わせはすの蕾の形をとるのが合掌です。ですから合掌は胸のところで手を合わすのです。
手には五指があります。この五指にはそれぞれに意味があります。小指から地、薬指は水、中指は火、人差し指は風、親指は空です。地水火風空はこの宇宙を構成する五つの要素です。これを五大といいます。この地球が誕生して45億年、そして38億年前に太古の海に初めて誕生した命は私たちの祖先です。その命の素になったものが地、水、火、風、空の五つの要素です。この五大が途切れることなく受け継がれているのが現在の私の命なのです。
この五大を表現しているのが五重塔です。五重塔は屋根が五層になっています。この五層が五大である地水火風空を表し、大宇宙を表現しています。またお寺で使う卒塔婆も大宇宙を表現しています。またお墓に立てる五輪塔も大宇宙を表しています。
この五大を表す五本の指も合掌することによって大宇宙を表現しています。要するに合掌することは、大宇宙から頂いたかけがえのない命だということを象徴的に表しています。
お互い合掌しあうということは、相手のいのちを尊重することにつながります。

 

       
      こころのはなし(第94回)2007.04.16

 春本番となり、お寺に一本ある桜も風が吹くたびに舞い、地面に花筵を敷いています。一昨日車を走らせているときに、一本の桐の木に目が止まりました。綺麗な紫色をした花が開いています。
 普段桐の花に目を留めたことはないのですが、木々が芽吹きだしたその中に、桐の紫色が際立って美しく見えました。昔は女の子が生まれると桐の木を植え、娘が嫁ぐときには成長した桐に木で箪笥を作り持たせ嫁がせたという話を聞いたことがあります。
 私の寺では、息子が生まれる時に、裏庭に桐の木を植え、成長して製材に出し、しばらく板にして乾燥させ、その板でお茶の台子を作り、いま家内が茶道で使用しています。桐の木は成長が早いので、このようなことができるのでしょう。
新潟県南蒲原郡田上町大字田上に「桐蔵KIRIZO 」があります。
http://www.1kirizo.com このホームページに「私たちは子どもの誕生を記念して桐の木を植えます」があります。ここにも次の代のために植樹をしている話が出ています。
 
 前に聞いた話ですが、中国には老酒という酒があります。老酒も娘が生まれると、甕に原料を仕込み封印して、地中に埋め、娘が嫁ぐときに甕を掘り出し、お祝い酒として飲んだと聞いています。要するに20年近くも寝かせて置くので古酒ということで老酒(ラオジュウー)というのだと聞いた事があります。

さて、話を元にもでしますが、桐の木の花は家紋の意匠に用いられています。豊臣家の紋が桐紋です。高野山の金剛峰寺の寺紋がやはり桐と巴を使用しています。金剛峰寺は豊臣秀吉が母の菩提のために寄進した寺ですので桐紋を使い、巴は高野山の地主の神様である高野明神の紋です。「桐紋はもともと菊とともに天皇家の紋である。しかし、将軍家に下賜され、その将軍家がさらに武将功臣に再下賜され、広まった。菊紋は規制が厳しかったが、桐紋はそれほどでもなかったので、あこがれの紋として広まったのである。」とホームページ「家紋world」に出てまいります。

私はこの家紋について素晴らしいと思うことがあります。それはデザイン(意匠)の素晴らしさです。家紋は既に平安時代にさかのぼるそうですが、日本人の祖先たちが家の象徴として、デザインして使用したということは素晴らしいことだと思います。家紋は約一万ほどあるそうですが、これを誰がデザインを考えたのでしょうか。
やはり家紋を考える専門のデザイナーがいて、そのデザイナーに依頼したのでしょうか。
 家紋のデザインはそのモチーフ(図案、柄)がほとんど植物であり、また動物でもやさしい小動物に限られています。例えば
鳩、馬、ウサギ、こうもりなどです。
 植物では茄子、三つ葉、唐辛子、夕顔の花、桃、胡桃、葵、梅花、柿の花、蕪、スミレ、夕顔、栗、などです。これらを丸型や四角やひし形の中に描き収めています。本当にやさしい動植物ばかりです。それに比べ西洋の家紋は、荒々しい鷲やライオンやハゲ鷹などです。西洋の家紋は戦う、闘争の象徴なのでしょう。ここが西洋と東洋の違いだと思います。東洋人は大自然と共生して生きていく智慧を持っています。これは農耕民族の特徴です。西洋は狩猟民族です。この違いが家紋にはっきりと出ています。
 最近日本人も家の家紋を知らない人が出てきました。檀家の方でお墓を建てなければいけなくなり、墓石に家紋を彫りこみたいが家の家紋を知らない。石材店の人が家紋全集を差し出し、それならばここから選んでください。すると、これが格好いいからこれにしますと決めていました。世も変わるものですね。

   
こころのはなし(第93回)2007.04.01

 3月29日、早朝の4時から車を走らせ日帰りで、和歌山県の高野山に行ってまいりました。お山では真言宗の布教師会研修会があります。布教師というのは真言宗密教の教え、弘法大師の教えを広めるために活躍する専門職のような役割です。高野山真言宗では布教師として活躍している人は約400人近くいます。それらの布教師の方が、新年度から新たに活動する活動方針や目的を再確認し、研修するのが毎年この時期なのです。ですからこれら400人もの人が一同に会することは年に一度ぐらいですので、高野山に登るということは旧知の人や友人とお会いする楽しみもあるのです。
 3月25日に能登半島地震があり、死者1、全壊121戸、重傷者23、軽傷者232、避難者1127、(29日午後2時半調べ、朝日新聞)という大災害がありました。被災した方々に心からなるお見舞いを申し上げます。
 私は、報道で地震を知ったときに、先ず頭に浮かんだのが、能登地方に居る友人は無事なのだろうかということでした。高野山布教師の中で被災地に住んでいる方がいらっしゃいます。その布教師の友人も29日には高野山の研修にこられるはずです。
朝10時近くに研修会場に入り、会場内を見渡して見ますと、被災したにもかかわらず友人が既にこられているのです。
「ああ、無事であったのだな、」と胸をなでおろしました。
友人は私の手を握り、「心配を掛けたな、有難う、君も元気で活躍しているか」と逆に心配をしてくれました。
よき友を持つということは本当に大切です。真の友人というのは、困っているときだけでなく、喜びのときはともに喜んでくれる人であり、色々な知識,智慧を与えてくれる人だと思います。


釈尊は法句経78番で次のように説かれます。

悪しき友と 交わるなかれ

いやしき人をも
侶(とも)とせざれ 心清き友と交わるべし
まされるものを とも侶(とも)とせよ


という詩です。釈尊は折りあるごとに、友達を選べと仰っておられます。昔から類は友を呼ぶという言葉がありまが、
善い人交われば、自然と善い事が身につき、悪人とばかり交わっていると、自然にこちらも悪いことばかり考えるようになり、悪の道にと陥りがちになる。悪を廃し、善につけと釈尊は説かれています。
先月高松刑務所で一人に被収容者がなくなりました。この人は8回も刑務所に入っていました。家の宗教が真言宗ということで、私が施設内で引導を渡しました。この人には妹さんがいて、妹さんに連絡しますと、最後の顔だけは見に行くけれど、葬儀には出ませんし、遺骨も引き取りません。ということでした。あとは刑務職員のみの立会いのもとで、葬儀を行いさびしく葬祭場に向かいました。家族は兄に今まで大変苦労させられてきたといいます。だから遺骨は引き取れないというのです。妹さんは今まで散々苦労を掛けられた私は兄を許すことはできない、だから遺骨を引き取らないということが、妹さんの精いっぱいの兄に対する抗議なのでしょう。自業自得といえばそれまでですが、本当にさびしい終末です。
釈尊はいくどともなく繰り返し、さとされています。
悪を廃して善につくことにより、人にも容れられ、世にも容れられ、この世で人並みな生活が営めることになりますと。

寺の檀家にお伺いすると一枚のカレンダーに目が留まりました。 
それが今月の言葉、「よい友達をつくろうよ」です。

花が蝶を呼ぶのでしょうか/ 蝶が花によってくるのでしょうか
ひとりぼっちはつまらない/ よい友達をつくろうよ/
花が咲かなければ蝶もこないし/ 蝶もこなければ花もつまらない/ よいともだちをつくろうよ。

やさしい詩ですが、私たちに善い友達を作ろうよと呼びかけています。自分が正しい道を歩まないと人は依って来ない、そして自分を高めることによってそれに相応しい真の友人を得ることできるのです。

 

       
   
こころのはなし(第93回)2007.03.15

 今年は暖冬と言われながらこの一週間は真冬に逆戻りです。気象庁が桜の開花予想を発表し、静岡などは3月13日に開花すると発表しました。私の住んでいる高松は3月17日と発表されましたので、寺の境内にある染井吉野のを見ますと、その時期に咲く気配は全然ありません。蕾のさきが赤みも帯びていませんので、今年も平年並みだろうと思っていましたところ、3月17日の開花予想が気象庁の入力ミスであったと訂正がありました。
 昔から、花の咲く順序は、梅、桃、桜と言っていましたが、いくら暖冬でも、桃を飛び越してまでは桜は咲かないでしょう。花屋さんの店頭に並ぶ桃は、開花を早めるために、室に入れて出荷したものです。

 中国の大衍暦(たいえんれき)の72候によると、新暦3月11日から10日ごろの言葉として「桃始めて華(さ)く」とあります。これは桃が花咲く時期という意味です。暦では今頃から桃の花が咲き始めるというのです。
さて、中国の大衍暦を作られた方は、唐のお坊さんで一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)という方です(683〜727)。またの名を大慧禅師といいます。
インド、中国、さらに日本に密教を伝えた空海まで、8人の祖師がいらっしゃいます。普通八祖大師といいます。その密教の教えを伝えた系譜(系統関係を図式に記したもの)があります。
その真言密教には二通りの系譜があります。一つの流れが付法(ふほう){教えを弟子に授けて後世に伝えること}の八祖と、もう一つ伝持(でんじ){仏法,戒法を受け伝えて護持すること}の八祖です。付法の八祖とは「広付法伝」に説く八祖、大日如来、金剛薩?、龍猛(りゅうみょう)菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、恵果和尚、弘法大師。の8人の祖師たちです。
伝持の八祖とは付法の八祖から、大日如来と金剛薩?が除かれて、善無畏三蔵と大衍暦を作られた不空三蔵が入ります。
龍猛菩薩、龍智菩薩、金剛智三蔵、不空三蔵、善無畏(ぜんむい)三蔵、一行阿闍梨、恵果和尚、弘法大師の8人です。
 
 この大衍暦を作られた一行阿闍梨は生粋の中国人で、姓は張、名は遂といいます。河北省の生まれ、幼少から聡明で、記憶力に優れ、21歳の時に父母を失い、荊州(けいしゅう。今の中国湖北省、湖南省の大部分)の景禅師について出家、天台の布算から数学と暦学を学んだ。後に大衍暦52巻を著します。善無畏三蔵、金剛智三蔵から密教を学び、大日経疏(だいにちきょうしょ)を撰しました。特に一行阿闍梨は算法、暦法、天文学者としても有名な方です。現在中国の切手に肖像が描かれていると聞いています。
 今回の「心の講話」は大変難しい話になりましたが、真言密教ルーツ知るには適当かと思います。

       
   

● こころのはなし(第92回)2007.03.01

 先月17日から23日まで家内と、私が習っている中国語の張 先生と一緒にオーストラリアのシドニーに行ってまいりました。
この旅行はシドニーに在住している私の弟子で、ウイリアム・和證斉藤師のお寺を訪問するのが目的です。お寺の名前は三鈷山、遍照光院、青山寺といいます。お寺を建立する時に、私がオーストラリアの名所であるブルーマウンテンから名を取って青山寺とし、山号の三鈷山とはブルーマウンテンにある伝説に因んで聳え立っている三つの奇岩、スリーシスターズから三鈷山と名づけました。
院号の遍照光院は弘法大師のご宝号である南無大師遍照金剛の遍照を頂き、お大師さまの教えのみ光があまねく照らす。という意味で付けさせていただきました。
 
張先生の参加は、先生の娘さんが昨年北京大学を卒業し、今年2月にシドニーの大学院に入学しました。張先生としては一度どのような下宿か見てみたいし、大学の様子をも知りたい。そこで私たち夫婦がよいチャンスだから一緒にどうですかとお誘いしたのです。娘さんをウイリアム・斉藤氏を紹介すれば、困ったときに相談もできるし、何か力になってくれるのではないかと考えました。
ウイリアムはシドニー在住29年になり、オーストラリア国籍を取得しているので何の心配も要りません。
 シドニー空港にはウイリアムのお弟子さんたちが私たちを迎えに来てくれています。丁度2月の18日は旧正月です。皆でシドニーのチャイナタウンに行き、張先生の友人でシドニーの中国大使館に勤めている方たちとともに招待を受け、中華料理をご馳走になりました。店の前では爆竹がなり、獅子舞が舞い正月らしさを演出していますが、日本と違ってオーストラリアは今真夏なので、正月の雰囲気がもう一つです。
 ホテルはハーバービュウホテル、ホテルからハーバーブリッジが一望でき、それは素晴らしいロケーションです。
実は私と家内と張先生は英語が全く駄目、旅行会話の本を持ち、ページをめくりながらの珍道中です。家内は案内してくれる外人に平気で英語訛りのような日本語で話しかけていきます。しかし、以心伝心というか、なんとなく理解しあえているのが不思議です。

滞在中、シドニー水族館、シドニータワー、またタロンガ動物園でコアラ、カンガルーを見たり、ブルーマウンテンに行き、スリーヒスターズという奇岩や、ユウカリの原生林から放出されるガスのために山全体がブルーの色に染まっています。何か神々しい山にみせられ帰路に着きました。
 
帰国の二日前には、かの有名なオペラハウスでのコンサートに招待を受け、ハウス内のレストランで食事、その後コンサートを鑑賞しました。ところが私たちは英語が分からないものですから、オーケストラの演奏曲目が何か、コーラスグループが何を歌っているのかさっぱりわかりません。他の観客は熱心に耳を傾けていますが、私と家内は眠気をこらえるのが精いっぱい、コンサートも終わりやっとのことで外に出ますと、ロックスの湾内に豪華客船クインエリザベス号と少し離れたところにクインメリー号が停泊しています。オペラハウスに入場する前にクインエリザベス号が湾内に入港してきました。
ロックスの岸壁は多くの市民で埋め尽くされ、その雄姿に見とれておりました。わが人生で二度とこの豪華客船と出会うことはないだろうと思います。ほんとうに幸運なことでございました。

帰国前日には青山寺でバーベキュウーパーティを開いてくださいました。シドニー日本人会の会長宮下さんご夫妻や、ウイリアム・和證斉藤のお弟子さんたちが集まり、ワインを傾けながら楽しい一時を過ごしました。この度の旅行中、和證師には本当にお世話になり、入国から帰国まで、本当に心を尽くしたお接待を受けました。彼はオーストラリア在住29年とはもうしますが、言葉の苦労はかったにせよ、この間並々ならぬご苦労があったと思います。生活習慣や考え方の違い、それを克服してオーストラリア人に真言宗の教えを流布することは並大抵の努力ではないと思います。人知れず海外で弘法大師の教えを広めるために命をささげている人がいるのです。昨年、高野山から海外開教の指定を受け、海外開教に対する助成を受けるようになりました。その助成はわずかではありますが、それが彼の今後の開教活動の少しでも励みになってくれることを祈りつつ帰国の途に着きました。


ホテルからダーリングハーバーを望む

ホテルからダーリングハーバーを望む

ハーバーブリッジ
ハーバーブリッジ
   
夜のオペラハウス
夜のオペラハウス
  ブルーマウンテン・スリーシスターズ
ブルーマウンテン・
スリーシスターズ
   
クイーンエリザベス号
クイーンエリザベス号
  家内・張さん 斉藤氏の子息とともに
家内・張さん
斉藤氏の子息とともに
   

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● こころのはなし(第91回)2007.02.15

2月1日の心の講話で釈尊の涅槃のことに触れました。この涅槃のことをもう少し詳しくお話したいと思います。

俳人松尾芭蕉は「涅槃会や しわ手合わせる 数珠の音」と歌っています。
太陽暦の二月十五日は釈尊が涅槃に入られた「涅槃会」の日です。今年の陰暦を見ますと、四月二日が「涅槃の日」です。

普通各宗派では釈尊が入滅された日に遺徳をたたえて勤める法会を「涅槃会」といいますが、高野山では「常楽会」と申します。
常楽会とは悟りの境地である「常、楽、我、浄」という四っの徳に由来いたします。
「常」とは永遠ということ「楽」は安楽ということ、「我」は絶対ということ、「浄」とは清浄、清らかということを意味しています。
つまり悟りの境地は、永遠の苦しみを超越した安らかな精神を有し、他のものに影響されず煩悩にも突き動かされない、絶対的に清らかなものであることをあらわしています。

釈尊はヒマラヤ山の南のふもと、チベットの釈迦族のご出身です。
釈迦族の王、浄飯王とその妃である摩耶夫人との間にお生まれになられた王子様で、ご両親がつけられたお名前がシッタルータ(悉達多)「すべての願いが成就した」という意味です。
釈尊には色々なお名前がございます。この釈尊というのは、お生まれになら
れた釈迦族の尊いお方という意味がございまして、この外に仏陀、とも申し
ます。この仏陀という意味は、目覚めた人、さとりを得た人、という尊称で
す。また無上覚者ともお呼びします。無上とは最もすぐれたさとりを開かれ
た人、という意味があり、次は釈迦無牟尼如来ともお呼び致します。また世
尊ともお呼び致します。
人間が生きていることは人間は何かを求めて生きています。しかし、この求めることについては、誤ったものを求めることと、正しいことを求めることの二つがあります。
誤ったものを求めるとは、自分が老いと病と死を免れるようにと願うことです。何人もこの老いること、病にかかること、死ぬことは免れることはできません。しかし、人は若くありたいと願い、病気にならないようにと願い、死なないことを求めていることです。
では正しいものを求めるとは、この誤りを覚って老いと病と、死とを超えた、人間の苦悩のすべてを離れた境地を求めることであると考えました。
私はいま、誤ったものを求めているに過ぎないと思い悩むようになり、日々心悩ます日々が続き、二十九歳のときについに出家の決心をされ、住み慣れた宮殿を後にしたのです。
そして、尼連禅河の林の中で激しい苦行を続けられたのですその苦行というとそれは激しい修行であったようであります。釈尊は自らの修行をこのように回想しています。
 「私は、過去どのような修行者よりも、現在のどのような修行者も、また未
来のどのような出家者よりも、これ以上のくぎょうをしたものはなく、またこれからもないであろう」と後に言われたほど世にもまれな苦行であったのです。
しかし、そうした苦行も得るところは何もなく、太子は六年の長きにわたった苦行を捨てたのです。太子は尼連禅河で沐浴し、身の汚れを洗い流し、スジャータという娘から乳粥の供養を受けて健康が回復したのです。

その後、静かに菩提樹の根方に座禅して、瞑想に入られました。
そして七日目の夜明けを向かえ、明けの明星を仰いだときに、忽然とおさと
りをひらかれ、仏となられたのです。これより太子は、仏陀、無上覚者、如来、
釈迦牟尼、如来、釈尊、世尊の名で知られるようになりました。それは太子三
十五歳、十二月八日の朝のことでありました。
お悟り開かれた釈尊は、六年間一緒に苦行した5人の出家者教えを説き、彼らを強化し、釈尊の弟子となりました。

このようにして、釈尊は伝道のたびを続けること四十五年、八十歳を迎え、旅の途中で病を得て、「三ッ月の後に涅槃に入るだろう」と予言されました。
釈尊はなおも旅を続ける途中、鍛冶屋のチュンダの供養した食物にあたって病が悪化し、病を押してクシナガラに入りました。
釈尊は城外の沙羅樹の林に行き、沙羅の大木が二本並び立っている間に横になりました。その時頭は北向き、右肩を下にして、顔を西向きにして横臥され、弟子たちに最後の教えを説かれました。そして静かに涅槃に入られたのです。
涅槃とはすべての煩悩が吹き消されたという意味があります。すべての煩悩を解脱し、最も安らかな境地に到ったのです。


 

       
   

● こころのはなし(第90回)2007.02.01

1月15日のホームページで、釈尊の涅槃について触れていますが、その前に釈尊のお名前についてお話いたします。
ここでは釈尊と言っています。釈迦族の尊い御方というので釈尊といいます。またお釈迦様ともお呼びします。これは釈迦族の出身の方という意味があります。この他にブッタという呼び方をします。ブッタとは覚られたお方という意味があります。では何を覚られたのかともうしますと、真理を覚られたということです。真理とは永久不変に変わる事のない教えです。例えば「この世は諸行無常である」。この世に存在するすべてのものは刻一刻と姿を変えて一瞬たりとも同じ姿をとどめるものはありません。これは真理です。
ですから、世の中の真理を覚られたという意味の「ブッタ(buddha)」と梵語(サンスクリット)でお呼びします。
さて、インド各地を巡って布教活動をされた釈尊は、体調を崩され北インド、クシナガラの沙羅林の中で頭を北に、顔を西向きにされて、手を頭の下にあてがわれて、弟子たちに最後の教誡(きょうかい)をされました。

釈尊が最後に弟子たちに説かれた戒めの言葉を紹介を致しましょう。経典には次のような描写から始まります。

時に夜はようように更けてきた。月明かりに星は澄み、風やんで流れ静かに、林の中は寂静として声もない。世尊は、あまね普くもろもろの弟子たちのために、また略(つづ)めては法の要を説きたもうた。
「弟子等よ、なんじ汝ら等は私が滅度(亡くなること)に入るのを見て、正法はここに永久に絶えたと思ってはならない。私はこれまでに汝等のために戒(いまし)めを制(とど)め法を説いてきた。汝等は私のなくなった後においては、必ずこれを敬って、闇で明かりにあい、貧しい人の宝を得たように尊ばねばならぬ。これこそ汝等の大師(おしえのきみ)である事を知って、私の世にあるときと同様に守るがよい」
このように呼びかけ、釈尊は入滅後の弟子たちの心構えを諄々とお説になり、安らかに涅槃に入られたのです。多くのお弟子さんは悲しみのあまり泣き、動物たちも、虫までもが悲しみにくれています。しかし、涅槃絵に描かれている釈尊だけが、いちばん安らかなお顔をしていらっしゃいます。それはすべての煩悩がなくなった状態。あたかも煩悩の炎が吹き消された状態なのです。これを涅槃といいます。そして釈尊は寂静(じゃくじょう)の世界に入られました。その日が2月15日です。

       
   

● こころのはなし(第89回)2007.01.15

 朝日新聞の1月13日、be on Saturday(ビーオンサタディ)に興味深い記事が掲載されていました。
 記事は茨城大助教授・磯田道史が、昔も今もの欄に「なぜ猫年はないのか」書かれていたので紹介させていただきます。
 十二支の動物は、国・地域によって異なる。日本では猫は入らないが、タイ、ベトナム、チベットでは猫が兎の代わりに、ちゃんと入っているらしい。
 子どもの頃、猫が十二支からもれた理由を聞かされた。「昔、十二支を決める動物集会が開かれた。その時、猫は鼠にうその日程を教えられたため、集会に参加できず、十二支に入れなかった。以後、猫は鼠を追うようになった」でも、これは非科学的だ。真実の理由は、猫の家畜化が遅かったから。干支の始まりは古代中国。2300年前にはもうあった。干支や十二支ができた時点で中国に猫を飼う習慣はなく、猫は十二支に採用されなかったのではないか。
 猫の家畜化に初めて成功したのは、古代エジプト人だが、彼らは、猫を大事にするあまり輸出を禁止。国外に密輸された猫は、古代エジプトの役人が諸国を巡って連れ戻したという。(平岩由伎子「猫のなった山猫」)。そのため、飼い猫は世界に広がらず、中国にも入れなかった。つまり猫が干支に入るのを邪魔したのは、鼠ではなく、古代エジプト人だったといっていい。
 東南アジアやチベットで猫が十二支に入っているのは、猫の家畜化が干支の普及より早かったためだろうか。新春、庭先の白猫を見ながら、ふと、そんな空想をした。と書いておられます。
 この記事を拝見して、ふと思いついたことがあります。それはお釈迦様が亡くなられた姿が描かれた涅槃図(ねはんず)があります。沙羅の林の中で息を引き取られたお釈迦様が、一段高い檀のようなベットに身を横たえています。頭は北向きに、顔を西向きにされています。そのお釈迦様の周りを多くのお弟子さん、天女、や神々が取り囲み悲しみにくれています。また沢山の動物や虫までもが描かれ、同じように悲しみにくれています。
その動物の中に猫が描かれていないのです。やはり2500年前にはインドにも猫が家畜化されていなかったのでしょうか。そのために涅槃図に描かれなかったのでしょうか。

 涅槃会や 猫は恋して 寄り付かず  という川柳があります。

旧暦の2月15日涅槃会の頃は猫は発情期だそうです。恋に狂った猫は遠出していたのか、お釈迦様の亡くなられた時に間に合わなかった。だから涅槃図には猫の姿が描かれていないのだというのです。
 さあ、どちらの説が正しいのでしょうか。やはりインドでも猫は家畜として飼われていなくて、あまり知られていない動物だったのかも知れません。
因みに涅槃とはサンスクリットでニルバーナといい、貪りと怒りと、愚痴を三毒といいますが、この三毒は我々の心を滅ぼす毒となりますから三毒煩悩といいます。この三毒がすべてなくなった状態を涅槃といいます。
亡くなられたお釈迦様がいちばん安らかなお顔をしています。それはすべての煩悩が吹き消された状態だからです。

 

       
   

● こころのはなし(第88回)2007.01.01

 新年明けましておめでとうございます。
弘憲寺ホームページにいつもアクセスしてくださる皆様には恙無く新年をお迎えのことと慶賀に存じます。
 先日、車を走らせながらラジオを聞いていました。アナウンサーが「皆さんお正月に見る夢を初夢といいますが、何時見る夢を初夢というのでしょう」とクイズを出していました。

「大晦日の晩、正月にかけて見る夢でしょうか?または1日の晩から2日にかけての夢でしょうか?」というものでした。
皆さんはどちらだと思いますか。広辞苑を引いてみると、元旦に見る夢。また正月2日に見る夢。とあり、古くは節分の夜から立春の明け方に見る夢。とあります。
 山家集に「年暮れぬ春来べしとは思ひ寝にまさしく見えてかなふ初夢」とあります。また、山本健吉編の最新俳句歳時記によると、正月元旦から二日に見る夢、とあります。獏枕(バクマクラ)といって、獏を描いた紙を枕の下に敷いて寝ると、凶夢を見ないという。獏は形は熊に、鼻は象に、目は犀に似て、尾は牛に、足は虎に似ていて毛は黒白の斑で、頭が小さく、人の悪夢を食うと伝えられ、その皮を敷いて寝ると邪気を避けるという想像上の動物です。 
獏枕子のよき夢をつゆ知らず     兜子
があります。私は朝起きると夢をほとんど覚えていません。ですから私は夢を見ていないのではないかと思いますが、実際はちゃんと見ているのだと思います。一度でいいから好い夢を見てみたいものだと思いますね。
 この初夢にほかにも次のような言い伝えがあります。、七福神を乗せた順風満帆の船の絵に、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」上からよんでも下からよんでも同じ歌が、書き添えられているものを枕の下に敷いて寝ると吉夢を見るといいます。
宝舟目出度さ限りなかりけり    虚子
  
新しき年の初春を迎える喜びが伝わってきます。正月を迎えたら素直に新年を喜び、家族揃ってお祝いをすることが大切だと思います。
 釈尊の説かれた法句経292番に次のような詩があります。

なすべきことを、なおざりにし、
なすべからざることをなす。
遊びたわむれ放逸な(今の瞬間にきずかない)者には、
煩悩が増大する 
             (法句経292)
真になすべきことというのはいったい何でしょうか。私たち人間は今この瞬間の連続で生きています。この一瞬、一瞬の積み重ねがその人の人生を形作っていくのです。あなたが今何をなすべきかをよく考え、実行することの大切さをお釈迦様は説かれているのです。正月を迎えたら素直に新年をお迎えしてお祝いをする。今なすべきことをよく認識してそれをきちんとやることです。
つねに今なすべきことに意識を向けてゆけば充実した今を生きることができるのです。

       
   

● こころのはなし(第87回)2006.12.15

 12月に入ってから急に多くなるのが喪中の葉書です。15日までに既に24通の葉書を戴きました。実は私も喪中なのです。今年の2月5日に94歳の父親が亡くなりました。本来なら喪中の葉書を出さなければならないのですが、父は94歳で亡くなりました。94歳ということは天寿を全うしたことです。天寿ということは天から授けられた寿命、まさに年については不足ありません。逆におめでとうと言ってあげたいのです。

私は天寿を全うしたということは、本来の世界である大宇宙に帰られたことなのだと理解しています。最愛の人と永遠の別れをするということは悲しく、寂しい事です。しかし、喪中のために生き方が消極的になったり、家庭内が暗くなったりすることは父は望まないだろうと思い、私はあえて喪中の葉書を出さずに置こうと決めました。

この喪中とは一体どのようなことでしょうか。広辞苑を見ると次のように書いてあります。
 死亡した人を追悼する礼。特に、人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠もり、身を慎むこと。親疎によってその期限に長短がある。と出ています。
一定期間身を慎むことを忌服(きふく)といい、忌み、喪といいます。本来は中国から伝わってきたもので、死を汚れたものとする考えかたから、人が亡くなった場合に、その家族のものは死の汚れが身の付いているので、人と交わらずにじっとしていて、故人の冥福を祈り、忌み明けを待って、はじめて普通の人間と同じ生活ができるようになるというものもあり、その期間休暇が与えられていたのです。この汚れとは汚れたとか不浄という意味ではありません。汚れとは気がかれるから来ています。気が萎えてしまう。気力がなくなってしまうということです。日本ではこの忌服というものは、江戸時代、徳川幕府によって決定づけられており、明治に入ると、本人と亡くなった人との続柄によってそれぞれの休暇期間(忌引)が定められているようです。
 以前は死に対する汚れの観念が強く、喪中の期間には肉食など生臭いものは食べない、人と交わらないというふうに忌み籠もっていたわけですが、現在ではこの考えが薄れて、すき焼きはするし、焼肉を食べに行くし、パーティーに出席はするなど、生活習慣も変わってきました。
 では現在は、忌服というのはどのような形で残っているかというと、49日が済むまでは、神事、祝い事には参加しない。つまり冠(成人式、元服)、婚、祭には関与しないこと、具体的に言うと神棚を祀らない。お宮参りをしない。家も建てない。地域の祭りに参加しない。個人や団体のお祝い事に参加しない、年賀状を出さないなどがあげられますが、現在では年賀状を出さないことだけが唯一喪に服している形として、普段の生活は全く変わらない人が多いのではないかと思われます。

 

 

       
   

● こころのはなし(第86回)2006.12.01

光陰矢の如し、当に時の流れるのが早く感じられる今日この頃です。今年は暖冬といわれて過ごしやすい日々が続きましたが、12月にはいると流石に寒気が南下して、上空1千メートルは0度の予想ですから、千メートル級の山は雪が降るかもしれません。
12月7日は暦の上では大雪(だいせつ)です。
 大雪とは旧暦の11月、新暦の12月7日、8日頃と記憶しています。この大雪は立冬からかぞえて約30日前後です。
このころになりますともう山の峰は積雪に覆われているので、大雪といいます。平地も北風が吹きいよいよ本格的な冬が訪れます。
これから日本海側の富山などではブリの水揚げが多くなるのではないでしょうか。

11月30日の朝日新聞に豊作無残という記事が出ていました。豊作で値崩れしている大根の価格を守るため、国が緊急需給調整に踏み切ったと書いてあります。これによって関西の一大産地、兵庫県たつの市御津町で廃棄処分がはじまったと写真入で紹介しています。このたつの市では生産量は例年、約5千トン、卸価格の平均は10`700円前後ですが今年は温暖のために大根が育ちすぎたことが影響し、価格が暴落して平均値が10`当たり341円に下がったそうです。
このため農家ではトラクターで次々と大根をつぶし、全国で約2800トンが廃棄されるといいます。本当にもったいない話ですが、農家にとっては死活問題です。大根を作るのには畑を耕し、種を蒔き、大根が育つにしたがって間引きをしなければいけませんし、病虫害の駆除もしなければなりません。大根の種まきは秋の彼岸頃と聞いていますが、寒くなり大根の需要が増えるころを見計らって出荷します。種まきから出荷までの約3ヶ月間は収入にならないわけで、これが温暖のため育ちすぎ、廃棄処分となると本当に泣くになけないつらさがあると思います。
約25f分の大根を廃棄する大西康文さんは、朝日新聞に「本当に胸が痛む」とコメントをしています。
この温暖化はやはり地球環境の悪化によるものとの認識を多くの人はお持ちだろうと思います。いま環境省では「ウォームビズ」に取り込んでいます。ウォームビズとは「暖房に頼り過ぎず、働きやすく暖かく格好よいビジネススタイル」のことだそうです。具体的には暖房を抑え、オフィースの室温を20度にすることを呼びかけています。このことは2005年2月、先進国に温室効果ガスの削減を義務づける京都議定書が発効し、日本では温室ガスの廃出量を1990年にくらべて6l削減することを約束し、その一環としてこのウォームビズの提唱となったのです。(環境省ホームページ)確かに未来に向けて地球を守ることは人類の使命でもあります。我々がこれからかけがいのない地球を守るためには何ができ、何をするべきかを考えていかなければならないと思います。すべての「いのち」が共存するために。
高野山真言宗では「いかせ いのち」をメインテーマとして活動しています。すべての命が共存する理想の世界を密厳国土(みつごんこくど)と表現しています。


 

 

       
   

● こころのはなし(第85回)2006.11.15

今年は暖冬と言われていましたが、11月7日の立冬を境に急に冷え込んでまいりました。ちょうど立冬の7日は強風が吹き、JR 瀬戸大橋線の列車が止まってしまいました。風速20メートルになりと列車の運行をストップさせるそうです。利用客もさぞ難儀な思いをしたのではないでしょうか。
 今年は本当に立冬の前日までは暑いくらいの日が続きましたが、しかし、太陽暦の11月6日は旧暦の9月16日に当たりますので、今までのポカポカ陽気は旧暦から見たら不自然ではないわけです。

急に寒くなった立冬の日の7日、香川県教誨師会(きょうかいしかい)の先生方と共に2年に一度の研修旅行に出発いたしました。このホームページをご覧の方は教誨師会とはどのような活動をしているかご存知と思いますが、 教誨師とは正確には宗教教誨師といいます。宗教教誨活動は民間の篤志家である宗教家が行刑施設に赴き、被収容者に信教の自由を保障すると共に、信仰により宗教的情操が涵養され、彼らに罪しょう感を芽生えさせ、更には更正の契機を与えていくことを主眼としています。

 さて、最近社会の情勢を見ますと、幼い子どもが被害にあうような痛ましい事件が続発していますし、凶悪な事件がおこり、国民の間に安全に対する不安が広がっています。その故に教誨師も多方面にわたり現状を把握しておかなければなりません。ですから年に何回かの研修を行っています。

今回は奈良少年刑務所の視察研修を実施いたしました。、天理教の教誨師の先生によるご好意で、高松からバスの提供をいただき、また天理教にある宿舎も提供してくださいました。
翌日8日、天理市から奈良少年刑務所に向かい、研修を受けました。はじめに施設側の担当の職員から施設の概要の説明を受け、その後に施設見学を致しました。

奈良少年刑務所は現在約850人が収容されています。明治4年奈良監獄として発足し、昭和21年に奈良少年刑務所と改称されました。
昭和29年県立奈良高等学校通信制課程の受講を開始し、昭和49年に同校の全科目の受講を開始して、多くの被収容者が同校の通信制課程を受講して必要な単位を履修しています。また色々な職業訓練が実施され、木材工芸科、ソフトウェア管理科、理容科など14種目の職業訓練を行って、出所後の社会復帰に向けての努力がなされています。
奈良少年刑務所の職員の方々は受刑者の入所から出所に至まで、あらゆる助言や指導を行い、そのご苦労に頭が下がる思いが致しました。

施設の広間に一幅の額が掲げられていました。

生まれかわることはできない
でも
生き方をかえることはできる

 この言葉がいつまでも私の心に残っています。
 

 

 

       
   

● こころのはなし(第84回)2006.11.01

 今年もあと11月、12月の二ヶ月となりました。11月のことを霜月といいますが、雪待月とも申します。雪待月は陰暦11月の異称です。そろそろと北のほうから雪の便りが聞こえてくるころです。暦の七十二候(一年を自然現象や草木、鳥、虫、けもの、魚などを観察し、その時候を表現したもの)に「草木黄落す」とあります。霜が降り、草木が黄ばんで落ち始める新暦の10月29日から11月2日頃を指します。
この七十二候を見ると、昔の人は本当によく自然界の姿を観察しているなと感心いたします。

さて、話は変わりますが、つい先日中学校の同窓会が開かれました。みな昭和16年か17年3月までの生まれで、昭和32年に藤沢市立明治中学を卒業いたしました。それから数えると早や50年になります。みな64歳か65歳になります。65才と言えば高齢者の仲間入りです。65歳から国民年金をもらえる年令となります。この人生の節目に同窓会をという呼びかけに喜んで参加いたしました。

集合は神奈川県藤沢市のJR 辻堂駅前です。朝7時半の集合で私は出発直前にバスに乗り込みました。既に参加者全員が顔を揃え、毎年お会いする友達もいれば50年ぶりという友人もいます。それが忽ちに打ち解けて何のこだわりもなく50年まえの中学時代に戻ってしまいます。
車中アルコールが入ったためか話が盛り上がり、いつの間にか相模湖を通り、中央高速に入りひた走りに今日の目的地である大町温泉に向かいました。途中安曇野に寄ってわさび畑を見学し、普段食べもしない山葵入りのソフトクリームを食べながら散策を致しました。そして夕方ホテルに入り露天風呂、宴会と夜の更けるのも忘れて話に興じました。
翌日はまたとない快晴に恵まれ、大町アルペンラインを走り、関電トンネルトロリーバスに乗り換えて黒部ダムに向かいました。その長いトンネルを抜けると一変に視界が開け、1,470mの黒部ダムに到着です。立山はすでに雪を戴き、美しい姿を現しています。そして黒部湖遊覧船に乗り紅葉を楽しみました。紅葉は七十二候の言葉通りに「草木黄落す」で全山黄色の葉で包まれ、幻想的な景色に吾を忘れて見入ってしまいました。
この余韻に浸りながら黒部ダムを後に致しました。

儒教の思想を本系として、老荘・禅学の説を交えた処世哲学書である菜根譚に
「新知を結ぶは、旧交を敦(アツ)くするに如(シ)かず」とあります。新しい友人を求めるよりは、古い友人を大事にしたいという意味です。まさに今回の同窓会は旧交を敦くした二日間でした。

安曇野の水車大町りんご園

黒部湖の紅葉アルペンラインの紅葉

立山を望む紅葉

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● こころのはなし(第83回)2006.10.15

 昨年から高松の中條財団というところが企画して、高松市内24箇所にお茶席を設け一週間前の日曜日に大茶会を開催しました。お茶席会場は栗林公園や市内にある寺院、料亭、またお茶室、などなどそれぞれ趣向凝らして終日お茶人を楽しませてくださいました。全会場に参加した人は千人を超えました。
 会場となる料亭などは点心を出し、屋島近くの寺では琴の演奏で茶人を楽しませ、 弘憲寺も昨年の第一回からこの催しに参加し、今年は94人の方を接待いたしました。弘憲寺では座禅とお粥で持て成しを致しました。
 
寺では毎月一回密教禅塾という座禅会を開催し、座禅のあとでお粥を差し上げ仏道修行の食事作法(じきじさほう)を行っています。私は食教育を提唱しています。いま学級崩壊が深刻な問題になっています。授業中に突然立ち上がり教室内をうろうろする子、突然奇声を発する子に先生は手を焼いているといいます。なぜこのようなことが起こるのでしょうか?学級崩壊の前に家庭崩壊があります。正しい生活習慣を身に付ける場が家庭です。
その躾けの基になるのが食教育です。夕食は家族揃って食事をする。食事のときに親は子供たちの様子に気をつけ、会話の中で子供の体調不良や学校であった事に耳を傾けることが大切です。また食事の時には食べる前に「頂きます」食べたあとには「ごちそうさまでした」といい、料理を作ってもらった人への感謝の気持ちと、野菜を栽培してくださった農家の人や、動物のいのちに対して感謝の気持ちを表すことが大切です。
 聞いたところによると、いま小学校では給食のときに、手を合わせ頂きます。と言わせないと聞いています。給食費を払っているのになぜ手を合わせ、頂きます、ごちそうさまを言わなければいけないのかと学校に抗議した親がいるといいます。事実かどうか一度学校に問い合わせたいと思っています。

阿部首相は美しい日本を作ると公約しました。公害のない環境をつくることも大切でし、学力向上を図ることも必要です。しかし、もっとも大切なのは精神教育が高められ、精神文化が高くなることだと思います。それには食教育を通して家庭教育を充実させ、しっかりした価値観を身に付けさせることです。
一灯園同人の石川 洋三の著作で「一日一日を生きる」ぱるす出版に次の詩が載っています。

これほど、物が豊かになって
なぜ、空しいのか。
捨てるほどの充足に恵まれながら
なぜ、"足りない"のか。
それは、物を捨てることによって
"心まで捨てている"
おごりに気づいていないからである。

「福」という字は
一口で食べられる田をもつことに
満足を知ることの大切さを教えている。
"足らない、足らない"が心の貧しさである。

また

食卓に座ると
なぜかお母さんは権力者になる。
子供を叱るだけでなく
主人を叱り
年寄りをないがしろにし
近所の悪口におよんでいく。
食卓を
叱る場や
人の悪口をいう場にしてはならない。
ほめることがあったら
食卓の場でほめることである。
家庭教育の基本は
家庭環境をつくることにあるのだ

味わい深い言葉です。

       
   

● こころのはなし(第82回)2006.10.01

  私は9月26日から29日までの4日間、実弟と共に中国福建省厦門(シアメン)アモイに行ってまいりました。弟は私の実家である高野山真言宗のお寺の住職をしています。今年の2月5日に実父が94歳で遷化しましたので、父の墓を建立しなければなりません。そこで、弟はこの際お寺の歴代住職のお墓を造ろうと思い立ちました。
個人の墓でしたら墓石を建てればよいのですが、歴代のお墓となるとそれに相応しい墓を建立しなければなりません。日本の石材店を通して中国の石材工場に発注いたしました。

石材工場は厦門から車で2時間ぐらいのところにある泉州というところにあります。町は石材工場や石材店ばかりのところです。
埃っぽい町の中に藝寶(芸宝)という石材工場はありました。
既に発注していた五輪塔とその廻りを取り囲む外壁の部分は完成しておりました。その製品が間違いなく出来ているか否かを確かめるための訪中でした。この出来上がった墓石の数々はこれから厦門の港から船出して、年内にはその製品はお寺に到着すると思います。

私は今回泉州の石材工場を二三訪問して驚いたことがあります。それはどの工場でも従業員の健康管理が全くなされていないことです。どの工場でも従業員はモウモウたる石塵の中でマスクもつけず排塵対策がまったく出来ていないところで働いていることです。

石材加工の一番怖い病気は塵肺という病気です。塵肺というのは色々な粉塵を吸入したために起こる肺の病気です。
特に金属鉱山、土石工業、陶磁器製造業、ガラス工場などに従事する人々に起こる職業病といわれています。日本では所見があれば労災認定される病気ですが、中国においてはその配慮が全くなされていないのが現状です。石材加工業に従事する人たちは若くして死亡する例が少なくありません。中国は人口が13億人といわれています。ここに世界第一の経済発展を続けています。確かに中国に訪れるたびにその変貌を目の当たりに致しますが、中国で全く立ち遅れているのが人権と生命尊重の配慮ではないでしょうか。
今中国は公害によって河川は汚れ、到る所にその弊害が出ています。また交通ルールを全く無視しています。中国で車に乗せてもらうと気が休まるときがありません。ドライバーが勝手に交通ルールをつくって運転している感じです。必ず何年かの後に経済発展の付けがまわってくると思います。
そうした中で、泉州の開元寺に参拝しました。この寺は唐代の686年に創建され、大雄殿(本堂)をはさんで東に鎮国塔、西に仁寿塔という南宋時代の石塔が立っています。喧騒の町を離れ、緑が多い開元寺の境内に立つと、歴史の重みと静寂さに救われます。これこそ本来の中国の姿ではないかなと感じました。

       
   

● こころのはなし(第81回)2006.09.15

  暑い暑いと言っていたのに、白露を過ぎると今まで暑くて寝苦しかったのが嘘のように秋風が立ち始めました。白露は「しらつゆ」のことで、秋気も本格的に加わり、野草にもしらつゆが宿り秋の趣が感じられる頃です。今本堂脇にある弁天堂の前に二株ほどの萩の花が咲いています。萩の花は本当に可憐な花です。日本の秋を彩る花では最たるものです。万葉集には百四十首以上もあり、万葉の時代から萩の花は日本人のこころをとらえていたのでしょう。

 山上憶良(やまのうえのおくら)の秋の七草の歌に、

萩の花 尾花葛花(くずばな) なでしこの花
女郎花(おみなえし)また藤袴(ふじばかま) 朝がほの花

とあります。
 俳句歳時記を見てみると、芭蕉の句に
一つ屋に遊女も寝たり萩と月
があります。一茶の句には
    小男鹿(さおじか)の喰いこぼしけり萩の花
また正岡子規は
萩咲いて家賃五円の家に住む
の句を残しています。何れも初秋の風情が伝わってまいります。

こうして萩が満開になる頃、秋のお彼岸がやってまいります。この彼岸は春秋の二回あります。仏教が伝わった飛鳥時代、1444年前の欽明天皇時代です。そのとき物部氏(もののべし)と中臣氏(なかとみし)が日本に仏教を受け入れることに反対致しました。一方仏教を信仰し帰依したのが曽我氏です。
 その後、仏教を受け入れるか否かで争いは子供の代まで続きました。この戦いで聖徳太子は曽我氏につき、必勝を祈って四天王に願をかけ勝利をおさめたので寺を建てました。この寺が大阪にある四天王寺です。このような中で、仏の教えをもって国の安定を図ろうとしたのです。そして日本の国を作っていくためには、精神的な支柱がなくてはならないと考えました。そのために一年中で一番季節の良い時期であり、太陽が真東から昇り、真西に沈む春分の日、秋分の日を中日とし、中日の前後三日づつ、都合七日間を彼岸としたのです。この七日間はただの七日間ではありません。
簡単に申しますと、自分自身を見つめなおす一週間なのです。
それは

(1)永久に変わらない教えである真理を基とし、(智慧)
(2)その真理(おしえ)をもって心を鎮めて正しい生き方について思慮し、(禅定)
(3)正しい生き方に向かって努力をしていく(精進)
(4)努力していく中で、なかなか思うようにならず苦しくとも耐え忍んでゆく(忍辱)
(5)規律ある生活を進める(持戒)
(6)心貧しき人には教えを施し、物質的に恵まれない人には物をもって施す。(布施)

彼岸の彼(か)の岸とは心安らかな理想の世界です。現実のこの世の中は欲望によって悩み、苦しみ、憂いの世界であり、思うようにならない世界です。この苦渋に満ちた世界から心安らかな世界にいたるのが彼岸の本来の意味です。

       
   

● こころのはなし(第81回)2006.09.01

 お盆がすんで忙しさが遠のき、一段落している時、前から企画していたサマーキャンプに参加いたしました。
参加者のメンバーは「愛の会」の会員で、会員が14名、愛の会の構成メンバーは全員職種が違います。
この会は会員の1人に喫茶店を経営している方があり、その喫茶店にお茶を飲みに行く間にお客さん同士が自然に会話し、友好の輪が出来て愛の会が生まれました。

喫茶店主の奥様の名前愛子さんの名を取って愛の会が誕生しました。既に結成以来17,8年ぐらいになるのではないかと思われます。
この愛の会は毎月定期的に集まるわけでもなく、たまにお茶を飲みに行って、今年の夏はキャンプに行きたい、花見をしたい。観月をしたい等、この企画はどうでしょうかと提案しておくと、愛子さんが取りまとめて、実行に移されます。
このようなことで、今年のサマーキャンプは香川県の西に位置する丸亀市の沖合いにある「本島」に決定し、8月19日、20日に11人で実行に移されました。

本島は瀬戸内海の塩飽諸島(しわくしょとう)の中の一つの島です。この塩飽諸島は周囲16キロの本島を中心に、世界一の長大橋である"瀬戸大橋"が横たわる櫃石(ひついし)黒岩、広島、手島など大小28の島々の総称です。この瀬戸内海に浮かぶ島々の景色は絶景で、特に夕日が沈む頃は息を呑むほどの美しさです。

本島から瀬戸大橋を望む本島から瀬戸大橋を望む
(↑クリックすると大きい写真を表示します)

 

この「しわく」の名は、島の浜辺で生産された製塩の"塩焼く"また、狭い備讃の瀬戸の潮が大小の島かげにぶつかりあって、複雑に渦巻いて流れる"潮湧く″の転化とも言われています。

特にこの塩飽諸島が有名なのは、廻船業を営む塩飽水軍(しわくすいぐん)です。この塩飽水軍は鎌倉時代から室町にかけて
"十七、八が二度候かよ、枯木に花が咲き候かよ"と勇躍して玄界灘を押し渡り、中国大陸から安南(ベトナム)カンボジャへと交易を求めた海の男たちのことです。この不適な男たちは「和寇」と呼ばれ、後に水軍、船方、水夫として世界の海で素晴らしい活躍を見せるのです。

塩飽水軍が世に出るのは織田、豊臣時代を経て徳川300年へと受け継がれますが、信長の石山本願寺攻めに味方して、堺港に出入りする特権を得ました。塩飽衆は秀吉の島津攻め、北条攻め、朝鮮出兵での海上輸送の功労として、これらに携わった650人にたいし、塩飽の島の1250人に対し、千二百五十石の領地が与えられ人名(にんみょう)と称したのです。以降、塩飽諸島は650人の船方衆の共有財産としてその中から選ばれた4人の年寄りたちによって交代で政治が行われ、その政治が行われたところが「塩飽勤番所」で、現在国の史跡に指定されています。

この塩飽船方衆が最後に名を上げたのが、日本人の手で太平洋を始めて横断した咸臨丸(かんりんまる)の快挙です。このとき乗船した水夫50人のうち、じつに35名が塩飽出身の水夫です。
時代は万延元年(1860)1月、日本の世明けは塩飽の男たちに握られていたのです。

 また本島は24もの寺院があり信仰の島であります。数多くの文化財が古きよき時代を語りかけてきます。私たちが宿泊した笠島地区は国の「伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた集落です。笠島地区は北に開けた海に沿って、本瓦葺に漆喰塗りの白壁や、なまこ壁に千本格子の窓をあしらった町並みがひしめき、それらがどっしりと落ち着いた佇まいを見せています。
 私たちが宿泊した大倉邸は、江戸時代に立てられた建物で、愛の会のメンバー11人はそこで自炊して古き時代の重みを感じ取りました。

江戸時代の民家群江戸時代の民家群

江戸時代の民家群大倉邸
江戸時代の民家群

塩飽勤番所塩飽勤番所
(↑クリックすると大きい写真を表示します)

 

       
   

● こころのはなし(第80回)2006.08.15

  朔日から始まった盆お盆の檀家廻りも無事15日に終わることが出来ました。今年は期間中雨も降ることもなく、予定通り順調に日程を消化することが出来ました。しかし、今年は猛暑に見舞われ、連日35度前後の間を推移し、100ccのモーターバイクで走るのですが、道路は太陽に照らされてアスファルトが軟らかくなっています。また道路の前方を見ると陽炎が立っています。
 
お蔭で思考能力も低下したのでしょか、お経を終えて檀家さんの家を出てスタンドをあげないまま運転し、直線から四差路に差し掛かりウインカーを出し左折を始めたときに、自然にバイクは左方向に傾きます。その時仕舞い忘れたスタンドが道路に接触をし、バランスを失って交差点で横転してしまいました。本当に一瞬の出来事でした。
 
幸いにも怪我もなく安心いたしましたが、二三日したときに手の甲に青いあざがあるのを見つけました。強く打ったのでしょう、怪我といえばこの一箇所だけですみました。
兎に角今年の夏は本当に暑うございました。無事に健康で今年のお盆を勤めることが出来て内心ホッとしています。私も来年は高齢者の仲間入りです。年々体力は衰えるでしょうから、何時まで盆経に回れるか不安ですが、今年も無事お盆を過ごすことが出来たという感謝の気持ちのほうが大きいのです。

私と息子たちが毎日衣を着けますが、肌襦袢は汗で濡れてしまい、白足袋は直ぐに汚れてしまいます。その肌襦袢と白足袋を息子二人と私の3人分を毎日洗濯をしてアイロンをかけてくれます。そのお蔭で毎日気持ち良い襦袢を着ることが出来ます。これを妻は何十年といやな顔をせずにしてくれていることに頭が下がり、感謝の気持ちでいっぱいです。

よく良妻賢母という言葉があります。この意味は良妻であり賢母であるということと広辞苑にはあります。良妻とは何でしょうか?主人の言うことを素直に聞いてくれる奥さんでしょうか。主人を支え家庭をしっかり守ることを言うのでしょうか?良妻賢母の定義は難しいですね。だから広辞苑では「良妻であり賢母であるということとしか書いてないのでしょう。

皆さんはこのような言葉をご存知ですか。講談社発行の「話のねた・使える話いい話」の中に出てくる言葉です。それによると「アイウエオ夫人」という言葉があります。「アイウエオ夫人」とは「ア」は朝寝坊、飽きっぽい。「イ」は色っぽい、粋な感じ、「ウ」は嘘つき、うわべだけの付き合い。「エ」はエゴイズム、自分本位のことです。「オ」は怒りっぽい。そんな性格をもっている奥さん。
また「サシスセソ夫人」というのがあります。この「サシスセソ夫人」というのは戦前派のしっかりした奥さんを指します。「サ」は裁縫上手。「シ」は始末の「シ」です。「セ」は洗濯上手。「ソ」はすべてに掃除が行き届いている人。
次は「カキクケコ夫人」です。「カ」は家庭管理です。一言で言うと管理能力を持った人。「キ」は教育です。子供の教育を学校や塾まかせにしない人で、自分自身も色々なカルチャースクールなどに通い、生涯教育に励む人です。「ク」は工夫です。生活に必要な創意工夫のできる人です。「ケ」は計算です。税金、保険、年金計算など数字に強くなければならない時代になりました。「コ」は行動力です。積極的に社会活動に参加していく人です。
皆さんはどのタイプを選ぶでしょうか。

 

       
   

● こころのはなし(第79回)2006.08.01

  長い梅雨が明け、一気に強烈な太陽の光が照り付けます。
梅雨明け宣言があった前日の7月25日は会議のために高野山におり、午後から帰宅するために高野山駅に向かう途中、蜩(ひぐらし)がツクツクツクと鳴き深山の幽玄な趣きが感じられました。
 帰宅した26日は四国地方が梅雨明けと発表され、それと同時に境内のあちこちから油蝉が一斉に鳴き始めました。それからというものは連日の35度を越える暑さのために、衣を着けるわれわれは暑さとの戦いです。涼しそうに見える夏の衣といえども最低3枚の重ね着が必要です。肌襦袢、白衣、衣です。朝の勤行が6時半に終わり、自室に戻ると肌襦袢はもうびっしょりです。

 いよいよ8月1日からお盆の檀家巡りが始まります。本来は8月13日から15日の3日間でまわりますが、交通事情や檀家数によって朝8時から始まり、一日数十件の檀家の家々を巡り、お仏壇の前に正座して、その家の精霊を回向します。仏壇は平均してその家の奥まった部屋に祀られていますので、とにかく暑いのです。ですからこの頃はペットボトル持参で出かけますが、行く家、家で冷たいお茶を用意してくださいます。ありがたいのですが、これを全部いただいていると、お腹の調子が悪くなるので、前から、熱いお茶だけをいただくようにしています。ところが最近息子から、お父さんが熱いお茶を所望するから、息子さんも熱いお茶を飲んでくれるのだろうと、熱いお茶が出る。息子はこれに困り果てて、「お父さんが熱いお茶しか飲まないので、私まで熱いお茶が出て困っている」というのです。ですからこの頃はペットボトルを持参して途中で生ぬるくなった水を飲むことにしています。このようにお盆のお経が15日間続くのです。

お盆はインドから始まりました。正しくはサンスクリットでウッランバナと言います。仏教がインドから中国に伝わり、仏教経典が翻訳されました。そのときサンスクリットの発音を漢字に当てはめました。これを音写といいます。ですからウッランバナを盂蘭盆(うらぼん)としたのです。さらに盂蘭を取り、最近ではお盆というようになりました。

このウッランバナは「倒懸(とうけん)」と訳されます。「逆さに吊るされた苦しみ」という意味です。餓鬼道に堕ちた人は、逆さ吊りにされたほどの苦しみを受けるとされています。

経典に「盂蘭盆経」があります。それによれば、釈尊の十大弟子のお一人で神通第一とされている目連尊者という方がいらっしゃいました。ある時目連尊者は神通力で今は亡き母親と尋ねると、餓鬼道に堕ちて苦しんでいるのを知り、何とか母を救おうとして釈尊の教えを受けて、修行僧の行が終わる7月15日に修行僧たちに百味の供養を行いました。その結果、目連尊者の母は餓鬼道から救われたのです。お盆の行事は7月13日から15日の3日間行われますが、地方によっては月遅れのお盆、8月に行われたり、旧暦で行われるところもあります。盂蘭盆は要するに先祖の供養、亡き人々の供養のために行われます。

       
   

● こころのはなし(第78回)2006.07.15

 天気の長期予報を見ると7月20日までは梅雨マーク、この梅雨の合間に強烈な夏の太陽が否応無しに照り付けます。15日の気温が35度もありました。

 この暑さは法衣を着て歩く僧侶にとっては我慢大会のようで、着ている肌襦袢は直ぐに汗で濡れてしまいます。しかし、暑くても毎朝の諸堂における読経は欠かすことが出来ません。今朝も早朝5時から山門を開き、本堂不動明王の寶前で読経、世界平和と人々の安穏を祈り、続いて弘憲寺の鎮守である弁天堂を拝み、6時の鐘を撞いてから再び持佛堂と拝んでゆきます。持佛堂の本尊は真言宗の中心の仏である大日如来、ここには歴代の住職の位牌、弘憲寺の開基である讃岐の藩主生駒親正(いこまちかまさ)公夫妻の位牌や檀信徒の霊を祀り、更に先の太平洋戦争で亡くなられた霊と、7月3日の高松空襲で横死した方々の霊を祀っています。

 寺の境内に高さ17メートルの庵治御影石で作られた五重塔があります。この庵治御影石は御影石の中では最高の品質を誇ります。この五重塔は始め庵治の石工である5人の方によって手彫り造られ、大正天皇即位の御大典記念として皇居に建てられるはずでしたが、五重塔が余りにも大きすぎて輸送方法がなく、しばらく庵治の海岸にそのままになっておりました。

時が過ぎ、太平洋戦争で日本が敗戦し、戦後次々と戦地から兵隊さんの遺骨がお帰りになり、その遺骨が弘憲寺で遺族に引き渡されました。しかし、混乱のときでしたので引き取り手のないままお寺に百体余りの遺骨が残され、それを憐れんで先代の住職長尾義典僧正がその五重塔を大戦で亡くなられた方の供養塔にと発願し、建設費用を作るために筆舌に尽くせないご苦労によって昭和24年に完成を見たのです。この塔を平和塔と名づけました。
 

以来今日まで約60年にわたって供養を続けているのです。毎年暑い夏が来ると酷暑の南方で戦い、また極寒の地で飢えて亡くなり、戦病死した兵隊さんがどのような思いで死んでいったかを思いますと胸が痛みます。私は終戦時3歳でしたので戦争を知りませんけれど、悲惨な戦争であったことを胸に刻み、先代住職の意志を受け継ぎ、毎日供養の読経をすることが私の不戦の誓いでもあり、世界平和を心から願う意志表示でもあるのです。
 今年も戦後62年目の夏がやってまいりました。

       
   

● こころのはなし(第77回)2006.07.01

 6月27日に四国地区教誨師(きょうかいし)研修会が高松で行われました。この研修会の研修メインテーマは「時代に答え宗教教誨の原点を見つめて」副題として「互いの命に共感する宗教教誨をめざして」のもとに行われました。
 講師としてひょうご被害者支援センター理事・自助グループ六甲友の会世話人である高松由美子さんをお招きいたしました。演題は「犯罪被害者の現状について」です。
 高松さんの息子さん聡至(さとし)さんは1,997年8月、(当時15歳)は10人の少年により集団リンチで殺害されました。事件後加害者の10人の少年たちは全員が逮捕され少年院に送致されましたが、その遺族としての心の苦しみ、悲しみを時には涙を流しながらお話してくださいました。
聡至さんがなぜ殺されなければならなかったのか、殺された聡至さんはどんなに苦しんで亡くなったのか、怒りや憎しみが聞いている教誨師の私たちにまで伝わってきます。
この事件以後高松さん一家の生活が一変致しました。まず日常生活が手につかない、事件のことだけを考え悩む毎日のために、することなすことがちぐはぐになってしまう。そうしている中で高松さんは、加害者と会い彼らの口からなぜ聡至さんは死ななければならなかったのか真相を聞きたい。そこで事件の直後に加害少年の親を全員呼び、二つの約束をさせました。一つは加害者の少年が少年院を退院したらその日に謝罪に来ること、二つ目は毎年来る聡至さんの命日には顔をだし、近況を知らせることの二点を約束させました。加賀者の少年たちと会うと憎しみだけが増幅されるのではないか、遺族の感情からすれば当然のことです。その後一年八ヵ月後に全員が、少年院から退院いたしました。
その退院後、訪ねてきた少年たちは全く反省の色がなかったそうです。
高松さん夫妻は息子さんの死の真相を知るために10人の少年とその保護者を相手取り、損害賠償を求めて地裁に提訴いたしました。ところがその直後に加害者少年3人は集団暴行事件を起こし、逮捕されました。少年院に収容されている時本当に、懺悔し更正を誓ったかは疑問です。事件からはや9年が経とうとしています。最愛のわが子を殺された遺族が、憎しみ、恨み、極限まで苦しみその悔しさを抑えて加害者と対面することは、想像をこえた苦痛が伴います。高松さん夫妻は真に加害者が反省し、更正の道を歩んで欲しいと願っているのではないでしょうか。
高松さん夫妻は、一生涯心が晴れることはないと思いますが、この被害者の苦しみや命の大切さを被収容者に伝えていきたいと思っています。

       
   

● こころのはなし(第76回)2006.06.15

 平成17年5月18日に、参議院本会議において「刑事施設法および受刑者の処遇等に関する法律」が満場一致で可決されました。
 その結果、明治41年に制定された監獄法がこの新法によって大きく変わりました。その内容についてはいちいちここに書くことは出来ませんが、被収容者の権利や義務関係や職員の権限が明確になりました。
 現在日本の刑事施設は犯罪の増加とともに、過剰収容の状態にあります。その収容者のために教育的処遇日を設け、われわれ宗教教誨師の法話や写経などによって少しでも心情が安定するように、また更正に向けての色々な教育的な手立てを講じています。 

6月9日、その教育的処遇日に日本画家である南 正文(みなみ よしのり)先生(世界身体障害芸術家協会会員)を高松刑務所にお招きをして、800人の被収容者の前で講演をお願いいたしました。「出来ないこととしない事はちがう」という演題でおはなしが始まりました。

 南先生は1951年堺市で生まれました。小学校3年生の春休みに製材業を営む父の手伝をしていました。始めのうちは動力が回っているので緊張して手伝っていましたが、慣れてくると恐ろしいという感覚がなくなりました。その結果ちょっとした油断から両腕が機械のベルトに巻き込まれて失ってしまいました。
 
九分九厘助からないと宣告されましたが奇跡的に一命を取り留めました。しかし、それからの南さん苦しみが始まりました。
両手がないために何も出来ない。鼻の先が痒くてもかけない。トイレに行きたくても出来ない。ついに自殺をも考えたといいます。

14歳の時に近所の主婦から「京都に両手のない大石順教さんという尼僧さんがいる。口に筆を加えて絵や書を書く。そして多くの人を救っている」と紹介され、両親とともに大石順教さんを訪ねるのです。 
順教先生は「私の弟子になりたかったら、これからは絵を描きなさい。そして絵は口に筆を加えて描きなさい。そして大阪堺からこの京都まで一人出来なさい。この条件が守れるなら弟子にしましょう」と言われました。

堺から京都まで来るのが大変です。キップは胸のポケットに入れてもらい。近くにいる人に頼むのです。しかし、親切に買ってくれる人ばかりではない、「はじめから人を当てにして」としかる人がいる。無視する人もいる。色々な人に出会いました。
ところが順教さんは「よかった、よかった。キップを買ってくれた人も買ってくれなかった人もみんな大事な人なのだよ、先生なのだよ」と教えてくれました。

今まで出来ない、出来ないと思っていましたが、一つのことを何時間もかけて出来るようにする。例えばトイレに行くためにファスナーを下すための針金を工夫する。色々チャレンジして失敗もします。その失敗が次のことを教えてくれます。出来ないこととしない事とは違うと南さんはお話くださいました。
800人の被収容者は食い入るように南先生を見つめ、最後に先生が口に筆をくわえ、色紙に「出来ないことと しない事はちがう」と書かれ、職員が色紙を聴衆に向かって示すと800人の聴衆から「オー」というどよめきの声が上がりました。
先生の講演しているお姿を拝見していますと、先生が菩薩のように思えてきました。この講演を聴いたものが一人でも更正してくれたらという思いを持ちながら刑務所を後にいたしました。


       
   

● こころのはなし(第75回)2006.06.01

 このごろ頻繁に高速道路を使用するものですから、最近自分の車にETC装置をとりつけました。ETCとはノンストップ自動料金収受システム、車を止めずに有料道路の利用金を支払える機能のことです。今まではそれこそ有料道路の料金所で車を止め、通行カードを取り、次に有料道路を降りるときに料金所で料金を精算していました。料金所には集金する職員の方がいらっしゃって、通行カードと現金を渡すと「有難うございました」とお礼をいいますから、私も「ご苦労さん」とか「ありがとう」とほんの僅かな会話を交わして通行していました。

今度はETC装置を付けたお蔭で料金所をノンストップ通過してしまいます。通過するとき車を20キロ以下に減速して料金所を通過します。、ETC装置を感知して前方にあるバーが開いて難なく通過することが出来ますが、今まで何回も料金所を通過しましたが、バーが上がる間際までこのバーは本当に上がるのだろうかという不安が付きまといます。

さて、私はもう一つETCになって物足りないことがあります。それはETCが「ありがとう」というお礼を言わないことです。今まで現金を支払っていたときには料金所の職員が「有難うございました」とお礼を言いましたから、こちらもそれに答えていました。ごく短い会話であっても心が通うものがありました。
今は全く心が通わない。便利さゆえに人と人との縁が薄れていきます。これが今の世の「無関心さ」につながっているのでしょう。

この原稿を書いているときに、フットむかし読んだ事のある本の中に出ていた詩を思い出しました。その本は祥伝社発行の般若心経入門です。著者は松原泰道師です。
 この本の中に詩人谷川俊太郎さんの詩が出ています。

「急ぐ」        谷川俊太郎
こんなに急いでいいのだろうか
田植えする人々のうえを
時速二百キロで通りすぎ
私は彼らの手が見えない
心を思いやる暇がない
この速度は速すぎて間が抜けている
苦しみも怒りも不公平も絶望も
すべて流れてゆく風景
こんなに急いでいいのだろうか
私の体は速達小包
私の心は消印された切手
しかもなお間にあわない
急いでも急いでも間にあわない
 
今の時代は急速な変化を遂げています。人間は便利なように快適に過ごせるように、能率的に目的が達せられるように生活していますが、時として非能率的な空間の中に身をおいて、ゆったりと生活することも必要ではないでしょうか。


 

       
   

● こころのはなし(第74回)2006.05.15

 前回ホームページ心の講話の中で、「四難の徳」のお話をいたしました。第一番目に人間としてこの世に生を受けたこと、とあります。四難の「難」は「ありえないこと」「なかなかないこと」の意味です。
  
人間としてこの世に生を受けたことは「なかなかないこと」という意味です。考えてみると本当にこの世に生を受けたことは「ありがたいこと」です。地球の誕生から35億年、初めてこの地球上に命が誕生し、その命が脈々と受け継がれながら私の命が誕生したのです。その頂いた命が成長し、やがて衰えていく、この世に存在する命はすべて生滅変化しているのです。しかし、私たちの命だけでない、すべて形あるものは生滅変化していくので、永久に変わらないものは何一つ存在しないのです。
 私の命、すべての命はただ一度だけのいのちです。その与えられたいのちを本当に生かさなかったら生きてきた甲斐がありません。前に宮越由貴奈ちゃんの詩を載せたことがあると思いますが、もう一度この詩をあじわっていただきたいと思います。

 長野子ども病院に長期入院している子どもたちは日々病と闘っています。この子ども病院に宮越由貴奈ちゃんが入院していました。神経芽細胞腫という病気です。由貴奈ちゃんは院内学級で受けた理科の授業で「乾電池の実験」を学んだ後に詩を作りました。
            

              「命」 宮越由貴奈(小学校4年)
             

              命はとっても大切だ
              人間が生きるための電池みたいだ
              でも電池はいつか切れる
              命はいつかはなくなる
              電池はすぐにとりかえられるけど
              命はそう簡単にとりかえられない
              何年も何年も月日がたってやっと
              神様から与えられるものだ
              命がないと人間は生きられない、でも
              「命なんかいらない」といって
              命をむだにする人もいる
              まだたくさん命が使えるのに
              そんな人を見ると悲しくなる
              命は休むことなく働いているのに
              だから、私は命が疲れたというまで
              せいいっぱい生きよう
            
      電池が切れるまで
            子ども病院からのメッセージ
             すずらんの会編 角川書店

由貴奈ちゃんは11歳で短い命を終えました。
由紀奈ちゃんは命の大切さを伝えるためにこの世に生まれてきたのだと思います。

平成16年の自殺者は32,325人です。阪神大震災の犠牲者が6,433人ですから自殺者は震災の6倍です。自殺率は世界一、毎日94人が自殺している計算になります。自殺者の年齢は60歳以上の人たちが第一位、次は50歳から59歳までの人たちです。
なぜ人生の経験豊かな人が自殺するのでしょうか?
自殺者の7割が「誰にも死にたい気持ちを相談していない」ということです。自殺の動機は一位が病気やアルコール依存症、ついで経済的な問題、生活問題、離婚など家庭問題と続きます。
 釈尊が2500年前に説かれた生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦の四苦八苦といわれる人間の苦しみの本質は、釈尊が説かれた時代から今日までなんら変わっていないのです。
真に変わらないのは「法」といわれる真実の教えしかないのです。
この真実の教えを釈尊や、弘法大師空海上人はお説きになられたのです。

       
   

● こころのはなし(第73回)2006.05.01

  この世で一番美しい言葉は「ありがとう」という言葉ですこの「ありがとう」を漢字で書くと、災難の難という字を書き、有るなしの有るという字を書いて「有り難し」と読みます。「ありえない」「なかなかない」ことという意味があります。 「なかなかありえない」から感謝の気持ちがそこに起こるのです。
 実はこの「ありがとう」というのは仏教の考え方を表す言葉です。「難値難遇(なんちなんぐう)」という言葉もあります。「値い難し(あいがたし)遇い難し(あいがたし)と読みます。また経典には「人身受け難し、今すでに受く、」とあります。
 このように本来「ありがとう」はこの世に生まれることの難しさ、また仏の教えにこの世でめぐり合うことの難しさをおしえているのです。
 
仏の教えの中に四難の徳があります。
1、 人間としてこの世に生を受けたこと。
2、 せっかく受けたこのいのちを大切にすること。
3、 そのいのちあるうちに仏と出会うこと。
4、 その仏から正しい教えを受けること。
の四つです。この世に人間として生まれてくることは容易なことではありません。そして今の一日をすべてのいのちに生かされていることのなんと有り難いことでしょうか。本当に「有難う」の一言に尽きます。

さて5月14日は母の日です。インターネットで調べてみると、母の日は一説によると古代ギリシャ時代に神々の母であるリーアに感謝するための春祭りから発祥したといわれています。母の日にカーネーションが選ばれたのは、母への愛の象徴だからです。カーネーションの赤を用いるのは花言葉が真実の愛、愛情、情熱などの意味合いがあるからかもしれません。またお母さんがすでに亡くなられている方は白のカーネーションを贈るといわれていますが、花言葉が尊敬、純潔の愛なので白になったのかとも思われます。

この母の日が日本で始まったのは何時ごろかと調べてみると明治の末期ごろ、1,915年(大正4年)に教会ではじまり、少しずつ一般に広がったと伝えられています。昭和に入ると3月6日を母の日としたようですが、頃日は丁度皇后様のお誕生日であったからだそうです。現在のようになったのは戦後のことで森永製菓が告知を始めたことがきっかけとなったようですが、バレンタンイやクリスマスなどみなキリスト教の行事ですが、純粋な信仰から始まった訳ではなく、商業ペースに乗せられて盛んになったのです。

なおアメリカでは1900年代のヴァージニア州が起源だといわれています。1905年に、アンナ・ジャビスという人の母親が亡くなり、母を追悼したいという気持ちから1,908年5月10日フィラデルフアの教会で白いカーネーションを配りました。これがアメリカで行われた母の日だそうです。この風習がアメリカの全土に定着し、1914年そのときの大統領ウイルソンが5月の第二日曜日を母の日と制定しました。 http://www.hahanohi.info/origin.html

何時の時代でも自らを生み育ててくれた恩は計り知れないものがあります。
父母恩重経に「己れ生ある間は、子の身に代わらんことを念い、己れ死にいたる後には、子の身を護らんことを願う」とあります。親というものは一時も子どものことを忘れず、いつも子供を守ろうと心がけ、自分が死んだ後におよんでは子を蔭から護ろうと念うものです。

一億の人に一億の母あれど、わが母にまさる母ありなんや

誰が詠んだ歌かは分かりませんが、親に対する想いというのは何時の時代のも変わらないものです。
また「心地観経」に「母在ます時を日中となし、悲母亡き時を日没と為す。母在ますときは皆円満、母亡きときはことごとく空虚」とあります。
母を失った不幸ばかりは生涯取り返すことが出来ませんが5月14日母の日には、母に対する感謝の気持ちを表そうそうではありませんか。

       
   

● こころのはなし(第72回)2006.04.15

今年の開花予想が例年より早いという報道でしたが、お寺の開花は4月6日でいつもの年より大分遅咲きでした。13日現在で散り初めたところです。すでにところどころに青葉が出てきました。開花の間中雨が多く、また強風もが吹き黄沙(砂)現象で本堂の縁側などは真っ白です。本当は真黄色といったらよいのでしょうか。この黄沙現象は皆様もご存知のように、中国大陸北西部で黄色の砂塵が空を蔽(おお)い、ジェット気流に乗って日本に下降する現象です。
 私は20数年前、香川県善通寺にある弘法大師空海和尚がお生まれになった誕生所、総本山善通寺が募集した中国西安の青龍寺
参拝団に参加したことがあります。その頃の青龍寺は現在のように立派な本堂もなく一面の麦畑でした。麦畑の中に唐の時代に青龍寺があったという一つの石碑が建っているだけで、麦畑を見渡すと、建物といえば遠方に刑務所の塀が見えるだけのそんなところでした。その後青龍寺跡は中国政府の手で発掘調査が行われ、いくつかの遺跡が発掘されたと聞きました。 
幸いにも平成10年に再び西安を訪れる機会に恵まれ、同じ場所を訪れてみますと、景色が一変していました。見渡す限りの麦畑であったところが住宅や商店が立ち並び、青龍寺跡には日本の多くの篤信者によって建てられた見事な伽藍が出来上がっていました。
 二度の西安訪問でただ一つ共通していたことは黄沙現象でした。西安の町がどんよりと曇り、滞在中黄沙のためにただ息苦しかったことを覚えています。しかし、毎年日本でも黄沙現象のためにどんよりとした空模様になると、不思議に西安を思い出すのです。またこの黄土の砂塵が遠いタクラマカン砂漠や黄土高原から運ばれてくるのかと思うと何か懐かしさを覚えるのです。また空海和尚が密教を学ぶために長安(現在の西安)の青龍寺にご滞在されていた時も、黄沙のためにどんよりとした空模様であったのかと思いをはせるのです。
さて、平成18年は善通寺が創建されてから1,200年の年に相当いたします。善通寺は空海大師の父君、佐伯善通卿(さえきよしみつきょう)のお屋敷跡と言い伝えられております。境内にはお大師様が産湯を使われた産湯井戸もございます。この創建1,200年祭を平成18年4月29日から6月15日まで開催します。

関連行事としては
◎ 御影堂秘仏本尊・瞬目(ひめき)大師像特別ご開帳。
チベット密教結縁灌頂
◎ 善通寺薪能
 
展覧会
◎ 創建1,200年「空海誕生の地善通寺」展
◎ 「密教のほとけー曼荼羅・仏像・仏画―」展
弘憲寺の仏画「十一面観音曼荼羅」が出展されています。
講演会
◎ 立松和平講演会 「人の救いについて」

等など。
詳細お問い合わせは
郵便番号 765-8508
香川県善通寺市善通寺町3−3−1 総本山善通寺
TEL 0877−62−0111  
URL http://www.zentsuji.com/

       
   

● こころのはなし(第71回)2006.04.01

ライブドアの堀江前社長は証券取引法違反で逮捕され、いま東京拘置所に収監せれていますが、取調べを受けるにしたがって粉飾決算が明るみに出て、窮地に追い込まれています。
堀江社長の経営を見ると、何かマネーゲームのような感じです。
また勝ち組の象徴である六本木ヒルズに入り、時価総額世界一になると豪語していましたが、天国の生活から一転して奈落の底に転落してしましました。まさに砂上の楼閣のように一瞬にしてその栄華も潰えてしまいました。
 江戸時代の浮世草子の作者で俳人であった井原西鶴という人がいました。「好色一代男」や「好色一代女」などを著しました。その作品の一つに「世間胸算用」にこんな話があります。
 当時、長崎に京から下ってきた一人の小商人(しょうあきんど)がいました。生来頭がよく、勤勉で銭一銭無駄にしないで食事も外食もせず、極度に経営を合理化して、長崎に逗留している間女遊びもせず、枕元にソロバンと手日記を離さないほどで、20年間一生懸命働きましたが一向に金持ちにならない。
 その頃、同じ京の生糸や商で、長崎に下った人で大金持ちになり、今や番頭に長崎の店をまかせ、自分は京でのんびり風流な暮らしをしている人々が何人もいました。そこで彼は成功の秘訣を尋ねると、次のような答えが返ってきました。
「要するに、商売は商人心(あきんどごころ)がなくては絶対に成功しません。それは社会の動きを観察し、来年は値が上がると思ったら、大資本に任せて買いまくり、高値で売る、投機の心、一か八かの賭けごころです」というのです。
 井原西鶴はここで商人の心・投機の心を諸悪の根源どころか、商人の理想のこころがまえとして描いています。
 ライブドアの堀江前社長の欠点は次々と事業を拡大するまではよかったのですが、法を犯してまで儲けようと、世間を欺いき経営者として確たる正しい理念がなかったことです。
そこで、先ほど井原西鶴が言った「商人ごころ」という言葉はなんと真言宗のよりどころとする「大日経」に出てくるのです。
それによると「商人の理想は、正しい商行為(正しい商売)を通じて、世の中の人々の幸福を増進することである」と説いています。

今でも商売の神様といわれている松下電器の松下幸之助さんは「商売戦術三十三か条」に次のように書いています。
「商売は世に為、人のための奉仕にて利益はその当然の報酬なり」といわれています。
父の相場の失敗から9歳のときに奉公に出され苦労して世界のナショナルまで育て、商法の何たるかを身をもって体得された松下幸之助さんの珠玉の名言だと思います。


 

       
   

● こころのはなし(第70回)2006.03.15

 奈良の東大寺二月堂の修二会(しゅうにえ)のクライマックスである籠松明が始まりました。関西では二月堂のお水取りがはじまると春になるといわれています。東大寺は皆さまもご存知の通り、大仏(大毘盧遮那如来・だいびるしゃなにょらい)を本尊とする総国分寺として有名です。今は華厳宗の総本山ですが、もとは南都六宗(華厳・三論・法相・律・成実・倶舎)と平安2宗(天台・真言)の八宗の兼学の道場とし受けつがれた寺です。
特に空海は810年(弘仁元年)東大寺別当になられ、勅を奉じて真言院灌頂堂を建立し、現在でも東大寺真言院では空海を祀り、年に一度和歌山の高野山から僧侶方が出仕して、東大寺僧侶方と共に真言宗の所依の経典である般若理趣経をとなえてご法楽を捧げます。

さて、話を前に戻しますが、二月堂お水取りというのは3月1日より14日にわたって行われる修二会(しゅにえ)の中の一つです。私たちはお水取りというと籠松明(かごたいまつ)を欄干からかざし、火の粉を散らす行事と思っていますが、それだけではございません。修行のお坊さまたち(錬行衆)が修二会が始まる前からお堂に篭り、精進潔斎して修二会の準備にいそしみ、その中で私たちの目に触れるのは、松明を振りかざす時だけなのです。

この東大寺二月堂は開祖である実忠和尚が笠置山に参篭して、夢の中で十一面観世音菩薩が罪を悔い懺悔(さんげ)する行法を拝み、これを人間界に移して行おうとしたのが始まりだと伝えられています。すでに1200年も連綿と続けられている行事なのです。

東大寺の修二会は僧侶たちが自らの犯した罪を二月堂の本尊である十一面観音に懺悔して、そのときともに国の安泰と生きとしいけるものの幸福を祈るのです。
1日から14日までの夜、大きな松明が錬行衆によって二月堂の回廊で振り回され、回廊下にいる群衆の頭の上に火の粉が降り注ぎ、一年の厄除けを祈ます。
特に3月13日は修行僧(錬行衆)が夜中の一時過ぎに若狭井戸に下りて香水を汲み本尊である十一面観世音菩薩のご寶前にお供えをすることからこれを「お水取り」というのです。

この修二会が1200年もの昔から連綿として続き、東大寺のお坊さまが人々の安寧のために誰の目にも触れず、ひたすらに祈ってくださっていることは実に尊く有難いことです。お水取りがすむと本格的な春を迎え、またお彼岸をお迎えます。


 

       
   

● こころのはなし(第69回)2006.03.01

 弥生3月になりました。寒い寒いと言っていた2月とお別れかと思うとなにか心が弾む思いがいたします。今日檀家さんの家にお伺いしましたら床の間に桃の花がいけてあり、その華やかさに、春を実感いたしました。この3月の異称は沢山あります。例えば建辰月、花月、嘉月、桜月、花見月、春惜月、蚕月、称月などまだ異称は沢山あります。この弥生という和風月名は木草弥生い茂る月(きくさいやおいしげるつき)つまり草木がいよいよ生い茂る月の意味で、「きくさいやおいずき」がつまって弥生となったという説が有力だと暦辞典(柏書房)にあります。また「風雨あらたまりて草木いよいよ生ふるゆえに、いやおい月といふをあやまれり」という説明もあるそうです。
また今は「いやおいの約転。水に浸したる稲の実のいよいよ生い延ぶる意」とする説もあるそうですから、3月は何れにしろ草木が生長する月なのでしょう。
  
 この文章を書いて途中で庭に出て草木を観察してみると、なるほど緋寒桜は赤い蕾をつけていますし、蕗の頭はすでに成長して花を咲かせています。また他の木々も枝先から小さな芽を出していますし、自然の営みというものは凄いなと感心しています。
 あらゆる草木がいっせいに芽吹くころ、3月は真言宗の寺院にとっては大切な月なのです。それは弘法大師の正御影供(しょうみえく)があるからです。

正御影供と申しますのは、今から1085年前の承和2年3月21日の寅の刻、午前4時ごろに御年62歳をもって高野山にご入定(にゅうじょう)され、御法体を奥の院のご廟にお祀りして大師信徒は今なお生きてご活躍くださっている仏として、衆生をお救い下さっている弘法大師さまに信仰の誠を捧げて、現世安穏後生浄土のお祈りをしているのです。
お大師様のご入定をなぜ正御影供というのかと申しますと、「み影を奉安して生身供(しょうじんぐ)をお供えするからです。

この「お生身供」と申しますのは、お大師様は死んだのではなく、今なお生きませるおん身をもって、人々を助けるためにご苦労下さっているのだという信仰によるものです。しかもその正御影供の法要は延喜11年に醍醐天皇が弘法大師の謚号「しごう(おくりな)」を賜ったときから、これを永遠のきまりとして毎年奉修するように勅命がさがったときから行われるようになったのです。本山であります高野山はもとより、各地の寺院で正御影供を勤めるようになって現在に至っているのです。私の居ります高松では旧暦の3月21日に勤めますから今年は4月18日が旧暦の3月21日に当たります。

       
   

● こころのはなし(第68回)2006.02.15

 真っ白な椿が中庭に咲いたその日、父がなくなりました。93歳でした。平成10年に特別老人ホームに入り、約八年間ホームに入院していました。入院した理由は夜徘徊をするようになったからです。父はタバコを吸っていたもので火事が怖いからだと弟から相談がありました。私はなるべくならそのような施設に入れずにと思っていましたが、自分は四国の現在の寺に入寺し、父を引き取ることができません。ついに弟に面倒をかけることになりました。

 弟はこの八年間父親名義の土地を切り売りしながら父の入院費用を捻出しました。昨年弟から電話があり、「兄貴最後の土地を売却してもいいか、これが父名義の最後の土地だよ。承諾書を送るから記名捺印して欲しい」ということでした。弟は今まで私に対して一度も費用を出してくれといいませんでした。その分弟の負担が大きかったと思います。

私も上京するたびに実家に寄り父を見舞っていましたが、近年特に衰えがひどく、数年前から緑内障のために失明をしてしまい、暗黒の中の生活でした。また父の耳元で大きな声で私の名を言っても、頷くだけでした。自分は何もしてあげられない、父の白髪の頭を撫ぜるだけ、父が入院してしばらく経ったある日、「もう私は寺に帰れないのかな」と一言つぶやきました。
その言葉が訪ねるたびに思い出され、父に対するいとしさが胸に追ってくるのでした。

父は寺の長男として生まれ、昭和11年に高野山に登り修行し、
帰ってから召集を受け、横須賀海兵隊福田部隊に入隊しました。父は戦争のことはほとんど話しませんでしたけれど、一度だけ
私は戦地に赴くとき、乗っていた潜水艦がアメリカの軍艦から魚雷を受けたがお陰で不発だった、命拾いをしたよ」ということでした。終戦は中国の海南島で武装解除を受け帰国し昭和24年に住職になりました。以来50年余住職を務めて弟に住職を譲り、名誉住職となりました。

父は本当に物静かな人で兄弟みな怒られた記憶がありません。本当に穏やかな人で清僧そのものでした。しかし、一代で本堂を再建し、また寺の墓地を造成し多大な功績を残しました。戦後苦労して寺を維持し、私たちを育ててくださった父に何もしてあげられなかったことに悔いを残しますが、父のお位牌に中興の二文字を入れて感謝を表しました。

「寶泉寺中興権小僧正密道和尚不生位」

いま私の机の上に既に亡き母と一緒に撮った父の写真が置いてあります。
写真を見ていると走馬灯のように思い出がめぐってきます。
現在の心境はただ「お父さん有難うございました」というそれだけでございます。

       
   

● こころのはなし(第67回)2006.02.01

ライブドアの堀江貴文氏は、時代の寵児といわれていました。
寵児とは時流に乗ってもてはやされることをいいますが、若干33歳で時価総額、株価で換算すると一兆円を越す企業集団を率いていました。
いま勝ち組の人たちの象徴である六本木ヒルズ、に事務所を構え、次々と企業を買収し、たとえば高松に本社がある通販の会社のセシールはライブドアが700億円で買収いたしました。
ところが堀江社長は拝金主義そのもので、金さえあれば何でもできると勘違いし、その錬金術も法を犯してまで頂点に立とうとしていました。ですから彼は2004年に「稼ぐが勝ち」という本を書き、「誤解を恐れずにいえば、人の心はお金で買えるのです。女は金について来ます」と豪語しています。
彼は30億円のジエット機を持ち、キャシュカードもゴウルデンカード、プラチナカードの上を行く、ブラックカードを持っています。このカードはお金を使うのは無制限というカードです。
このように完全に金銭感覚が麻痺してしまっています。
若干33歳で頂点に上る前で、惨めにも東京地検特捜部に逮捕され、一夜の夢のように、一瞬にして栄華もつい潰えてしまいました。
このようなことを仏教では「天人の五衰(ごすい)」といいます。極楽で天人のような生活をしていても、天人でさえも時として地獄の世界に落ちることを譬えて「天人の五衰」といいます。たとえば歌手が歌がヒットし人気絶頂にありますが、いちど人気が衰えると誰も相手にしてくれない。これも天人の五衰です。
天人とは天衆ともいい欲界色界にすんでいる生命をもって存在するもの、生あるもの、古くは衆生と漢訳し、玄奘三蔵以後は有情と漢訳した。
その天界の衆生が寿命が尽きて死ぬときに示す五種類の特徴があります。これは倶舎論というお経に出てまいります。
天人の五衰には大の五衰と小の五衰があります。
大の五衰
衣服垢穢 衣服が垢でよごれる。
ずじょう頭上かい華萎 頭の華鬘がな萎えてしまう。
身体臭穢 身体がよごれて臭気を発する。
えき腋かかんりゅう下汗流 わきの下に汗が流れる。
不楽本座 自分の座席を楽しまない。

小の五衰
楽声不起 楽しい声が起こらない。
身光こつめつ忽滅 身体の輝きが急になくなってしまう。
浴水ちょしん著身 沐浴したとき、水が身体に付着してしまう。
ちょきょう著境ふしゃ不捨 まわりの光景に執着してしまう。
がんもく眼目すうしゅん数瞬 目をさかんにパチパチする。
この天人の五衰はどんなに有頂天(うちょうてん)に住んでいても必ず衰えることがあるの喩えに使います。
平家物語に、おごれる者久しからずただ春の世の夢の如し、たけきひとはついに亡びぬ偏に風の前の塵に同じ。とあります。
 
やはり世の中の正しい教え(法)を依りどころとし、規範をもととして正しく生きていかなければなりません。それが仏さまの教えです。
七仏通戒偈 七仏とは釈尊は七人目で、それまでの先人が代々実行してきた教え。
諸悪莫作  もろもろの悪をなすことなく
衆善奉行  もろもろの善を実行し
自浄其意  自らその心を浄くする
是諸仏教  これがもろもろの仏陀の教えである。

中国唐の詩人は白楽天  道林禅師
「三歳の幼児でも知っているが、八十歳の老人でも行う事は難しい」ということを説かれています。
幸せになるとは何か、物質に恵まれていることが幸せなのではありません。物質的に恵まれなくとも心豊かにいきることが本当の幸せなのだということに気づかなければなりません。

 

       
   

● こころのはなし(第66回)2006.01.15

つい先日新年をお祝いしたのにもう小正月の15日、近くの神社で1月15日はどんどん焼きがありますとポスターが貼ってありました。このどんどん焼きというのは正月に行われる火祭りの行事です。地方によってはどんどん焼き、さいと焼き、オンベ焼きなどと呼ばれています。正確には1月14日の夜から15日の朝、長い竹を何本か立て、注連飾りや書初めなどを持ち寄って焼きます。その火で焼いた餅や、みかんなどを食べればその年の病を除くといわれています。子どものころお寺では15日は小正月だからといって、柳の枝に紅白の小さな餅を沢山つけて仏間にお飾りをしていたのを思い出します。確か餅花といったように記憶しています。仏間に紅白の餅花が備えられると、華やかで何かうきうきした様な気持ちになったことが思い出されます。
昔から農耕民族はそうした節目節目に行事を通して季節を実感し、五穀豊穣を祈ったのでしょう。

また1月15日は奈良の若草山の山焼きです。この山焼きは一説によると東大寺と興福寺の境界争いを水に流すために行われたという説と、若草山の山上にある古墳の霊を慰めるためだとかいわれていますが、現在は病虫害を駆除することを目的としているようです。因みに山焼きの燃焼時間は40分ぐらいだそうです。
この小正月を過ぎればお正月気分ともおさらばです。また欲望の世界へ逆戻りです。

 私は13日の日に高松刑務所に赴き、今年初めての教誨に望みました。はじめは心新たにして、被収容者に般若心経の写経をしてもらおうと写経のセットを持参したのですが、みんなの前に立ち話し始めると終わらなくなり、ついに一時間話し続けました。
どのような話をしたかというと、般若心経の話です。
最近私は「生きて死ぬ智慧」と「いのちの日記」(小学館)という二冊の本を読みました。この二冊の本は柳沢桂子さんが書かれたものです。
柳沢さんはコロンビア大学大学院博士課程を修了、慶応義塾大学医学部分子生物学教室、三菱化成生命科学研究所に勤務しマウスを使った発生学において世界的に先駆ける成果を残しますが、原因不明の難病によって研究者として未来も人間としての希望も奪われます。病名すら特定されない絶望の日々。ついに寝たきりとなり尊厳死さえ決意するにいたりますが、奇跡的に抗うつ剤が功を奏しました。(生きて死ぬ智慧の帯封より抜粋)36年間の闘病生活の中で般若心経と出会い、般若心経の説くところの「執着を離れる」ということを、また空とは何かということを、身をもって体得されるのです。
人間は極限まで苦しまないと本当のことが分からないのかもしれません。

       
   

● こころのはなし(第65回)2006.01.01

皆さん明けましておめでとうございます。
何時も弘憲寺のホームページをご覧になっていただき厚く御礼を申し上げます。

年末は寺の行事が続くために年賀状が何時も駆け込みです。数年前までは印刷した年賀状に一言書き加えていたのですが、この頃はプリンターで印刷したものをそのまま送ってしまいます。
 自分宛に届いた年賀状に何も書かれていないとスーと見てそのまま仕舞い込んでしまいますが、頂いた年賀葉書が自筆で書かれていると、食い入るように読むものです。自分の葉書はただ出したというだけで何の愛想もない、それが分かっていながら毎年続けているのです。また息子に住職を譲ってもう7年にもなりますと、手紙もほとんど住職宛で、私宛はグット少なくなり世代交代を否が応でも感じずには居られません。
 しかし、お正月のお祝いだけは、昔ながらのしきたりで厳格にそれを守っています。息子たちは台所で毎日食事をしているように気楽にお祝いをしようと主張します。しかし、一度妥協すると
昔ながらの行事や作法は伝承されなくなります。
 簡略化するというのは確かに楽でいいのですが、何十年も何百年も受け継がれてきた日本の伝統の良さは失われてしまうのです。
 お寺の正月のお祝いは家族全員がそろうと言うことを基本といたします。お祝いのお膳に着く前に、諸堂の仏様にお給仕をしなければなりません。仏様には仏さま用のお祝いのお供えが用意されます。仏飯の器に3センチ角ぐらいの餅を入れ、その上に大根を薄切りにして載せ、それに昆布を小さく切ったものを振り掛けてお供えするのです。そのほか三宝に季節の野菜や、乾物を載せお供えいたします。それを三が日毎日取り替えてお供えするのを慣わしとしています。
仏さまのお給仕が済みますと、家族のお祝いになります。床の間に讃留霊王神の掛け軸を掛けます。讃留霊王とは讃岐(香川県)の神様です。
この神様は、日本武尊の第三番目の王子です。因みに岡山県の吉備津姫は日本武尊の奥さんです。
その昔、瀬戸内海を荒らしまわっていた大魚を讃留霊王が退治しし、人々の難儀を取り除きました。退治した大魚を引き上げましたが、それが腐敗したのかその毒気に当たって讃留霊王はじめ八十八人の家来たちも倒れてしまいました。そこで山から流れ出る清水を全員に飲ますと息を吹き返しました。現在その清水が湧き出る場所が八十八(やそば)という地名で残り今でも清水がコンコンと湧き出でています。現在その場所でトコロテンが売られ、八十八(やそば)のトコロテンとして有名です。
 後に讃留霊王が亡くなり、塚を建てて祀り、その脇に法勲寺(ほうくんじ)が建ちました。それが白鳳時代のことです。この法勲寺こそ現在の弘憲寺の前進です。時は経て、戦国時代に秀吉の中老職にあった生駒親正(いこまちかまさ)公が讃岐の藩主になり、その子一正(かずまさ)が親正公の没後、法勲寺を現在の高松に移し、弘憲寺と名を改めて現在に至るのです。
この間歴代の住職が、営々と続けてきた仕来たりを私の時代で変えることはできません。まだこの先何代も続くであろう寺の伝統と格式は守っていかなければなりません。今年も粛々とこのお正月の仕来たりを守っています。

       
     
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